第4話【セレスフィア視点】絶望の森と小さな奇跡
目の前で起きていることが、現実の出来事として、私の脳が、私の常識が、到底受け入れることを拒絶していた。
私の名はセレスフィア・フォン・リンドヴルム。没落した男爵家の令嬢だ。だが、私はただ守られるだけの姫ではない。今は亡き父から叩き込まれた剣術は、並の騎士にも引けを取らないと自負している。
巨大なオーガを、まるで綿菓子でも食べるかのように、一口で吸い込んでしまった、小さな青いスライム。そして、そのスライムの隣に、主君を守る騎士のように威厳たっぷりに佇む、伝説の神獣グリフォン。
何かの幻術か。あるいは、私はとうとう、絶望のあまりに正気を失ってしまったのか。
数日前、領内の寂れた村から、切実な依頼が舞い込んだ。「森から出てきたゴブリンに、村人が襲われている。どうか、騎士団の助けを」と。だが、我がリンドヴルム男爵家の騎士団は、僅か十名のみ。
この『迷いの森』は、誰も踏み入れたことのない深奥まで続いているとされ、奥には凶悪な魔物が潜むと言われている。だが、村に近いところであれば、ゴブリン程度の弱い魔物しか出ないはずだった。だからこそ、騎士団を半分に分け、私も剣を取り、ゴブリンを間引くために森へ入ったのだ。
だというのに、なぜ、森の浅瀬に、オーガのような強力な魔物が……?
オーガの不意打ちを受け、同行していた他の四名の騎士たちは、皆、戦闘不能となっていた。
「ぐっ……!」
オーガが振り下ろした棍棒を、カシウスが盾で受け止めるが、その衝撃で盾が砕け、左腕に深々と棍棒の棘が食い込んだ。そこから、禍々しい毒気が立ち上っている。
ゴブリン退治どころか、私たち自身が、この森で命を落とそうとしていた、その絶望の淵で。
現れたのは、神話の中にしか存在しないはずの、二つの奇跡だった。
私は、もはや、言葉を発することさえできなかった。ただ、目の前の不可思議な存在に、祈るような視線を送る。
青いスライムは、好奇心旺盛といった様子で、ころころと私の足元へと転がってきた。そして、私の鎧のすね当てを、ぷにぷにと面白そうに押し始めたのだ。そのあまりに無邪気で天真爛漫な様子に、私は一瞬、言葉を失う。
「セレスフィア様、お下がりください! 危険です!」
背後で、カシウスが苦痛に満ちた声で叫ぶ。彼の左腕の傷は、オーガの毒によって、既に黒く変色し始めていた。
その黒い傷に、青いスライムが、ぴくりと反応した。
まるで、最高のご馳走を見つけたかのように、そのぷるぷるの体を、きらきらと輝かせながら。
次の瞬間、スライムは、弾丸のような速さで私の鎧を駆け上がると、カシウスの左腕へと飛び移った。そして、あろうことか、あの黒く変色した傷口に吸い付いたのだ。
カシウスの左腕にあった黒い呪いは、みるみるうちにスライムの体の中に吸い込まれていき、完全に消え去ってしまった。
「……何が……」
カシウスは、自分の綺麗になった腕と、満足げなスライムを、呆然と見比べている。
その奇跡は、カシウス一人に留まらなかった。スライムは、次々と、周囲で未だ倒れていた他の四名の騎士たちへと、ぴょん、ぴょんと、まるで石切り遊びでもするかのように、軽やかに飛び移っていったのだ。
そして、彼らの傷口――オーガの棍棒によって砕かれた鎧の下の深い裂傷に、その体を押し当てていく。すると、スライムの体から淡く光る雫が分泌され、傷を覆った。そのたびに、騎士たちの苦悶に満ちていた表情は和らぎ、どす黒かった傷口は、まるで時が巻き戻るかのように、見る見るうちに塞がっていく。あれほど瀕死の状態だった四名の騎士たちは、皆、何事もなかったかのように体を起こし、その小さな奇跡にひれ伏していた。
私は、その場で、膝から崩れ落ちた。
助かった。カシウスが、助かった。騎士たちが、皆、助かった。
感謝と、安堵と、そして、目の前の存在に対する畏敬の念で、涙が止まらなかった。
「……あなた様は、一体……」
私が、震える声で呟くと、スライムは、私の膝の上にぽすん、と飛び乗ってきた。そして、まるで陽だまりの中で丸くなる猫のように、心地よさそうに、その身を預けてきたのだ。
温かい。
この小さく、不思議で、そして計り知れないほどに優しい奇跡。
私は訳が分からないまま、この出会いを神に感謝した。




