1.
「おばあさま、またあのお話をして」
「おばあさま、お願い」
「はいはい。おまえたちは、ほんとうにあのお話が好きだね。じゃあ、クッキーとホットミルクを準備しようかね。お話しは、けっして短くはないのだから」
「やった」
「やったね」
孫たちのことが可愛くてならない。
今日もまた可愛い孫たちに囲まれ、彼らの大好きな物語を語れることはしあわせだ。
彼らは、いつも目を輝かせて聞いている。そのキラキラした複数の色の瞳を見ていると、わが子たちを、ひいては若かりし頃の夫を思い出してしまう。
孫たちは、クッキーを頬張り、ホットミルクを飲み、それらがなくなるとカーペットの上に頬杖をし、あるいは胡坐をかき、物語に集中している。
ノックの音がしたことに気がつかなかった。
いつの間にか、息子と義理の娘が入って来ていた。
「やんちゃなぼっちゃんとお転婆嬢ちゃんたち。おばあ様に迷惑よ」
義理の娘は、わが子たちをたしなめた。しかし、これはわたしに気兼ねしてのパフォーマンスにすぎない。
そして、「やんちゃなぼっちゃんとお転婆嬢ちゃん」という呼び方は、夫とわたしが息子と彼女が子どもの頃に呼んでいた呼び方だ。
孫たちは、男の子も女の子も息子と義理の娘にそっくりだ。つまり、全員がやんちゃでお転婆なのだ。
しかし、子どもというのはそうでなければならない。元気でさえあれば、他に望むことはない。
とはいえ、わたし自身、息子が生れるまでと生まれてしばらくの間は、「元気だったらそれでいい」という考えだった。が、親というのは子どもが成長するにつれ、望むことが増えていく。「元気でさえあれば」から始まり、「人並みの器量があれば」や「ふつうにかしこければいい」に変化する。そこそこの年齢になると、「だれよりも知的で思いやりがあり、柔軟性にとんで機転が利く」とハードルがいっきに高くなる。
息子に負担になるとわかってはいても、そう望まずにはいられなかった。そして、甘やかすよりも厳しくしてしまった。ひとりしかいない子どもだから、と過剰に期待してしまったのもいけなかったのだ。
そういう点では、夫よりもわたしの方が息子にたいして厳しくつらくしてしまったかもしれない。
息子には悪いことをしたと、いまだにうしろめたさでいっぱいだ。同時に、義理の娘にたいしても、申し訳なさでいっぱいである。
まだ子どもの頃から、ふたりにはいろんなことを強いてしまった。自由をはじめ、もろもろのものを奪ってしまった。
ふたりはいま、夫とわたしの期待以上に応えてくれている。それだけではない。たくさんの孫と、それから愛を与えてくれている。さらには、それを多くの人たちと享受している。
わたしたちは、しょせん「生かされている身」。彼らは、そのことを忘れないでいてくれている。
わたしは、いましあわせだ。心からそう断言できる。
「おばあ様、続きをはやく早く」
「おばあ様、迷惑じゃないわよね?」
孫たちにせかされ、義理の娘と顔を見合わせ笑ってしまった。
「なにか急用でなければいいのだけれど」
息子たちがこの時間帯、ここに来るのはめずらしい。急用かもしれないと思ったので、物語に戻る前に尋ねてみた。
「いいえ。今日は、ひさしぶりに時間ができましてね。たまには、母上のご機嫌をうかがった方がいいかと思いましてね」
「バート。そんな言い方、お母様に失礼すぎよ。というか、可愛げがなさすぎるわ」
「レイチェル。子どもたちの前でそんな言い方は……」
「子どもたちの前だからこそ、ビシッと言わなきゃならないの。男性は、すぐに勘違いするでしょう? あなたがここにいて、しあわせにすごせているのはだれのお蔭か? それを考えれば、お母様にそんな可愛げのないことを言えるわけはないわ」
「わ、わかっている。わかっているよ」
ふたりは、子どもの頃からかわっていない。それが微笑ましく、うれしくなって笑ってしまった。
「ハハハハハッ!」
「おばあ様の笑い方って、男の人みたい」
「おじさんとかおじいさんとか、そんな笑い方だよね」
「こらっ! あなたたち、失礼でしょう? だけど、おばあ様は、若い頃からこんな笑い方だったのよ。豪快すぎて、男性が二、三人いるんじゃないかと思ったものよ。いまはもう慣れたけれど」
「悪かったわね、レイチェル」
レイチェルの言う通りである。わたしの笑い方は、おっさんとかじいさんみたいなのだ。夫からもよくそう言われたものだ。
「とにかく、おれたちもひさしぶりに母上の物語を聞きたくなって、お邪魔しました」
「じゃあ、追加のクッキーとホットミルクを準備しなくてはいけないわね」
「お母様、ご心配なく。さあ、お願いね」
レイチェルが言うと、侍女たちが運んで来てくれた。
孫たちは、余分に食べられるとおおよろこびだ。
そして、物語の続きに戻った。