プロローグ:「光と闇の予兆」
プロローグ:「光と闇の予兆」
眠りにつく王都アルカディアを、銀色の月光だけが優しく包み込む深夜。
アルカディア大聖堂の尖塔からは、星々を映す黄金の風見鶏が夜風に揺れ、その影が石畳に揺らめいていた。七色の宝石が埋め込まれた時計塔の文字盤は、月の光を受けて神秘的な輝きを放っている。
大聖堂の内部は静寂に満ち、巨大なステンドグラスは月明かりに照らされて幽玄な色彩を放っていた。古代から伝わる聖なる図案が描かれたガラスには、光と闇の永遠の戦いの物語が描かれている。そこへ、一筋の風が吹き抜けるように、誰かの足音が響く。
「ふむ...また同じ夢か...」
燭台の揺れる明かりを頼りに聖堂の奥へと進む老人は、ヘンリー大神官。長い白髪は銀の糸のように月光に輝き、深い皺を刻んだ穏やかな顔には、幾多の時を越えて守り続けてきた知恵が宿っていた。深い茶色の瞳は何かを探すかのように闇を見つめ、しわがれた指先は古びた羊皮紙の巻物を固く握りしめている。聖職者の装束の胸元には、エテルナ王国の紋章である太陽と三日月が交わる銀のブローチが光っていた。
老人のつぶやきは、聖堂の高い天井に吸い込まれ、何世紀も前から見守り続けてきた石の彫刻たちに見守られながら静かに消えていった。彫られた天使たちの表情が、月明かりの中でまるで命を宿したかのように見える。
ここ数週間、ヘンリーは同じ夢を見続けていた。
夢の中では、光と闇が渦を巻くように交錯し、世界が二つに引き裂かれていく。漆黒の闇と眩い光が螺旋を描き、その境界線は鋭く世界を分断していた。そして、その狭間に立つ一人の少女。銀色の髪を風になびかせ、見えないはずの青い瞳で世界を見つめるその姿は、あまりにも鮮明だった。少女の周りには、青白い光の粒子が舞い、彼女の存在を神々しく照らし出していた。
「導かれるままに来たが...やはり、何かが動き始めているのだな」
大聖堂の最も奥にある秘密の扉に近づいたヘンリーは、首から下げた古い鍵を取り出し、錠前に差し込んだ。錆びついた鍵穴に鍵を差し込むと、何かが目覚めたかのように古い魔法の印が浮かび上がり、ヘンリーの指先から青い光が伝わっていく。重厚な鉄の扉が軋む音を立てて開くと、螺旋階段が底知れぬ暗闇の中へと続いていた。冷たい空気が流れ出し、ヘンリーの髭を揺らした。
燭台の揺らめく光を前に掲げながら、ヘンリーはゆっくりと階段を下りていった。石壁からは水滴が滴り、冷たく湿った空気が老人の肺を満たす。壁に刻まれた古代文字が、燭台の光に照らされて一瞬だけ輝いては消えていく。階段を降りきると、そこには王国の最も古い秘密が眠る地下書庫が広がっていた。天井からは水晶のような鉱石が垂れ下がり、微かな光を放っている。
「どこだったか...確か...」
埃を被った無数の書架が迷宮のように並ぶ書庫の中を進みながら、ヘンリーは最も古い預言書が保管されている場所を目指した。彼の足音は厚いカーペットに吸い込まれ、書庫の静寂を破ることはなかった。時折、古い本から漏れる魔法のエネルギーが、青や紫の光となって空中を漂っている。光の加護を受けた王国エテルナに伝わる最古の預言、「光と闇の均衡」の書である。
最奥の小部屋に入ると、そこには一際大きな石盤の上に置かれた一冊の本があった。金と銀の装飾が施された表紙には、太陽と三日月の紋章が浮き彫りにされている。本の周りには、保護の魔法が薄い膜のように張り巡らされ、時の侵食から守っていた。
ヘンリーは恭しく頭を下げ、静かに呪文を唱えると、保護の膜が波打ち、彼を認識して消えていった。震える手で本を取り上げると、その重みが彼の手に古代の英知の重さを伝えた。
本を開くと、その頁は淡く青白い光を放ち、古代文字で書かれた預言の言葉が浮かび上がった。文字は単なるインクではなく、光そのものが紙面に織り込まれたかのように輝いている。
「百年ごとに、光と闇は均衡を求めて揺れ動く。光が強まれば闇が応え、闇が広がれば光が目覚める。均衡が崩れた時、心を奪う闇の王が現れ、見えざる目を持つ光の聖女が世界に光を取り戻す」
ヘンリーの指先は微かに震えながら、慎重に頁をめくっていった。羊皮紙の触感を確かめるように、指先でなぞりながら続きを読み進める。頁をめくるたびに、部屋の空気が振動し、壁に描かれた図案が命を吹き込まれたかのように動いた。
「光の聖女は闇を恐れず、その心の中にも闇を宿す。闇の王は光を憎みながら、その心の奥に光の痕跡を残す。二つの力が交わる時、真の均衡が生まれる」
「やはりそうか...時が来たのだ」
老人は深いため息をつき、本を静かに閉じた。閉じられた本からは、最後の光が漏れ、ヘンリーの顔に一瞬の輝きを与えた。しばし目を閉じ、沈思黙考する。長い沈黙の中で、地下書庫の空気が重く彼の肩にのしかかる。
エテルナ王国で起きている不可解な現象――人々から心の光が失われ、生気を失っていく奇病。医師たちも魔法使いたちも、その原因を突き止めることができずにいた。ヘンリーの記憶に、王都の通りで突然倒れ、目の光を失った人々の姿が浮かび上がる。彼らの体は生きていても、魂が抜け殻になったかのようだった。しかし、この古い預言を読み返して、ヘンリーには確信が生まれた。これはかつて予言された「光と闇の戦い」の前兆なのだ。
そして、あの少女の存在も。
ルナ・ミラージュ。
生まれながらに盲目でありながら、人々の「心の光」を感じ取る稀有な能力を持つ少女。彼女の銀色の髪は月光のように輝き、見えないはずの青い瞳は、時に星空のような深みを宿している。彼女がこの聖堂に連れてこられたのは十五年前、わずか四歳の時だった。
その日のことを思い出す。稲妻が空を裂き、雷鳴が轟く嵐の夜、エレノア女王自らが、小さな少女の手を引いて大聖堂に現れた。女王のエメラルドのドレスは雨に濡れ、金色の髪は乱れていた。女王の高貴な顔には、普段の威厳ある表情ではなく、恐れと切迫感が浮かんでいた。その背後には、何かから逃れてきたような焦りが見え隠れしていた。
「この子を守ってください、ヘンリー」女王は震える声で言った。その声には、女王としての威厳よりも、一人の女性としての哀願が込められていた。「この子は特別な存在です。この子の中に、私は光の力を宿しました」
少女の小さな手は女王の手の中で震え、見えない目は虚空を見つめていた。しかし、その姿には不思議な安らぎが漂っていた。女王が連れてきた少女の周りには、微かに光のオーラが揺らめいていた。
当時のヘンリーには、女王の言葉の本当の意味が理解できなかった。だが今、すべてが繋がり始めている。王国を守るための女王の秘密の決断、そして少女に授けられた運命。
「光の力を宿した...それは、光の聖女としての力を」
ヘンリーは小さくつぶやき、額に浮かんだ冷や汗を拭った。その言葉は書庫の闇に吸い込まれ、古い書物たちの間に秘密として刻まれた。
再び螺旋階段を上り、大聖堂に戻ったヘンリーは、東の窓から差し込み始めた朝日の光に目を細めた。夜の帳が少しずつ持ち上がり、空は濃紺から薄紅色へと変わりつつあった。静寂の中で時を待っていた聖堂内部が、少しずつ目を覚ましていくようだった。彫像の顔に朝の光が当たり、昨夜の不安げな表情から希望に満ちた表情へと変わっていく。
巨大なステンドグラスを通り抜けた光は七色のスペクトルに分かれ、聖なる床を鮮やかに彩っていく。朝露に濡れた花々の香りが、どこからともなく漂ってきた。聖堂の外からは、目覚めた王都の最初の音—パン屋の鐘、市場に向かう馬車の音、朝の祈りを唱える信者たちの声—が聞こえ始めていた。
「もうすぐ始まる...」
ヘンリーは深く息を吸い込み、ルナの部屋がある聖堂の東翼へと向かった。朝の光が差し込む回廊を通り抜けながら、彼の影は長く伸び、時に複数に分かれて踊るように見えた。
今日も変わらず「光の儀式」が行われる。人々に祝福を与え、心の光を強める神聖な儀式。そして、ルナがその中心を担う。彼女の手から放たれる祝福の光は、訪れる人々の心を温め、希望を与えてきた。特に最近は、病に苦しむ者たちが増え、彼女の力を求める声が日に日に大きくなっていた。
しかし、今日はいつもと違う。ヘンリーには確信があった。光と闇の均衡が崩れ始めている。そして、ルナが真の「光の聖女」として目覚める時が近づいているのだ。彼女自身はまだ気づいていないかもしれないが、彼女の中に眠る力は、この世界の命運を左右するほどに強大なものだった。
聖堂の回廊を抜け、ルナの住まう小さな部屋の前に立ったヘンリーは、扉をノックする前に、静かに祈りを捧げた。彼の心の中で、光の神への祈りの言葉が形を成していく。
「光の神よ、この子に力を。そして、私たちの王国に平和をもたらしたまえ」
祈りの言葉が終わると同時に、彼がノックする前に、扉の向こうからは水晶のように澄んだ声が返ってきた。まるで彼の存在を感じ取っていたかのように。
「おはようございます、ヘンリー様。今、参ります」
ルナの声には、いつもの穏やかさに加えて、何か新しい決意のようなものが感じられた。まるで彼女も、何かを予感しているかのように。扉の隙間からは、淡い光が漏れ出ていた。それは朝日の光ではなく、彼女自身から発せられる光のように思えた。
老神官の瞳に、万感の思いが浮かぶ。まだ幼さの残る少女の肩に、これから背負うことになる重大な運命。彼にできることは、ただ彼女を見守り、導くことだけだった。長い人生の中で見守ってきた多くの命の中で、彼女ほど特別な存在はいなかった。
「神よ、彼女を守りたまえ」ヘンリーは心の中でもう一度祈った。
朝日が王都全体を包み込み始める中、光と闇の戦いの幕が、今まさに上がろうとしていた。大聖堂の鐘楼からは、一日の始まりを告げる荘厳な鐘の音が響き渡る。その音は王国中に広がり、新たな運命の日の始まりを告げていた。