契約書はお読みになりましたか?
王宮の大広間は、秋の収穫祭を祝う華やかな空気に満ちていた。
金糸の刺繍が施されたカーテンの向こうでは楽団が軽やかな旋律を奏で、円卓には宝石のように彩られた料理が並んでいる。王国中の貴族が一堂に会するこの夜会は、社交界最大の催しだ。
私、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルクは、いつものように壁際で控えめに佇んでいた。王太子殿下の婚約者として注目を集めることには慣れていたが、華美な立ち振る舞いは性に合わない。それよりも、各領地の代表と穀物の出来高や交易路の状況について情報を交換する方がずっと有意義だった。
異変が起きたのは、宴もたけなわの頃だった。
不意に楽団の演奏が止み、広間の中央に王太子エルヴィンが進み出た。金色の髪に青い瞳、均整のとれた長身。絵に描いたような王子の姿だが、その表情には見たこともない冷たさが張りついている。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
よく通る声が広間に響き、貴族たちのざわめきがぴたりと止んだ。
嫌な予感がした。殿下の視線が、まっすぐに私を射抜いている。
「――よって私は、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルク公爵令嬢との婚約を、ここに破棄する」
満場の貴族たちが息を呑んだ。グラスを取り落とす音が、静まり返った広間にやけに大きく響いた。
シャンデリアの灯りが揺れた。いや、揺れたのは私の視界だったのかもしれない。
十二歳の時から六年間、当たり前のようにそこにあった「婚約者」という肩書きが、たった一言で剥がされた。
けれど、不思議と涙は出なかった。
隣に寄り添うようにして立つ男爵令嬢メリッサが、勝ち誇ったように薄く微笑んでいる。柔らかな亜麻色の髪に、潤んだ碧眼。楚々とした佇まいの彼女は、半年ほど前から殿下の傍に現れるようになった。
「殿下、リーゼロッテ様はわたくしに何もしていません。どうかお許しを……」
メリッサが縋るように殿下の袖を引く。その仕草があまりに芝居がかっていて、私は思わず小さく息を吐いた。
「黙れ、メリッサ。お前が庇う必要はない。リーゼロッテ、お前がメリッサに対して行った数々の嫌がらせ、すべて証言が揃っている」
殿下の瞳には、確信に満ちた怒りが宿っていた。
証言。誰の証言だろう。私にはまったく身に覚えがない。だが、この場で反論したところで、殿下の耳には届かないだろう。半年かけて周到に積み上げられた虚構を、今この瞬間に覆すことなどできはしない。
私は深く息を吸い、背筋を正した。
「――承知いたしました、殿下」
ざわり、と広間がどよめいた。抗弁もなく受け入れるとは思わなかったのだろう。
「弁明はございません。ただ一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「……申せ」
「ヴァイスベルク家は本日をもって、王家との一切の取引契約を終了いたします。穀物の優先供給、鉱山資源の特別価格での卸売、北部交易路の管理運営、王都への資金融通――すべてでございます」
殿下の顔から血の気が引いた。
「な……何を言っている」
「婚約に付随する契約でございますので、婚約が破棄されれば当然に契約も終了いたします。これは契約書にも明記されております。もちろん、殿下はご存じの上での破棄かと存じますが」
私はにこりと微笑んだ。社交界で叩き込まれた完璧な令嬢の笑みだ。
殿下は何か言いかけて口を閉じ、それからメリッサに目を向けた。メリッサの顔も蒼白だった。おそらく、契約の中身など確認もせずに殿下を唆したのだろう。
「それでは、失礼いたします」
踵を返し、大広間を出る。背後でざわめきが大きくなるのが聞こえたが、振り返りはしなかった。
廊下に出ると、控えていた我が家の執事セバスティアンが静かに外套を差し出した。
「お嬢様、馬車の用意はできております」
「ありがとう、セバスティアン。帰りましょう。実家に」
「かしこまりました」
白髪の老執事は何も問わず、ただ穏やかに頷いた。
馬車に乗り込み、王宮の門を潜る。窓の外を流れていく王都の夜景を、私はぼんやりと眺めた。
六年間だ。六年間、私はこの王都で殿下のために尽くしてきた。社交界での立ち回りを学び、王妃教育を受け、殿下の評判を支えるために裏方に徹した。国政の勉強も怠らなかった。いつか殿下の隣に立つ時、足手まといにならないように。
その全てが、今夜、無に帰した。
でも――不思議と、心のどこかが軽かった。鎖が外れたような感覚がある。ずっと気づかないふりをしていたけれど、殿下との婚約は私にとって義務であり、使命であり、そして知らず知らずのうちに枷になっていたのかもしれない。
「セバスティアン」
「はい、お嬢様」
「泣かなかったこと、褒めてくれる?」
「お嬢様は幼い頃から、泣くべき場面で泣かないお方でございましたから」
老執事の穏やかな声に、少しだけ唇が緩んだ。
馬車が王都の石畳を離れ、北へと続く街道に入ると、窓の外には広大な麦畑が広がった。
三日間の旅路を経て、ヴァイスベルク領の領都アイゼンに到着したのは、秋の風が冷たくなり始めた頃だった。
城館の正面玄関で出迎えたのは、父のハインリヒ公爵だった。白髪交じりの壮年の男は、娘の顔を見るなり深い溜息をついた。
「……聞いたぞ、リーゼロッテ。まったく、あの愚かな王太子め」
「お父様、ただいま戻りました」
「ああ、おかえり。よく耐えたな」
父の大きな手が、私の頭をそっと撫でた。その温もりに触れた瞬間、王都では流さなかった涙がようやく一粒だけ頬を伝った。
けれど、それだけだった。泣いている暇はない。
「お父様、領地の帳簿を全て見せてください。明日から、私が経営に入ります」
父は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに口元を緩めた。
「お前がそう言うと思って、書斎に揃えておいた」
この父にして、この娘あり。私は涙を拭って、笑った。
翌朝から、私は領地経営に没頭した。
まず取りかかったのは、帳簿の精査だった。ヴァイスベルク領は王国北部最大の穀倉地帯であり、鉄鉱山と銀鉱山を有し、北方諸国との交易路の要衝でもある。王国の経済を裏から支えてきたと言っても過言ではない。
だが、その利益の大半は王家との不平等な契約によって吸い上げられていた。
婚約に付随する形で結ばれたそれらの契約は、ヴァイスベルク家の産物を市場価格の六割で王家に卸すという、一方的に不利な内容だった。父はそれを「王家との絆の証」として受け入れてきたが、私にはその忍耐を続ける理由がもうない。
帳簿を閉じ、私は窓の外を見た。
「契約が切れた今、適正価格で売れば領地の収入は一・五倍になる」
呟きながら、羊皮紙に計画を書き出していく。
まず、王家に卸していた穀物と鉱石を、自由市場と隣国に直接売る。次に、北部交易路の通行税を適正化する。これまで王家の顔色を窺って安く設定していたが、その必要はもうない。
さらに――。
「領地内に加工工場を建てます」
翌日の会議で、私は領地の重臣たちに宣言した。
「鉄鉱石をそのまま売るのではなく、農具や工具に加工してから出荷します。小麦もそのままではなく、製粉して小麦粉として売ります。付加価値をつけることで、利益率は格段に上がります」
重臣たちは顔を見合わせた。保守的な彼らにとって、若い令嬢の大胆な提案は不安だったのだろう。
「しかし、お嬢様。工場の建設には莫大な資金が必要です」
財務官のギュンターが眉をひそめる。
「鉱山の銀を担保に、ローレンツ商会から融資を受けます。すでに打診済みです。利率は年五分。三年で回収できる見込みです」
私が数字を並べると、重臣たちの表情が変わった。王都で学んだ財務の知識と、幼い頃から父の書斎で帳簿を覗き見していた経験が、ここで活きた。
会議が終わると、財務官のギュンターが私のもとに来て深々と頭を下げた。
「失礼いたしました、お嬢様。正直に申しまして、侮っておりました」
「構いません、ギュンター。結果で示しますから」
私は微笑んでそう返したが、内心では拳を握りしめていた。侮られるのは慣れている。王都でもそうだった。殿下の隣にいる飾りだと思われていた。けれど、私はただの飾りではない。それを証明する機会が、ようやく訪れたのだ。
改革の日々は、想像以上に過酷だった。
工場の建設予定地を選定するために、私は自ら馬に乗って領地中を駆け回った。鉱山に潜って鉄鉱石の品質を確認し、河川の流れを調べて水車の最適な設置場所を探し、木材の調達ルートを交渉した。
ドレスを脱ぎ、動きやすい平服に着替えた私の姿を見て、最初は領民たちも目を丸くしていた。公爵令嬢が泥に塗れて現場を歩き回るなど、前例がないのだろう。
けれど、次第に彼らの目が変わっていった。
「お嬢様、この区画の土壌は粘土質が強いですぜ。工場を建てるなら、もう少し東の砂利地の方がいい」
農夫の老人がそう助言してくれたのは、建設が始まって二週目のことだった。
「ありがとうございます。確かに、排水を考えると砂利地の方が適していますね。設計を変更しましょう」
私が素直に意見を取り入れると、老人は嬉しそうに目を細めた。領主が領民の声に耳を傾ける。それだけのことが、この領地では久しく行われていなかったのだ。
工場の建設と並行して、私は領民の生活改善にも着手した。農業技術の指導、灌漑設備の整備、子どもたちのための学校の設立。識字率を上げることで、将来的に工場や商会で働ける人材を育てる狙いもあった。領民たちは最初こそ戸惑っていたが、目に見えて暮らしが良くなると、領都の通りで私を見かけるたびに笑顔で手を振ってくれるようになった。
半年が経つ頃には、ヴァイスベルク領は見違えるほど活気づいていた。
加工工場は順調に稼働し、ヴァイスベルク印の農具は品質の高さで近隣諸国にまで名が知れ渡った。製粉した上質な小麦粉は、各地のパン職人から引く手あまただった。
北部交易路の通行税適正化により、商人たちの行き来も増え、領都アイゼンには新しい店や宿が次々と建ち始めた。
ある日の夕刻、書斎で報告書を読んでいると、セバスティアンが来客を告げた。
「お嬢様、隣国レーヴェンシュタインより、使節がお見えです」
「使節?」
「はい。宰相閣下ご自身がいらしております」
私は思わず顔を上げた。隣国レーヴェンシュタインといえば、近年急速に発展を遂げている新興国だ。その国政を一手に担う若き宰相の名は、私も耳にしたことがある。
応接間に通された人物を見て、私は少し驚いた。
宰相カイ・レーヴェンシュタインは、思っていたよりもずっと若かった。黒髪に灰青色の瞳、端正だが鋭い顔立ち。纏う空気は冷たいが、どこか知性の光を湛えている。二十代の半ばといったところだろうか。
「初めまして、ヴァイスベルク公爵令嬢。突然の訪問をお許しください」
「いえ、ようこそお越しくださいました、宰相閣下。遠路お疲れでしょう」
「カイで構いません。堅苦しいのは苦手でして」
そう言いながらも、彼の所作には一分の隙もなかった。
「本日伺ったのは、貴領との通商条約の締結をご提案するためです」
カイは単刀直入に切り出した。
「ヴァイスベルク領の農具と小麦粉の品質は、我が国でも評判です。我が国は良港を有しておりますが、内陸部の農業基盤が弱い。互いの強みを活かした交易ができれば、双方に大きな利がある」
彼が差し出した提案書は、極めて合理的で、かつ公平な内容だった。王家との契約のような搾取の匂いは微塵もない。
「……素晴らしいご提案ですね。細部を詰めさせていただきたいのですが、数日ご滞在いただくことは可能ですか」
「ええ、そのつもりで参りました」
かすかに口元が緩んだ。笑うと少し印象が柔らかくなる人だった。
カイの滞在は、予定の数日を超えて二週間に及んだ。
通商条約の交渉は順調に進んだが、それ以上に、彼は領地の視察に強い関心を示した。工場、農地、学校、交易路――私が案内するたびに、彼は鋭い質問を投げかけてきた。
「この灌漑方式は独自のものですか」
「ええ、古い文献を参考に改良しました。水車の動力を利用して水を汲み上げる仕組みです」
「なるほど。我が国の東部にも応用できそうだ」
視察中の彼は、応接間で見せる冷静な宰相の顔とは少し違っていた。知的好奇心に目を輝かせる姿は年相応で、私はそのたびに少し心がほころぶのを感じた。
学校を視察した時のことは、特に印象に残っている。
子どもたちが石板に文字を書く練習をしている教室に案内すると、カイは膝を折って一人の少女の隣にしゃがみこんだ。
「上手だな。その字は何と読む?」
「『あ』です。あさひの、あ」
「いい字だ。私も子どもの頃、字を覚えるのが好きだった」
少女が照れくさそうに笑うと、カイの表情もわずかに和らいだ。その横顔を見て、この人は冷たい人ではないのだと確信した。
教室を出た後、カイがぽつりと言った。
「教育に投資する領主は少ない。目に見える成果が出るまで時間がかかるから」
「ええ。でも、十年後の領地を作るのは今の子どもたちです」
「……同感です」
彼の声に、静かな敬意が滲んでいた。
ある日、麦畑の視察の帰り道でのことだった。秋の夕陽が黄金色の麦穂を染め、風がさらさらと穂を揺らしている。
「リーゼロッテ嬢は、なぜここまで領地に力を注ぐのですか」
カイが不意に訊ねた。
「婚約を破棄されたから、ですか?」
直接的な問いに、私は少し考えてから答えた。
「最初はそうだったかもしれません。悔しかったし、見返してやりたいという気持ちもありました」
麦畑の向こうに、領都の屋根が夕陽に輝いている。
「でも、ここで暮らす人たちの笑顔を見ているうちに、動機が変わったんです。この土地を、ここに暮らす人々を、もっと豊かにしたい。それが今の私の一番の願いです」
カイはしばらく黙っていた。
「……あなたは、あの王太子には過ぎた人だ」
静かな、けれど確かな声だった。
私は驚いて彼を見上げた。灰青色の瞳が、夕陽を受けて淡く光っている。そこに浮かんでいたのは、敬意と、それからもう一つ、名前をつけるのが少し怖い感情だった。
「……ありがとうございます、カイ様」
胸の奥が温かくなるのを感じながら、私は微笑んだ。
通商条約は無事に締結され、カイはレーヴェンシュタインへと帰っていった。
だが、それで終わりではなかった。条約の運用確認という名目で、彼は毎月のようにヴァイスベルク領を訪れるようになった。
「また来たのですか、カイ様」
「条約の進捗確認です」
「先月も同じことをおっしゃいましたね」
「……進捗は毎月変わりますので」
真顔でそう言う彼の耳がわずかに赤いことに、私は気づいていた。
訪問のたびに、二人で過ごす時間は自然と長くなっていった。書斎で経済政策について議論し、市場を一緒に歩き、時には領都の小さなカフェで向かい合って茶を飲んだ。
あるとき、市場で領民の少年がカイに花を売りつけようとした。
「宰相様、花はいかがっすか! お嬢様に渡すんでしょ?」
「……なぜそうなる」
「だって、お嬢様を見る目がそうだもん」
少年は悪びれもせずにけらけらと笑い、カイは耳を真っ赤にして黙り込んだ。結局、彼は白い小花の束を買い、何も言わずに私に差し出した。
「……これは、その。市場の活性化への投資だ」
「投資ですか」
「そうだ」
意味のわからない言い訳だったが、花束は綺麗だった。書斎の窓辺に飾ると、部屋が少しだけ明るくなった気がした。
カイは口数が少なく、感情を表に出さない人だった。けれど、時折見せる不器用な優しさに、私の心は少しずつ傾いていった。
雪が降り始めた日のことだ。視察を終えて城館に戻る途中、私の肩に温かな外套がかけられた。
「寒いでしょう」
「カイ様こそ、外套なしでは――」
「私は北国の人間です。このくらいは平気だ」
そう言いながら、彼の手はかすかに震えていた。
「……全然平気じゃないじゃないですか」
「気のせいです」
思わず笑ってしまった。笑うと、彼も少しだけ口元を緩めた。
白い雪が二人の間にゆっくりと降り積もっていく。この穏やかな時間がずっと続けばいいと、心の底から思った。
一方、王都では惨状が広がっていた。
ヴァイスベルク家との契約が切れた影響は、私が予想していたよりも遥かに深刻だったらしい。
穀物の供給が滞り、王都の食糧価格は高騰した。鉱石の仕入れ値は跳ね上がり、王国軍の武器や防具の調達に支障をきたした。北部交易路の通行税適正化により、王都を経由していた商人たちがヴァイスベルク領に直接向かうようになり、王都の商業は急速に冷え込んでいった。
それだけではない。ヴァイスベルク家が長年担ってきた資金融通が止まったことで、王家の財政は急速に逼迫した。貴族たちへの恩賞が滞り、軍の維持費が不足し、王都のインフラ整備も停止した。
加えて、王太子エルヴィンの新たな寵愛を受けたメリッサは、外交や内政に口を出し始めたという。しかし男爵家の令嬢に国政の知識などあるはずもなく、彼女の助言に従うたびに状況は悪化の一途を辿った。隣国との外交交渉では相手国の使節を怒らせ、税制の変更では商人たちの反発を招き、挙句の果てには側近の貴族たちまでもが王太子から距離を置き始めたという。
ついには、あの断罪の夜に殿下の味方をしていた取り巻きの令嬢たちまでもが、次々と王太子の元を去っていった。風向きが変われば忠誠も変わる。宮廷とはそういう場所だ。
その噂を、私は市場で仕入れた商人たちの世間話として聞いていた。
「王都はひどいもんですよ、お嬢様。パンの値段が去年の倍になったとか」
「貴族たちも不満だらけで、王太子殿下の評判はがた落ちだそうで」
溜飲が下がる、と言えば嘘になる。かつて愛した人の治める国が傾いていくのを聞くのは、複雑な気分だった。
けれど、私にはもう関係のない話だ。
私には守るべき領地があり、共に歩みたい人がいる。後ろを振り返る必要はない。
そしてある冬の日。予想通りの来訪者が現れた。
朝から粉雪が舞う寒い日だった。書斎で来年度の予算案を練っていると、セバスティアンが珍しく硬い表情で扉を叩いた。
「お嬢様、来客でございます」
「誰かしら」
「……王太子殿下です」
ペンを持つ手が一瞬だけ止まった。けれどすぐに呼吸を整え、ペンを置いた。
「応接間に通して。お茶は……そうね、一番安い葉で構わないわ」
「かしこまりました」
セバスティアンの口元がかすかに動いた。笑いを堪えたのだと思う。
応接間に通されたのは、護衛を数名だけ連れた王太子エルヴィンだった。
半年前に見た時より、明らかにやつれていた。目の下には隈があり、かつての傲慢な輝きは影を潜めている。
「リーゼロッテ……いや、ヴァイスベルク公爵令嬢。頼みがある」
「何でございましょう、殿下」
私は完璧な礼をもって応じた。感情を乱す必要はない。
「……契約を、元に戻してほしい。穀物の供給と鉱石の卸売、それに交易路の管理を。条件は――」
「お断りいたします」
殿下の言葉を遮って、私は静かに告げた。
「な……まだ条件も聞いていないだろう!」
「どのような条件であっても、です。殿下ご自身がお切りになった縁です。それを都合よく結び直すことはできません」
殿下の顔が歪んだ。怒り、焦り、そして屈辱。様々な感情が綯い交ぜになった表情だった。
「そもそも、ヴァイスベルク領の産物はすでに他の取引先との契約で埋まっております。殿下のために回せる余剰はございません」
これは事実だった。レーヴェンシュタインとの通商条約を始め、複数の国や商会との取引が軌道に乗っている今、王家に卸すメリットは何もない。
「リーゼロッテ、頼む。このままでは王国が――」
「殿下」
私は殿下の目をまっすぐに見た。
「あの夜、大広間で私を断罪なさった時のことを覚えていらっしゃいますか。証拠も確認せず、弁明の機会も与えず、大勢の前で私を辱めた。あの時、殿下は私の言葉に耳を傾けてくださいましたか」
殿下が唇を噛む。
「今、殿下が苦しんでいらっしゃるのは、ご自身の選択の結果です。メリッサ嬢とお二人で、どうぞ立て直してくださいませ」
「メリッサは……もういない。実家に帰した。あれは――あれは私を利用していただけだった」
その告白に、私は一瞬だけ目を伏せた。
哀れだとは思う。けれど、それは殿下が自ら招いた結果だ。
「それはお気の毒に存じます。ですが、もう私には関係のないことでございます」
「…………」
殿下は力なく肩を落とした。もう、かつて私が見上げた誇り高い王太子の姿はそこにはなかった。
「セバスティアン、殿下をお見送りして」
「かしこまりました」
殿下が去った応接間の扉が閉まると、私は大きく息を吐いた。
胸の奥に、ちくりとした痛みがある。かつて確かに好きだった人だ。まったく何も感じないと言えば嘘になる。
けれど、その痛みはもう傷ではなく、ただの古い記憶になりつつあった。
殿下を見送った翌日の朝。
昨日の重い空気を振り払うように、私は早朝から領都の市場を歩いていた。視察と言えば聞こえはいいが、本音を言えば気分転換だ。活気のある市場の喧騒の中にいると、余計なことを考えずに済む。
焼きたてのパンの香りを嗅ぎ、八百屋の主人と今年の蕪の出来について話し、肉屋のおかみさんから「お嬢様、最近痩せたんじゃないかい」と心配されながら試食のソーセージを押しつけられた。
この温かさが好きだ。王都の社交界にはなかった、飾らない人の温もり。
市場を抜けて広場に出た時、聞き慣れた声がした。
「リーゼロッテ嬢」
振り返ると、カイが馬から下りるところだった。真冬だというのに、外套は薄い。相変わらず見栄を張る人だ。
「カイ様、今月はもういらしたでしょう。進捗確認は月に一度では?」
「今日は進捗確認ではありません」
彼はまっすぐに私の前まで歩いてきて、立ち止まった。灰青色の瞳が、冬の朝日を受けて透き通っている。
「昨日、王太子がここに来たと聞きました」
「ええ。お断りしましたけれど」
「知っています。ですが、それを聞いて……居ても立ってもいられなかった」
感情を表に出さないはずの彼が、珍しく言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「私は宰相として、あなたの手腕に敬意を抱いています。ヴァイスベルク領の発展は、あなたの才覚と努力の賜物だ」
「ありがとうございます」
「ですが――それだけではない」
カイが一歩、近づいた。
「あの麦畑で、あなたが領民のために語った言葉を聞いた時から、ずっと――」
冷たい冬の空気の中で、彼の声だけが温かかった。
「リーゼロッテ嬢。私はあなたを、国同士の利害ではなく、一人の人間として――大切に思っています」
広場に雪が舞い始めた。領民たちが遠巻きに見ているのがわかったが、気にならなかった。
「カイ様、一つだけ訂正があります」
「……何でしょう」
「リーゼロッテ、と呼んでください。嬢は要りません」
カイの目が見開かれ、それから、初めて見る柔らかな笑みが浮かんだ。
「……リーゼロッテ」
「はい」
彼の冷たい手が、私の手をそっと包んだ。不器用で、ぎこちなくて、けれど確かな温もりがそこにあった。
「……手、冷たいですね」
「すまない。早く来たくて、手袋を忘れた」
その言葉に、私はこらえきれずに笑った。この人はいつもこうだ。冷静なふりをしているくせに、肝心なところで抜けている。
「私の手で温めましょうか」
「……頼む」
ぶっきらぼうに言いながら、彼の指が私の指に絡んだ。ぎゅっと握られた手のひらから、少しずつ温もりが伝わっていく。
私はもう、捨てられた婚約者ではない。自分の足で立ち、自分の手で未来を切り拓いた、ヴァイスベルク領の主だ。
そして今、隣には共に歩んでくれる人がいる。
雪の降る広場で、私たちは手を繋いだまま、しばらく立ち尽くしていた。言葉はなくても、伝わるものがあった。
遠くで領民たちの拍手と口笛が聞こえた。パン屋のおかみさんが「やっとくっついたよ!」と叫んでいる声も。どうやら領民たちの間では、宰相閣下の頻繁な訪問の本当の理由はとっくにお見通しだったらしい。
「……カイ様、聞かれてますよ」
「構わない」
赤くなった耳で、彼はそう言い切った。
冬はまだ続くけれど、春はもうすぐそこまで来ている。そんな予感が、繋いだ手の温もりの中にあった。




