8話 あなたがお姫さまですか?
瞼越しに差し込む柔らかな光。チュンチュン、と軽やかな小鳥のさえずりが鼓膜をくすぐる。
どうやら僕は、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
ゆっくりと目蓋を持ち上げると、視界いっぱいに広がったのは、至近距離で見開かれたマスターの瞳だった。
「うわあああっ!?」
反射的に飛び起きる。心臓が喉から飛び出しそうだ。
え!? 嘘でしょ!? ずっとこの距離で僕の寝顔を観察してたってこと!? い、いつから!?
「どうした、サチ。朝から騒々しいぞ」
マスターは涼しい顔で、床にあぐらをかき、トレードマークの大きな魔女帽子を被り直した。
「ど、どうしたもこうしたもありませんよ! ガン見されながら目覚めるなんて経験、普通ありませんから!」
「はぁ……」マスターはわざとらしく、深いため息をついた。「そろそろ私に慣れてくれてもいいと思うんだが」
「なんで僕がため息つかれなきゃいけないんですか!? というか、マスターと出会ってまだ一日しか経ってませんけど!?」
「だが、我々は一晩を共にした仲じゃないか」マスターは妙に色っぽい声音で言う。
「そういういかがわしい言い方、やめてください!」
「なんだよー、ケチー」
「ケチとかそういう問題じゃないです!」
朝っぱらからこんな胃もたれしそうな会話を繰り広げていると、ふわり、と一枚のピンク色の手紙がマスターの膝元に舞い降りてきた。見上げれば、白い鳩が一羽、青空へと飛び去っていくところだった。
手紙に目を通した瞬間、マスターの動きが凍り付く。
「バカな……もう、だと!? 早すぎる……!」
「ど、どうしたんですか?」
マスターの尋常でない表情に、僕の心臓が嫌な音を立てる。あの恐ろしかった鬼熊と対峙した時でさえ、こんな顔はしていなかった。
「『あと二時間ほどで其方に到着いたします。準備万端、お待ちしておりますわ』……だと」
「つまり?」
「分からんのか!? あの姫がここに来るんだぞ!? しかも、猶予はたったの二時間!」
「確か、姫様は視察に……街の進捗を確認しにくるんでしたよね?」
「ああそうだ。そして現状を見れば、支援は打ち切り。食料の配給も停止だ。昨日、家がなくなったばかりだというのに……」
「ちゃんと街づくりさえ始めていれば……」
「やかましいぞ、サチ」
「まあ、僕は別に食べ物がなくても平気ですけどね。人形ですし、お腹が空くなんてことは__」
言いかけた瞬間、僕のお腹から盛大に「ぐぅぅぅ」という音が響き渡った。……え?どこから? ……僕からだ。
「これはまた、なんとも古典的な……」
カッと顔に熱が集まるのが分かる。嘘だろ、この体、腹が減るのかよ。
「僕の体のどこが人形なんですか! 設計ミスじゃないですか!?」
「さあな? だが、どうやら飢え死ぬ時は一緒のようだな!」マスターはどこか楽しそうだ。
「えっと、と、とにかく! 姫様が来るまでに、なんとか誤魔化す方法を考えましょう!」
「賛成だ」
かくして、急遽「姫様おもてなし(仮)&街開発緊急対策会議」が始まった。様々なアイディアが飛び交う。
1. マスターの魔法で、立派な建物をたくさん建てて街っぽく見せかける。
→ 「私の魔力では、一日がかりであの家を建てるのが限界だ。二時間で街など無理ゲーだ」
2. サチの銅像を建てよう。可愛いから姫も許してくれるはず。
→ 「真面目に考えてください!」
3. ハリボテの建物で誤魔化す。遠目ならバレないのでは?
→ 「そんな見え透いた小細工で納得すると思うか?」
4. 巨大な落とし穴を掘って、姫の到着を物理的に遅らせる。
→ 「足止めして、そのあとどうするんですか……」
5. そもそも「街」とは何か? 定義から考え直すべきでは?
→ 「建物がたくさんあれば街だろう。たぶん」
6. ミニチュアの建物をたくさん作って、「これが我々の考える新しい街の形です!」と言い張る。
→ 「……妙案かもしれん」
7. サチの圧倒的な可愛さは、もはや街そのものと言っても過言ではない! つまり、サチこそが街なのだ!
→ 「本気で何言ってるんですか?」
8. サチの緊急ライブ会場を設営しよう! 歌と踊りで姫をもてなす!
→ 「会場ができても何もしませんよ!?」
9. 待ってください! マスターの魔法で食料を作れば、配給停止も怖くないのでは? 僕って天才?
→ 「無から食料を創造するなど、その構造を完璧にイメージできねば不可能だ。パンの分子構造など知るか!」
10. マスターの魔法って、意外とポンコツ……?
→ 「うるさいぞサチ」
11. やはり、どうあがいても二時間で街なんて無理なのでは?
→ 「……確かに、そうかもしれんが……」
12. こうなったら姫と徹底抗戦! 力ずくで追い返す!
→ 「なるほど、一理ありますね」
13. だから! サチのライブ会場を!! ファン第一号は私だ!
→ 「しつこいですよ!」
14. シンプルに逃げるのはどうでしょうか?
→ 「最終手段だな」
15. というか住人がサチだけって、街としてどう足掻いても……
→ 「とりあえず、仲間を増やすことを目標にしますか」
16. 仲間を増やすってこの森の時点でもう無理だろ
→ 「むむむ、その通りかも……でも目標を持つことは悪いことじゃないですよ」
17. それよりもお腹すいた……。
→ 「あーたしかに」
18.いっそ要塞を作って立てこもり、姫を中に入れないようにする!
→ 「……もう、それでいいんじゃないか?」
19. サチが可愛い。
→ 「うん」
……果てしない議論の末、我々は「要塞を建造し、立てこもる」という結論に達した。
おそらく、現状で考えうる限り、最も完璧に近いアイディアだろう。
ちなみに、「素直に謝罪する」という選択肢は存在しなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
作戦名は「オペレーション・マジノ」に決定した。命名者は、歴史にちょっと詳しい僕である。
手順は以下の通り。
1. マスターが頭の中で「完璧な要塞」をイメージする。
2. マスターが「創造」の魔法でそれを具現化する。
3. 完成した要塞の中に、速やかに入る。
4. サチがマスターの偉業を心から褒め称える。
以上である。
なんとシンプルかつ素晴らしい作戦なのだろうか。
若干、手順を無理やり増やした感が否めない気もするが……。
「あの……やっぱり、手順4、いらなくないですか?」
「何を言うか、サチよ。この作戦において、最も重要かつ核心的な部分であろうが」マスターは胸を張る。
「完全にマスターの個人的な欲望で構成されてますよね、それ」
「それくらい、別にいいではないか。ケチー」
「……まあ、ちゃんとすごいのができたら、褒めますよ。たぶん」
「おお!俄然やる気が出てきたような気がするぞ! よし、見ていろサチ。今、最強の要塞をイメージする!」
「ふむ、大きいものを作るのは久しぶりだな」そう呟き、マスターは大きな魔女帽子を深く被り直し、すっと目を閉じた。
全神経を要塞のイメージ構築に集中させているのだろう。
時折、無造作に指をくねらせたり、小声で何やらぶつぶつと呟いたりしている。
その表情は真剣そのものなのだが、傍から見れば、やはりどうしようもなく変人である。
僕のマスターは、変人なのだ。
そんな、もはや疑いようのない事実を再確認しながら、僕はその様子を静かに見守った。
しばらくして、マスターは「ふぅっ」と1つ大きな息を吐き、ゆっくりと目を開いた。そして、「準備、オーケーだ」と短く告げた。
僕がそれに頷くよりも早く、異変は起きた。
キラリ、と光の粒が1つ、僕の顔のすぐ横を通り過ぎていく。
まるで蛍の光のような、淡く優しい輝き。それは頼りなげに宙を漂い、やがて草むらの中へと静かに沈んでいった。
だが、それは始まりに過ぎなかった。1つ、また1つと、光の粒が草木の間から湧き出るように現れ、宙を舞い始める。
試しに手のひらで軽く扇いでみると、光はまるで絹の織物のように波打ち、幻想的な軌跡を描いた。気がつけば、僕らの周囲は、おびただしいほどの光の粒子で満たされていた。
「すごい……」思わず、感嘆の声が漏れる。
「――実行だ」マスターが静かに、しかし力強く唱える。
その声に応えるように、光の粒は急速に密度を増し、渦を巻きながら1つの形を取り始める。そして、ひときわ強い閃光が弾けたかと思うと、僕たちの目の前には、巨大な建造物がそびえ立っていた。
それは、重厚な石造りの塔だった。
高さは周囲の木々よりも頭1つ分ほど高く、横幅は自動車が一台すっぽり収まるくらいだろうか。
「どうだ、サチ。即席にしては、なかなかの出来栄えだろう?」マスターは得意げに鼻を鳴らす。
「まあ……確かに、これはすごいですね。立派な塔です」
「おい、サチ。手順を忘れたのか? 私を褒めるのは手順4のはずだろうが」
「めんどくさい人ですね!?」
せっかく素直に感心してあげたのに!
「では、手順その3だ。早速、中に入るぞ」
「そうですね。で、入り口はどこです?」
「………………」
「…………………………えっ!?」
「あー……そっか、入り口……」マスターが明後日の方向を見ながら呟く。
「嘘ですよね!? まさか、入れないなんてオチはないですよね!?」
僕は慌てて塔の周りをぐるりと一周してみる。しかし、扉はおろか、窓1つ見当たらない。完璧なまでに、ただの石の円柱だ。
「無いですよ、入り口!」
「…………知ってるぞ」マスターはバツが悪そうに目を逸らした。
「……設計、ガバガバじゃないですか!」
「いや、だって、とにかく頑丈な円柱を作ればいいかなって思って……えっと、その、どうしようかサチ」
「……作り直すとかは?」
「それは無理だな……。流石にこれほど巨大なものを連続で創造するほどの魔力は残っていない。特に石材は魔力の消耗が激しいからな……」
「……ツルハシ、作れますか? もう、物理的に穴を開けるしかないんじゃ……」
「そうだな……すまない、サチ。苦労をかける……」
「いいってことですよ……もう、こうなったら意地です」
「創造――《ツルハシ》」
マスターが作り出した無骨なツルハシを、僕は受け取る。
覚悟を決めて、石造りの壁に力いっぱい振り下ろす! ガキンッ!という硬い音と共に、石の表面がわずかに削れただけだった。
「これは……骨が折れそうですね……」
「なあ、サチ……これって、姫が来るまでに間に合うのか……?」
「そんなの! やってみなきゃ! 分かんないですよ!」
僕は半ばヤケクソで、再びツルハシを硬い壁に叩きつけた。カン!カン!と、むなしい音が森に響く。
「やっぱり、どう考えても無理な気がするぞ、サチ……」弱音を吐くマスター。
「何言ってるんですか! もう少しで穴が開きそうなんですよ! あと一息……!」
ツルハシを振い続けて小一時間、ようやく穴が開きそうなところまで来た。
「あの……失礼、貴方達はいったい何をしているのですか……?」
ツルハシを振るう僕の背後から、凛とした、それでいてどこか柔らかな声が聞こえた。
「ばっ!」文字通り、そんな効果音が付きそうな勢いで、僕とマスターは同時に振り返る。
そこには、陽光を反射して輝く純白の髪に、小さなティアラを載せた少女が立っていた。高貴な身分であることを示す豪奢な白いドレス――しかし、よく見ると丈が少し足りていない。だが、肘上まで覆う純白の長手袋と、太ももまである同色のソックスが、肌の露出を巧みに隠している。その優雅な佇まい、全身から放たれる気品は、疑いようもなく「姫」その人であることを物語っていた。
「あ、あなたが……お姫さま、ですか? これは、えっと、その、街づくりの一環でして……」
「創造!」
僕のしどろもどろな言い訳が終わる前に、マスターが呪文を叫ぶ。刹那、僕と姫の間には、分厚い木造の壁が出現した。
「逃げるぞ、サチ!」
「え? えっ!?」
え!? なんで!? 逃げるって、そういう展開なの!? ここで逃げても状況悪化するだけじゃ!?
混乱する僕の手首を掴み、マスターが猛然と駆け出す。僕も反射的に足を動かす。
「あらあら、どうして逃げるのですの?」
姫の落ち着いた声が聞こえたかと思うと、次の瞬間、目の前の木造の壁に、轟音と共に巨大な穴が開いた。
そして、その穴から日焼け1つない白く華奢な姫の――素手|が、にゅっと突き出された。
「――って、ええええ!?」
素手!? 素手でこの分厚い壁を!? あの、どこからどう見てもか弱そうな細腕で!? この姫、実は筋肉ゴリラ系なの!? それとも鬼熊と同系統のお姫様なの!? あるいは、この世界の住人は皆、標準で壁くらい破壊できる怪力持ちなのか!?
僕がそんな驚愕に思考を奪われている間に、今度は木っ端微塵になった壁の破片が宙を舞い、壁そのものが跡形もなく消滅した。
「な……んだと……!?」
その異常な光景には、さすがのマスターも驚愕の色を隠せないでいた。
ていうか、マスターも知らないの!? この姫の能力! 旧知の仲じゃなかったんですか!?
瓦礫の向こうから現れた姫は、やはり薄い笑みを浮かべたまま、白い手袋を――なぜか口に咥えていた。
「もう、観念していただけませんか?」
姫は咥えていた手袋を、器用に胸元(ドレスの隙間?)にしまいながら言った。
「創造!」
マスターは、姫の言葉に対する返答として、鋭い穂先を持つ槍を創り出した。
そして、あろうことか、その槍を躊躇なく姫に向かって投げつけた!
「な、何してるんですかマスター!?」
僕の絶叫も空しく、槍はへろへろと放物線を描き、姫へと迫る。「危ない!」そう思った刹那、姫はこともなげに、ひらりと差し出した手でその槍を――掴んだ。そして、次の瞬間。掴まれた槍はまるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消滅した。
「まあ、危ないですわね。万が一、他の者に見られましたら、あなた、不敬罪で牢屋行きですわよ?」
「はっはー! 残念だったな、ここには我々以外、誰もいないから安心したまえ!」
「はぁ……。それで、街づくりはどこへ行ったのやら……。それに、『誰もいない』ことはありませんわ。そこに一人、いらっしゃるではありませんか」
そう言って、姫の視線が僕に向けられる。
「ああ、そうだな。サチがいたな。見よ! この愛らしさを! この圧倒的なキュートネスは、もはや1つの街に匹敵すると言っても過言ではあるまい!」
「……本気で言っていますの? その可愛さが街に匹敵する訳がありませんわ!」
ピシャリ、と言い放ち、姫は地面を蹴って僕たちの方へと駆け出した。その動きは驚くほど速い。
「やっぱりダメか!」
「そりゃあ、そうですよ!」
「チィッ、創造《石ころ》!」
マスターは、今度はその辺に転がっていたのと同じような、ただの石ころを創り出し、それを姫に向かって投げつけた。
また掴まれて消されるだけだろう。そう思ったが、姫はその素振りを見せない。え、まさか、避けきれずに顔面に――
鈍い音がして、石ころは確かに姫の額に直撃した。だが、当たったはずの石ころは槍と同じように瞬間的に消滅し、姫は眉1つ動かさずに平然としている。
「……その力、それほどまでに成長してしまったのか」マスターが呻く。
「ええ。この二年ですっかり変わってしまいましたわ。これも日々の鍛錬の賜物です」
「そうか……それは、残念だな。では、これはどうだ!」
マスターは今度は魔法ではなく、地面から手当たり次第に石ころをいくつも拾い上げ、それを姫に向かってばら撒いた。
しかし、姫はひらり、ひらりと白いドレスを翻し、熟練のバレリーナのような華麗なステップで降り注ぐ石ころを全て完璧にかわしてみせた。
「な、なんだその動きは!?」
「これも、鍛錬の賜物ですわ」
そして姫は、回避の勢いをそのまま利用し、ふわりと大きく跳躍した。
空中で優雅に1回転したかと思うと、次の瞬間には、マスターの目の前に音もなく着地していた。
「――捕まえましたわ」
姫は白手袋に包まれた細い指先でマスターの首筋にちょこんと触れた。それだけだ。それだけなのに、マスターはまるで糸が切れた人形のように、膝から崩れ落ちた。
「ぐっ……お……力が……抜ける……」
「あなたの魔力を、少し頂きましたわ。ふふ、これで、もう動けないはずですわね」
姫の言葉通り、マスターは地面に倒れ伏し、ぴくりとも動けなくなってしまった。
「さて、と」
姫は倒れたマスターを一瞥すると、くるりとこちらに向き直った。まずい!僕は反射的に踵を返して逃げようとしたが――目の前に、姫がいた。いつの間に移動したんだよその技!?
あまりのことに驚いて、僕は情けなくも尻もちをついてしまう。
そんな僕を、姫は興味深そうに、じっと見下ろしてくる。
その時になって初めて、僕は姫の顔をはっきりと見ることができた。
やはり、と言うべきか、驚くほど整った顔立ちをしている。マスターとは対照的な、どこまでも白い純白の髪。力強い意志を感じさせる、鮮やかな金色の瞳。不思議だ。髪の色も、瞳の色も、顔の造作も、何1つ似ていないはずなのにマスターの面影を感じる気がした。
「あなた……近くで見ると、確かに可愛らしいですわね。わたくしが少し嫉妬してしまいそうなほどに」
姫はそう言って、その手を、僕の顔へとゆっくり伸ばしてくる。
「え……あ……」
その得体のしれない迫力と、金色の瞳に見据えられて、僕は完全に体が竦んでしまい、身動き1つ取れない。
「待て! サチにだけは……触れるなぁっ!」
その時、動けないはずのマスターが、最後の力を振り絞ったのか、地面を転がるようにして姫に体当たりを敢行した。不意を突かれた形になった姫は、意外なほどあっさりとその衝撃に体勢を崩し、数歩よろめく。
そして、その際に、バランスを崩した姫の伸ばされた手が――僕の着ている服の裾に、触れた。
「あ」
マスターの、間の抜けた声が聞こえた。
次の瞬間、僕が身に着けていた服は、その全てが、跡形もなく――消滅した。
残されたのは、生まれたままの姿の僕と、静まり返った森の空気だけだった。