表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

梅雨時々曇り、最後は夏模様

作者: 櫻川大縁
掲載日:2026/03/10

 雨の粒が、窓をひとつずつノックしていく。


 まるで、忘れていた手紙のようだと思った。

 あるいは──受け取ることを、どこかで諦めてしまっていた封筒の音。


 灰色の空。

 濡れたアスファルト。

 交差点の信号が赤に変わって、行き場を失った人の群れが、濡れることを許したように傘を開く。


 カレンダーには“6月”と書いてあった。

 そうだ、世間的にはジューンブライドだ。


 小学生の頃だっただろうか。

 誰かの書いた雑誌の特集を読んで、“六月に結婚した花嫁は幸せになれる”なんて、ロマンチックな話を信じていた時期があった。


 でも今の私は──いや、**今の“私たち”**には、もうそれは無意味な呪文だ。


 私はキッチンのテーブルに肘をついて、冷めかけたコーヒーをひと口だけ啜った。

 酸味が強い。買い直さなきゃ。そう思ってから、私はそのままマグカップを持ち上げずにいた。


 向かいのソファに腰かけている人がいる。


 三船結花。

 今では私の相方。いや──世間的に言うなら、“同居人”という扱いになるのだろう。


 彼女はスマホ片手に、イヤホンの片方を外した状態で、私のことをちらと見た。


 「なんか、梅雨っていうより“わたしたちの時代”って感じしない?」


 唐突すぎる比喩に、私は思わず笑ってしまった。

 コーヒーを口に含んでいなくてよかった。絶対に吹き出していた。


 「……意味、わかんないんだけど」


 「ほら、梅雨ってさ、“夏に行くまでの準備期間”って感じするじゃん。なんか、じとじとして、だるくて、スカッとしなくて。でも、それを越えたら夏でしょ。あっつくて、もう何でもできる気がする季節」


 「……うん」


 「だから今の日本もそうなのかなって。“まだちゃんと認めてもらえてない”って感じ。わたしたち、結婚できないままでしょ? けど、たぶんそのうち、夏みたいに全部許される季節が来るんだよ」


 この人は時々、ものすごく真面目なことを、冗談みたいな顔をして言う。

 そして私は、その言葉を笑い飛ばしたくなるくらいには、ひねくれて生きてきたつもりだったのに──


 今、どうしてか。

 喉の奥がきゅっと鳴って、言葉にならない何かが胸に積もっていた。



 結花はイヤホンを外し、机の上にぽとりと置いた。


 その動作がやけに丁寧で、私はふと彼女の横顔を見つめてしまった。


 いつからだったろう。

 この人の何気ない仕草を、そんなふうに見るようになったのは。


 朝に飲む味噌汁の味が、同じになった頃からかもしれない。

 あるいは、洗濯物の干し方が、気づけば二人して無言で分担されるようになった日から。


 恋人、なんて言葉はどこか青臭く思える。

 けれど“家族”と呼ぶには、まだ社会の声が遠い。


 「でもさ」


 結花がそう言って、私の視線に気づいたのか、ほんの少し笑った。


 「空は、もし結婚できたら、したいって思ってる?」


 唐突な問いかけに、私は思わず視線を逸らした。

 いや、違う。答えを探すふりをした。

 そんなの、本当はもう決まっているのに。


 「うん……そうだね。できるなら、ちゃんとしたいって思う。名前も変えられなくていいし、式もいらないけど、なんだろう、形が欲しいっていうか」


 「保証、みたいな?」


 「……それもあるけど。それだけじゃないの。言葉にしにくいけど、結花の“家族です”って、ちゃんと胸を張って言いたいなって」


 結花は何も言わなかった。


 そのままソファに座ったまま、少しだけ身体をこちらに向ける。

 頬杖をつきながら、まるで私の中身を覗き込もうとするような目で、ただ見つめていた。


 雨はまだ止まない。

 けれど、窓の向こうの雲は、ほんの少しだけ薄くなっていた。


 「空さ」


 結花が言う。

 その声はやけに柔らかくて、でも芯に何かが宿っているようだった。


 「じゃあ、わたし、今から“結婚します”って言ったら、空は信じてくれる?」


 「……は?」


 私は思わずまぬけな声を出してしまって、それが自分でもおかしくて、小さく笑ってしまう。


 「それは……なんのプロポーズ? 指輪もなしに?」


 「あるよ?」


 そう言って、結花はポケットから取り出した。

 それは、金属ではなく、糸だった。


 細い金糸で編まれた、手作りのリング。

 どこか不格好で、けれど世界にひとつしかない形。


 「ブライダル業界には喧嘩売ってるけど、わたし的には結構気に入ってるんだ」


 「……バカ」


 気づいたら、涙が出ていた。

 泣くほどのことじゃないのに。

 まだ何も変わっていないのに。


 でも、変わっていないこの現実の中で、確かに“未来”が生まれた気がした。



 それから数日が過ぎた。

 雨は降ったり止んだりを繰り返し、ベランダのプランターに咲いたミントが、なんだか元気を取り戻していた。


 ──そんな、何の変哲もない朝。


 始業のチャイムと共に、大塚部長が前に出てきて、柔らかく咳払いをした。


 「……えー、この度、私事ではありますが──結婚することになりました」


 一拍。

 そして、オフィスの空気が明るく弾ける音がした。


 「えーっ! おめでとうございます!」

 「部長、ジューンブライドじゃないですかー!」

 「誰ですか? 同じ部署の人だったりして?」


 冗談と祝福とが渾然一体になった、女子会みたいな空気。

 女性ばかりのこの部署では、こういう話題は火がつくと止まらない。

 そしてその火は、必ず他人にも燃え移ってくる。


 ──そう、当然ながら。


 「ねえ高田さんは? いま付き合ってる人とかいるの?」

 「やっぱりジューンブライドって憧れるよね。もし彼氏いるなら、縁起担ぎとかしちゃうタイプ?」


 唐突に振られたその質問に、私はほんの一瞬、時が止まったような気がした。


 だが、それは本当に“一瞬”だった。


 慣れている。

 ずっと、こうして生きてきた。

 この世界の多数派に属していない私たちは、いつだって“問い”を笑顔で返す訓練を積まなければいけない。


 「ええ、まあ……はは、そういうの、ちょっと縁がなくて」


 笑う。

 苦笑というやつだ。

 口角はなんとか上げてみせるけれど、喉の奥で何かが引っかかったまま、外には出ない。


 別に悪意があるわけじゃない。

 彼女たちはただ、話題を広げたいだけだ。

 祝い事を分かち合いたいだけだ。

 でも、それでも──。


 (私は、たしかに“結婚”という言葉の前で、蚊帳の外に立たされている)


 それが現実だった。


 同じくらいの年齢で、

 同じように誰かを想って、

 同じように不安を抱えて、

 同じように笑っているはずなのに──


 “この人たち”と“私は”、ただひとつの線で分けられていた。


 その線を見せつけられるのが、こういう場だった。


 「高田さんって、案外モテそうなのにね~」

 「今の時代、恋愛しない人も増えてるから」

 「それにしても、大塚部長が結婚するなんて~。なんか信じられない!」


 話題はすぐに別のところへ転がっていく。


 私はそれを眺めながら、コーヒーサーバーの紙コップにお湯を注いだ。

 それは、さっきの“質問”に蓋をするような行為だった。


 ──別に、責められたわけじゃない。

 ただ、“存在しないことにされた”だけだ。


 それが、どこか無性に悔しかった。



 玄関のドアを開けると、微かなアロマの香りが鼻をくすぐった。


 ユーカリとラベンダーを混ぜた、安眠用のオイル。

 結花の好みだ。私はあまり香りにこだわりがないから、いつも任せている。

 けれど、今日ばかりはその香りが妙に胸に沁みた。


 「おかえり、空」


 ソファに背を預けていた結花が、顔を上げる。

 手にはクロッシェの編みかけ。細い金の糸が、淡い照明を柔らかく返していた。


 「ただいま」


 靴を脱ぎ、バッグを置き、肩の力を抜く。

 たったそれだけのことなのに、全身が小さなため息をついた。

 そういえば、昼間からずっと、どこか息を潜めるような過ごし方をしていた気がする。


 「ごはん、先にする? それともお風呂?」


 「……ごはん。あと、ちょっとだけ、飲みたい気分」


 「りょーかい」


 結花が立ち上がり、台所へ向かう。

 その背中を見ながら、私は思った。

 この人の背は、私よりも少しだけ小さい。けれど、その背にどれだけ私は支えられてきたか。


 ふたりで暮らすようになって、もう三年目になる。

 賃貸の2LDK。最寄り駅まではバスで十五分。

 築年数は古いけれど、日当たりは悪くないし、壁の厚さにも不満はない。


 そういう、小さな“選択”のひとつひとつを、私たちは共にしてきた。


 けれど今日、私は“それだけでは足りない”と思ってしまった。


 夕飯はカレーだった。

 結花のつくるカレーは、いつも少しだけスパイスが強い。

 けれど今日はそれがありがたかった。舌が刺激に集中してくれるぶん、他のことを考えずに済んだから。


 「職場でさ、上司が結婚するって話になって……まあ、いろいろ聞かれたよ」


 私がそう言うと、結花は手を止めた。


 スプーンの音も、椅子の軋む音も消えて、食卓の上にほんの短い無音の時間が落ちた。


 「そっか」


 「うん」


 「つらかった?」


 その問いに、私はうなずけなかった。


 つらいというのとは、ちょっと違う。

 でも、悔しかった。悲しかった。寂しかった。

 ただ、そういう感情を正確に言葉にできるほど、私は器用じゃない。


 「……無力だなって思った。何も悪いことしてないのに、“当たり前”の輪の中に入れないのが、なんか、すごくさ……」


 そこまで言って、言葉が詰まった。


 黙っていた結花が、静かに椅子を引いて、私の隣に座った。


 「空」


 その声はまっすぐで、まるで世界の雑音をすべて消し飛ばすような音色だった。


 「私はね、“結婚”って言葉にあんまり執着ないの。たとえ制度が整ったとしても、私が選びたいのは、“この暮らし”そのものだから」


 「……うん」


 「でもね、それでも、空が悔しいって思うなら、悲しいって思うなら──私は、その気持ちを一緒に悔しがりたい。泣きたい。怒りたい」


 結花の手が、私の手に触れた。

 編み物の途中だったせいで、指先には少しだけ糸のかたさが残っていた。

 けれど、その手は私にとって、この世界のどんな法律よりも確かな温度を持っていた。


 私はその手をぎゅっと握り返した。


 「ありがとう。私、たぶん……今日、ちょっとだけ弱かったんだ」


 「いいよ。空が泣ける場所でいられるなら、それが私の幸せだから」


 夜が静かに深まっていく。


 雨は止んでいた。

 窓の外、アスファルトに残った水たまりに、街灯の光がきらきらと揺れていた。

 まるで、小さな祝福のように。



 身体を重ねたり、触れ合ったり、感じ合ったりすることは、私たちにもできる。

 同性同士でも、それは物理的に可能だ。

 そして私たちはもう、何度もそうして、確かめ合ってきた。


 だから、ただのスキンシップじゃない。

 肌の温度だけじゃない。

 その奥にあるものを見ようとした。触れようとした。

 爪の先で壊してしまいそうな、言葉にならない不安も、愛情も。


 私たちは、それでもひとつになろうとした。


 ──だけど。


 それでも、何かが足りなかった。


 もちろん、それで子どもが作れないこともわかっている。

 そんなことは、ずっと前から承知の上だ。


 もし本当に望むのなら、養子縁組という手だってある。

 制度がまったく存在しないわけじゃない。

 時間をかければ、私たちにも“親”としての資格を手にする可能性はある。


 ──でも、そういうことじゃないんだ。


 私たちはただ、世界の中で、名前を呼ばれたかった。


 他の誰かの目の中で、“ただの友達”として処理されることなく、

 「家族です」と、まっすぐ言える関係であることを。

 肩書きでも紙切れでもなく、生き方として証明したかった。


 結花と一緒に暮らして三年。

 最初の年は、生活リズムの違いに戸惑って。

 二年目は、些細なことで喧嘩して、すぐ泣いて、すぐ笑って。

 そして今、私は思う。


 この人といる時間は、未来の予行演習なんかじゃない。

 ちゃんと“いま”の中に、“これから”がある。


 そう、ここに“結婚”がないとしても。

 戸籍に名前が並ばないとしても。

 式を挙げず、指輪を交わさず、誰にも祝福されなかったとしても。


 私は──それでも結花と、共に“進む道”を選んだのだ。


 彼女の隣で、目を閉じて、深呼吸をする。


 「ねえ、結花。もし今すぐ制度が変わって、“結婚できます”って言われたら、どうする?」


 結花はクッションを抱えながら、微笑んだ。


 「その時は、まず空に聞く。“本当に欲しいの?”って」


 「欲しいよ。けど……それは制度じゃなくて、“あなた”が欲しいって意味」


 結花が少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに目を細めて笑った。


 「じゃあ、答えは決まってるね」


 「……うん」


 「でも、空は“制度が変わるのを待ってる”んじゃなくて、今の私たちの形を“選んでる”んでしょ?」


 「……うん。そうかも」


 「じゃあ、それで十分。たとえ名前が変わらなくても、私は空の“名前”になれるように生きてくよ」


 そう言って、結花が私の頬にキスをした。

 あたたかくて、柔らかくて、静かな祈りのようなキスだった。


 ふたりの暮らしの中には、まだ制度が入ってこられない。


 けれど、それでも構わないと思えた。


 たとえばこの世界が、私たちを“その他大勢”と括ろうとしても、

 この部屋の中だけは、確かに“ふたりだけの国”だった。


 私たちはもう、とっくに夫婦だった。


 何にも書かれていない紙の上で、名前は並んでいないかもしれない。

 けれどそれ以上に、心の中では──何度も何度も、誓いを繰り返していた。



 六月が終わりを迎えようとしていた。

 雨脚は少しずつ弱まり、空の色も、夏の輪郭をぼんやりと描き始めている。

 蝉の声にはまだ早く、けれど夜の空気からは、確かに季節が変わりかけている気配が滲んでいた。


 仕事から戻ると、部屋には静かな明かりが灯っていた。


 リビングの空気は少し湿気を帯びていて、窓が小さく開いていた。

 風がカーテンをゆらりと撫で、外のざわめきを一部屋ぶんだけ取り込んでいる。

 その中で、結花が立っていた。何かを手に持って、私の帰宅をじっと待っていた。


 ただいま、も言う前に、彼女の表情を見て少しだけ立ち止まった。


 「あのね、空」


 声が震えていたわけじゃない。

 けれど、言葉の輪郭には何かを隠すような柔らかさがあって、

 そのせいで、私の胸の中にだけひどく静かな緊張が走った。


 「怒るかもしれない。でも……でも、やっぱり言うことに意味があると思ったの。だから、持ってきちゃった」


 彼女の手にあったのは、一枚の紙だった。


 淡いピンク。

 柔らかなフォント。

 役所でもらえる、結婚届という名の、ただの用紙。


 「……これ、もらってきたの。今日、区役所で」


 私は言葉を失っていた。


 視線は、その紙に吸い込まれるように向かったまま、動かなかった。

 まるで、それが本当にこの現実の中にあるのかを、瞳の奥でずっと疑っているみたいだった。


 「別に、出せないのはわかってる。提出したって受理されない。意味なんてないって、理屈ではわかってるんだよ?」


 結花の声はどこまでも穏やかで、それでも心の深いところを震わせるような強さがあった。


 「でもさ。わたしたちの間では意味があると思って。たとえ制度に反映されなくても、“私たちは家族だ”って、言いきるための儀式みたいなものでさ」


 言い終えると、彼女はゆっくりと私の手に紙を渡した。

 私の指先に、そのぬくもりが伝わってくる。

 それは書類というにはあまりに人間味があって、

 それでいて希望というには少しだけ、現実の重さがあった。


 私は何も言えなかった。

 でも、不思議と涙は出なかった。


 静かにソファに腰を下ろし、その紙を膝の上に乗せる。


 名前を書く欄があった。

 筆跡が並ぶそのスペースが、途端に胸をざわつかせた。


 「書いてみよう」と、結花は言った。

 「それだけで、何が変わるわけでもないけど──」


 「でも、わたしたちが“そう在りたい”って思ったことには、絶対に意味があると思うんだ」


 私は、ゆっくりと頷いた。

 無言で、でも確かにその言葉を抱きしめるように。


 ペンを取って、名前を書く。

 最初に結花が書いた。

 そのあとをなぞるように、私が名前を書き加える。


 紙の上に、ふたつの筆跡が並ぶ。


 ただそれだけのことだったのに、胸の奥で何かが小さく弾けた。

 感情か、決意か。

 あるいはそれ以上の、名前にならない何かだったのかもしれない。


 「ねえ空。これ、冷蔵庫にでも貼っとく?」


 結花のその提案が、なんだかすごくおかしくて、私はふっと笑ってしまった。


 「……なんで?」


 「だって、冷蔵庫って生活の中心でしょ。忘れないように、って」


 「……うん、いいかも。うちの“家族証明書”ってことで」


 夜が深まり、部屋の中には二人の名前が書かれた紙が一枚、

 冷蔵庫の扉にマグネットで留められていた。


 窓の外では、季節が夏へと歩き出そうとしていた。


 この一歩が、どんな未来につながるのかはわからない。

 けれど今はただ──この紙が、ふたりの“進むべき道”の、確かな標になった気がしていた。



 結花が、私の心の揺らぎを先に受け止めてくれた。

 制度の壁、職場との距離感、目に見えない社会の温度差──それら全部を越えて、

 それでも“私たちは大丈夫だ”と、先に手を差し伸べてくれた。


 それがどれだけ嬉しかったか。

 そして、どれだけ申し訳なかったか。

 その両方が、胸の奥で波紋のように広がっていくのがわかった。


 だから、今度は私の番だと思った。


 結花が形をくれたのなら、私は“証”を返すべきだ。

 この関係が、どこまでだって進めるということを、私自身が示さなくてはいけない。

 世界に向けてではなく、まず、この人の目を見て伝えること。


 「ねえ、結花」


 夕食後の空気。

 カップの中の紅茶がまだ湯気を立てている、そのときだった。私はふと口を開いた。


 「突然なんだけど、明日──日曜日、うちの実家に行かない?」


 「うん?」


 結花が眉を上げる。

 少しだけ目を丸くして、それでもすぐに表情を和らげた。


 「いいよ? でも、どうして急に?」


 私はほんの少し、言葉を選んでから口にした。


 「……結花が、何度も“形”を示してくれたでしょう? だから、私もちゃんとしたくなったの。今まで、なんとなく避けてきたけど」


 「うん」


 「ママとパパに、挨拶しに行こうと思ったの」


 言ってから、胸の奥がわずかに締めつけられた。


 どこかでずっと、怖かったのだ。

 両親がどう思うか。どう受け止めるか。

 それでも、結花の存在を“ちゃんとしたもの”として伝えたかった。


 どんな言葉で言えばいいのかは、まだ分からない。

 けれど、それでも──やると決めたのだ。


 「空」


 結花は、私の名前を呼んだ。

 まるでそれだけで、私の心の中に踏み込んでくれるような声だった。


 「うれしい。……ちょっとびっくりしたけど」


 「驚かせてごめん」


 「ううん。そうじゃなくて、“ああ、そうか”って思ったの。空もずっと、何かと戦ってたんだなって」


 私の手を、そっと包むように握ってくれる。

 その温度に、また涙が出そうになる。


 「……ありがとう、結花」


 「こっちのセリフ」


 彼女が笑った。

 私はその笑顔を見て、静かに目を閉じる。


 明日は晴れるだろうか。

 六月の終わり、七月の入り際──季節が変わるように、私たちの関係も、もうひとつ変わっていくのだ。


 きっと、勇気なんて大それた言葉じゃなくて、

 ただ、“いまの自分を大切にしたい”っていう、その気持ちが、

 私たちを“次の日”へと送り出してくれる。



 パパとママへの報告は──拍子抜けするほど、あっけなく終わった。


 頭の中で何度も繰り返したシミュレーションは、一切役に立たなかった。

 最悪の未来図ばかりがぐるぐると脳内を占拠して、言葉を選びすぎて、いざ本番では口の中が乾いてしまったのに。


 ……そんな私の覚悟をよそに、両親は笑っていた。


 「なんだ、ようやく大事な人ができたんだね」

 「もっと早く連れてきてくれればよかったのに。ほら、お母さん、結花さんの作るアクセ、通販で買ってたのよ?」


 まるで、遠足帰りの子どもを迎えるような、あたたかくて軽やかなテンション。

 それが嘘に思えるほど、私は覚悟を決めていたのに──

 肩から力が抜ける、という感覚を身体の芯で実感した。


 何も失わなかった。

 反対もされなかった。

 むしろ、祝福された。


 その事実が、不思議と信じられなかった。


 ──ただの“家族への紹介”だったのに。

 まるで、あの小さな紙切れに名前を書いたとき以上に、現実味を伴っていた。


 帰り道、最寄り駅へ向かう電車の中。

 車窓を打つ夕暮れの光が、移動する時間の寂しさと安らぎを同時に運んでくる。


 私と結花は、並んで座っていた。

 座席の端。車両の一番後ろ。

 人の少ない日曜の夕方、揺れる車内にふたりの呼吸だけが微かに重なる。


 「……優しいご両親だったね」


 結花がぽつりと口にした。


 その言葉に、私は何の照れもなく、ただ素直にうなずいた。


 「うん。私も、ちょっとびっくりしてる」


 「ずっと……“言わないでおこう”って思ってた?」


 「ううん、そうじゃない。……“言えない”って思ってたの」


 「ふふ。似てるようで違うね」


 「うん。全然違う」


 視線を窓の外に戻す。

 雲の切れ間から、茜色の空が顔を覗かせていた。

 それが、今日という日が終わってしまう合図のように思えて、ほんの少しだけ寂しくなる。


 でも、隣に結花がいる。

 この時間のすべてを共有してくれた結花が、同じ風景を見ている。


 そう思うと、寂しさは消えた。


 「でも、空がちゃんと伝えてくれて、わたし、すごく嬉しかったよ」


 「……うん。私も、言ってよかったって思ってる」


 「これで私たち、もう家族だね。家族だって、みんな言ってくれたもん」


 「うん。……たとえ紙の上じゃなかったとしても、ね」


 「でもさ。冷蔵庫に貼ってあるでしょ? あれが本物の証明書」


 私たちは顔を見合わせて、ふっと笑いあった。


 電車は、淡い光の中を滑るように走っていく。

 その先にあるのは、ふたりの帰る場所。

 そしてその帰る場所が、すでに“家”であることを、私はもう疑わない。



 「もうすぐしたら、梅雨も終わるね」


 結花の声が、穏やかな午後の部屋に溶けた。


 「ジメジメした季節から、溶けやすい夏に切り替わるね」


 キッチンの扉を閉めながら、私はちらりと視線を向ける。


 「やめてよ、私、夏嫌いなんだよ」


 「ふふっ、知ってる。……でも意外だよね。空って外に出て働いてるのに」


 「外に出てるからって、夏が好きとは限らないの」


 「え、それ名言?」


 「いや、ただの愚痴」


 ふたりで顔を見合わせて、同時に笑う。


 ソファの上には、折りたたまれた毛布。

 窓際には小さなサボテン。

 冷蔵庫には、今もあの“届け”が貼られている。


 世界は変わらない。

 この国では、私たちはまだ“名前のない夫婦”だ。


 けれど、こんなふうに笑い合える午後がある。

 家事の順番でもめたり、テレビのリモコンを取り合ったりする夜がある。

 そしてそのすべての時間を、「ふたりのものだ」と言える生活が、ここにはある。


 「ねえ、空」


 「ん?」


 「夏が終わったら、どこか旅行しない? ちょっと遠くてもいいから。ふたりで、“ふたりらしい場所”探したいなって思って」


 私はほんの少し考えてから、うなずいた。


 「いいよ。海はなしで」


 「じゃあ山だね。温泉? それとも、星の見える高原とか?」


 「うーん……“名前の見えない未来”でもいい?」


 「それ、詩的だけどノープランってこと?」


 「バレたか」


 結花が笑う。

 私も笑う。


 雨の気配はもうない。

 空は白く、にじむような光を部屋の中に差し込んでいる。


 梅雨が終わる。


 それはつまり、次の季節が来るということ。

 まだ見ぬ暑さ。

 まだ知らない未来。

 けれど、それでも構わない。


 だって、もう私はひとりじゃない。


 そしてこの人となら、どんな季節の中でも、

 どんな未来の中でも、

 “進むべき道”を選んでいけると、心から思えるから。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ