第1話:「光を見る少女」
第1話:「光を見る少女」
早朝、アルカディア大聖堂は静かな祈りの場であった。東の空が淡い桃色から金色へと染まり始めると、巨大なステンドグラスを通して七色の光が天使の階段のようにゆっくりと境内へ差し込んだ。その光はまるで天からの祝福のように、長い聖堂の冷たい石造りの床を虹色に彩り、祈りを捧げる信者たちの表情を柔らかに照らし出した。
信者たちはその息をのむ美しさに目を細め、厳かな静寂の中に響く聖歌隊の透き通るような歌声と、石壁に反響する祈りの言葉に心を傾けていた。しかし、その場にいる一人の少女だけは、その鮮やかな光景を見ることができなかった。生まれつき目が見えないルナ・ミラージュ—彼女は大聖堂の中央祭壇に立ち、まるで自らが光の源であるかのように優しく輝いていた。
銀色の長い髪は朝の微風にそよぎ、朝焼けの光を反射して淡い虹色に輝いていた。澄みきった青い瞳は閉じられているわけではないのに、何も映さず遠い世界を見つめているようだった。聖女の純白の儀式衣装は柔らかな光を宿し、胸元に飾られた光の紋章は朝日を受けて淡く光彩を放っていた。彼女の静かな佇まいは神々しく、まるで聖なる存在そのもののようだった。
「本日も光の加護がありますように」
彼女の透き通るような声が高い天井裏まで届き、その言葉は大聖堂の隅々にまで優しく響き渡った。集まった信者たちはその声に安堵の表情を浮かべ、胸に手を当てて深く頷いた。ルナの声は奇跡のような力を持ち、聴く者の心に暖かい希望の光を灯していた。
儀式が終わると、ルナは静かに手を伸ばし、支えに来た白髪の老人、ヘンリー大神官の温かな手を取った。老人の手には年月を重ねた皺があったが、その温もりはルナにとって幼い頃から変わらぬ安心感をもたらした。
「ヘンリー様、今日はどれくらいの方がいらっしゃいましたか?」
穏やかで深い茶色の瞳を持つヘンリーは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、ゆっくりと答えた。その声は老齢ながらも力強く、長年の信仰と知恵を感じさせた。
「今日は三十人ほどだ。先週より増えておる。皆、お前の祝福を求めにきておるのじゃ」
ルナは深く頷き、一列に並ぶ一人ひとりの前に立ち、丁寧に祝福の言葉を降り注いでいった。彼女にとって、信者たちは外見ではなく内面の「心の光」として捉えられていた。その光は一人ひとりが持つ魂の色であり、本当の姿だった。老いも若きも、富める者も貧しき者も、その心の光に違いはなく、ただその輝きの強さと色合いが異なるだけだった。
列の中の一人、粗末な服を着た中年の農夫に手を差し伸べると、ルナはふと眉をひそめた。いつもならば温かく輝くはずのその人の心の光が、今日はかすかに薄れ、灰色の靄がかかっているように感じられたのだ。それは体の病よりも、もっと深い所にある何かが失われかけているような感覚だった。
「どうしたのですか、聖女様?」
不安げな声に応え、ルナは静かに微笑みながら両手で農夫の荒れた手を優しく包み込んだ。その手からは、長年の労働と大地の香りが伝わってきた。
「少し疲れているようですね。この祝福があなたの心に光を取り戻しますように」
彼女が祈ると、胸元の水晶が微かに輝き、農夫の心の光が徐々に強さを取り戻したかのように感じられた。薄れていた光の周りの靄が晴れていくのをルナは感じ取った。感謝の言葉と共に、農夫は深々と頭を下げ、肩の力が抜けた安堵の表情で列から去っていった。
全ての祝福を終え、ルナはヘンリーに向き直った。朝の光は既に大聖堂内を満たし、暖かさと共に古い石壁から浮かび上がる塵の舞いを感じた。
「ヘンリー様、最近、心の光が薄れている方が増えているように感じます。あの農夫の方だけではなく、今日来られた方の半数以上が、いつもより弱い光を持っていました」
眉をひそめたヘンリーは、儀式用の杖を握りしめながら重い口調で告げた。その声には長年の経験から来る懸念が滲んでいた。
「実は、王都でも説明のつかない病が広がっておる。元気がなくなり、感情を失うという症状だ。医師たちは原因を特定できず、薬も効かないときている。もしかすれば、これと関連があるのかもしれん」
不安に唇を噛むルナに、ヘンリーは彼女の肩に手を置いて優しく言った。その手の温もりは心強く、ルナの緊張を和らげた。
「そなたの力は貴重だ。しかし、まだ全ては解明されておらん。今は祈りを絶やさずにいることが肝心じゃ。そなたの力で救える人を一人でも多く救うのだ」
その夜、ルナは大聖堂の隣にある自室の窓辺で静かに座り、月明かりを感じていた。窓を開け放つと、夜風が優しく彼女の髪を撫で、遠くの森から運ばれる木々の香りと夜の静けさが部屋に満ちていた。彼女の白い手は光を求めるように月に向かって伸び、心の中で囁いた。
「どうか、この世界の光が消えませんように」
その時、部屋の扉が軽くノックされ開かれた。木製の古い扉が微かに軋む音がした。
「失礼します、ルナ様」
侍女のマリアが顔をのぞかせる。彼女の足音は軽やかで、動きには常に気配りが感じられた。マリアの存在はいつも穏やかで、ルナにとっての安心をもたらす灯火のような存在だった。
「何か用かしら、マリア?」
「エレノア女王様からの召集がありました。明日、王宮へお越しいただきたいとのことです」
ルナは驚きに目を見開いた。王宮に呼ばれるなど初めてのことだった。心臓が早鐘を打ち始め、緊張と好奇心が胸の内に広がった。
「女王様が…私に?何か理由は?」
マリアは少し表情を曇らせつつ答えた。彼女の「心の光」にも不安の影が見え隠れしていた。
「詳しい事情は存じません。ただ、重要な用件とのことです。朝九時に馬車が迎えに来るそうです」
マリアが部屋を去ると、ルナは窓辺に戻り、王都の方向を向いた。王宮の高い塔は月明かりに照らされ、遠くから見ても威厳に満ちていた。期待と不安が交錯する中、彼女は慎重に眠りについた。夢の中でさえ、明日の出来事に思いを巡らせていた。
翌日、初めての王宮訪問にルナは特別な白い礼服に身を包み、緊張で背筋を伸ばしていた。ヘンリー大神官が傍らに付き添い、王宮への道すがら、馬車の揺れを感じながら心を落ち着けようとした。王宮に着くと、豪華な調度品の冷たさ、絨毯の柔らかさ、高い天井から響く足音、そして警備の騎士たちの鎧が軋む音…すべてが未知の世界を感じさせた。宮殿内は香木の香りが漂い、権力と歴史の重みが空気に満ちていた。
大広間の前で案内役の侍従が扉を開けると、エレノア女王の優雅で力強い声が響いた。その声には王家の血筋から来る威厳と、国を導く者の強さが宿っていた。
「ようこそ、ルナ・ミラージュ」
ルナは女王の声のする方向へ深く頭を下げた。彼女の長い銀髪が前に流れ、光を受けて輝いた。
「お呼びいただき光栄です、陛下」
女王は玉座から歩み寄り、その足音は軽やかでありながらも確かな存在感があった。両肩に手を置かれた瞬間、ルナは強く気高い「心の光」と、どこか秘めた深い悲しみを感じ取った。女王の心の奥には、長年封印されたような暗い記憶が眠っているようだった。
「聖女としての日々は重い責務でしょう。あなたの評判は王国中に広まっています」
「できることがあれば、それが何であっても光栄です。皆様の心に光をもたらすことが私の使命ですから」
女王は微笑みながら続けた。その声には真摯な懸念が滲んでいた。
「今回お呼びしたのは、国の危機について話し合うため。最近、不可解な病が広がっています。医師たちは原因を突き止められず、治療法も見つからない。あなたは何か感じることはありますか?」
ルナは慎重に言葉を選びながら答えた。彼女の直感は強く、この「病」が単なる自然現象ではないことを示していた。
「人々の心の光が徐々に薄れていくのを感じます。まるで何かに吸い取られているかのようです。自然な衰えではなく…誰かの意図がそこにあるように思えます」
体を少し震わせる女王はため息をついた。その息遣いには深い疲労と懸念が混じっていた。
「やはり…私たちの調査もそれを示唆している。これは単なる病ではないと考えている。何者かの企てが背後にある可能性が高いとね」
その時、謁見の間の重い扉が突然開き、一人の男が入ってきた。扉が開く音と共に、部屋の温度が一瞬で下がったかのように感じられた。
男の姿は冷ややかな威圧感を放ち、彼が周囲に漂わせる闇のオーラは、ルナに強い恐怖をもたらした。それは彼女がこれまで感じたことのない、深く冷たい闇だった。
「失礼、陛下。重要な報告がございます」
銀灰色の髪と紫の瞳を持つその男、アーサー・シャドウは、ルナの方へ冷たく視線を向けた。全身を貫くような冷気が彼の存在を象徴していた。彼の歩みは静かだが、その足跡には影が長く伸びているように思えた。
「アーサー卿」女王は明らかに緊張し、声のトーンが変わった。「今、大切な話の最中です」
アーサーは礼儀正しい口調ながら、その瞳は冷酷で、彼の「心の闇」は揺らぐことがなかった。むしろ、それは深淵のように静かに広がり、周囲の光を飲み込むようだった。
「これは聖女様ですか?お噂は伺っております。光を見ることのできる盲目の聖女…興味深い」
その言葉には皮肉が込められており、ルナの背筋に冷たいものが走った。彼女は震えを抑えつつ返した。
「はじめまして、シャドウ卿」
彼は一礼しながら、皮肉めいた微笑を浮かべ、去っていった。その姿は部屋の空気さえ変えたようだった。彼が去った後も、その存在の余韻が部屋に残り続けた。
「あの方は…」
ルナの問いに女王は少し間を置いてから答えた。その声には複雑な感情が混ざっていた。
「アーサー・シャドウ卿。王国の顧問官であり、最も優秀な戦略家の一人。今回の事件の調査を任されている」
女王はさらに静かに続けた。その声は秘密を打ち明けるかのように小さくなった。
「あなたに特別な任務をお願いしたい。人々の心の状態を調べ、異常を見つけたら報告してほしいのです。あなたの力が今の王国には必要なのです」
ルナは使命感に胸が熱くなり、力強く頷いた。これこそが自分の力を活かせる時だと感じた。
「お引き受けします、陛下。私にできることがあるならば」
帰途につくルナとヘンリー。馬車の中、二人は沈黙していた。窓から差し込む光の中、ヘンリーは何かを深く思案しているようだった。彼の「心の光」にも不安の影が見えた。
「ヘンリー様、何か心配なことでも?ずっと黙っていらっしゃいます」
老人はため息をつき、杖を握る手に力が入った。
「アーサー卿の存在が気になる。彼の周りにはただならぬ闇の気配がある。そなたも感じただろう?」
ルナも静かに答えた。彼女の手は無意識に胸元の水晶を握りしめていた。
「私も感じました。まるで冷たい風が全身を包むような…いいえ、それ以上の何かです。彼の近くにいると、心の光が弱くなるような気がしました」
ヘンリーは真剣な表情で言った。その声には長年の知識と経験から来る確信があった。
「実は、古い伝説に『光の聖女』と『闇の王』の物語がある。今夜、書庫で話そう。そなたが知るべきことがある」
その夜、大聖堂の地下書庫でヘンリーは古代の預言が記された羊皮紙を広げた。ランプの明かりが柔らかに揺れ、古い本や羊皮紙の匂いが漂う静かな空間だった。ルナは指先で触れて、その羊皮紙の質感からその古さを感じ取った。羊皮紙には微かな魔力の痕跡が残っており、書かれた文字が彼女の指先に語りかけてくるようだった。
「百年以上前に書かれた預言だ」ヘンリーは静かに話し始めた。「光と闇の均衡が崩れた時、心を奪う闇の王が現れる。見えざる目を持つ光の聖女が、世界に光を取り戻す…そして、光と闇の最後の戦いが始まると」
ルナは息を呑み、自分に言い渡された運命の重さに戸惑った。彼女の細い指が羊皮紙の上で震えた。
「私…それが私なの?」
ヘンリーは穏やかに頷いた。ランプの光が彼の老いた顔に影を作り、より厳かな雰囲気を醸し出していた。
「おそらくそうだ。そなたは生まれながらに光の加護を受けている。目は見えぬが、心の真実を見通す力がある。それは偶然ではない。そなたが大聖堂に来た日のことを覚えているか?」
ルナは首を横に振った。幼すぎて記憶にはなかった。
「そなたが四歳の時、エレノア女王自らがそなたを連れてきた。そなたの特別な力を見出したのは女王だったのだ」
ルナは震える声で言った。彼女の心には混乱と使命感が入り混じっていた。
「私にそんな大きな運命が…光の聖女として闇と戦うなんて」
ヘンリーは彼女の手を温かく握り、言葉を続けた。彼の声には確信と励ましが込められていた。
「一人ではない。預言にはこうも書かれている。『聖女は三人の守護者と共に旅立ち、真実の光を見出す』とね。仲間を見つけ、真実を導くのだ。そなたの力は最大の武器となるだろう」
その夜、ルナは夢を見た。眩しい光に包まれた女性が現れ、優しく微笑みながら語りかけた。「真実を探しなさい。光はいつもあなたと共に。恐れることはない」と。その声は心に深く染み入り、不思議な安心感をもたらした。
次の朝、朝日の差し込む部屋で目覚めたルナは決意を固めた。窓辺に立ち、朝の風を感じながら、心の中で誓いを立てた。「光の聖女として、私は人々の心を守る」
朝食後、ヘンリーの部屋を訪ねたルナは、ドアを叩く前に深呼吸をした。決意を伝える準備をしながら、静かにドアを開けた。
「旅に出ます」
ヘンリーは驚きつつも落ち着いた様子で、「いつから?」と尋ねた。
「明日から。最近の出来事、そして夢で見たことが、私に行動を促しています」
ヘンリーは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。朝日が彼の白髪を金色に染めていた。
「気をつけるのじゃ。外の世界は危険だ。大聖堂と違って、闇の力が強い場所もある」
ルナは強く頷き、「人々の光が失われていくのを見て見ぬふりはできません。私は光を守るために生まれてきたのなら、ただ祈るだけでなく、行動しなければ」と答えた。
ヘンリーは古い木箱から取り出した水晶のペンダントをそっと彼女の手に渡した。それは触れた瞬間、温かく脈打つような感覚をルナに与えた。
「『光の水晶』じゃ。古代から伝わる守りの品だ。危険を感じた時に助けになるかもしれん。そなたの力を増幅させる力もあるという」
ルナは感謝の言葉を述べ、水晶を首にかけた。胸元で静かに輝くそれは、彼女に不思議な勇気と力を与えた。水晶から広がる波動が彼女の全身を包み込むようだった。
「道中の準備は整えておくから、今日は十分に休むといい。明日からの旅は容易ではないだろう」
ヘンリーの言葉に頷き、ルナは深々と頭を下げた。心の中で、これから始まる旅への期待と不安が交錯していた。しかし、彼女の決意は揺るがなかった。光の聖女としての運命を受け入れ、闇に立ち向かう準備が整ったのだ。
(つづく)