黄昏
息を切らして白亜の塔の、その階段を駆け上がる
間に合う自信は無かったが走らずにはいられなかった
そうしている内にも、身を投げた数え切れない数の者たちが逆さになった姿で堕ちていくのが窓の外に視える
あの中に姉が居ない事を、僕は強く願った
伝令を仕事にしているので、脚は速い方だ
いま僕が姉に運ぼうとしているのもまさにその伝令、生命を救うかも知れないたった一つの情報だった
本来は天地の総てに知らせなくてはいけない重大な内容のものだったが、僕は罰されても良い覚悟だった
姉を死なせない、ただそれだけの為に僕は世界の総てを見捨てて走り続けていた
逸る気持ちが先行してしまい、階段に脚を引っ掛けてしまう
急速に視界に近付いた床も白亜の清純さだったが、激突してしまえば伝わるのは石の硬さだった
顔を強く打ち、鼻と口から出血する
四つん這いになりながら、僕は他人事の様に床に出来た血の染みを視た
ネクタルが効いているからか、痛みはそれ程無かった
過剰服用者の中には、出血や打撲が快楽になってしまう者さえ居るらしい
「らしい」という言い方は適切では無い
僕の姉も、重度のネクタル依存を起こしている
それを危険と解っている僕でさえ、心身の苦痛を和らげる為に定期的な服用は行っていた
今や、ネクタルを服用せずに生きている者など居ない
王から乞食に至るまで、あらゆる者が激しい痛みの中に生きていた
誰もが救いを求めていた
だが主は、僕たちに救いを与える事は無かった
そうした事情もあり、気が付けばネクタルはあまねく総ての者達の手の中に有った
「神が救ってくれないなら、自らの手で守ろう」
そんな不遜な事を言う者さえ現れた
僕は伝令として「その行いの愚かさ」を説いて回ったが、その影ではネクタルを常用していた
王朝も教会もそれに気付く事は稀に有ったが、上手く隠してくれていた
示しが付かないからだろう
それに、僕自身も教会の中にネクタルの常用者が数え切れない程居るという事実を知っていた
或いは誰もが、「もうネクタル無しでは我々は生きられない」と知っていたのかも知れない
僕は顔の血を手の甲で拭うと、床に手を付いて立ち上がろうとした
だが、弱った産まれたての動物の様に、すぐその場に倒れてしまう
考えてみれば、2日ほど何も口にして居なかった
混濁した脳裏では、そういった生存に関わる事さえが忘却の彼方にあった
13回ほど立ち上がろうとして転倒したあと、僕はポケットから吸引器を取り出した
全身のあちこちを打ち付けて出血が酷かったが、それも含めて薬剤の酩酊が救ってくれる事を期待した
ライターでネクタルを炙ると甘い煙が立ち昇る、僕はそれを吸引器で肺まで吸い込んだ
「あ…」
「ああー…」
全身から力が抜けていく
にも関わらず、躰が一枚の羽の様に軽く感じられた
僕は再び立ち上がると、赤子の様な安らかな表情で塔の上層へと階段を走った
ふらついて壁に頭を打ち付けたり、走りながら様々な方向へ転倒したりしたが、もはや痛みは無かった
仮に有ったとしても、今では痛みにすら感謝の情が感じられた
転んで白亜が僕の血に染まるたび、僕は歓びを感じていた
どの程度階段を昇れたかさえ解らなかったが、僕は力尽きてバランスを崩し、後ろへと倒れた
少しの浮遊感のあと、踊り場に叩き付けられる感覚が、夢の中の様に非現実的に脳に伝わってくる
背中の翼の骨が折れた様な音が、躰の内側で聞こえた
今の僕にはそれも現実感が無かった
──早く姉に知らせないと…
そう思ったが、何を知らせないといけないのかが思い出せなかった
少しして、それが「ネクタルの禁止令は、発令から10分で異常な量の自殺者を発生させたため緊急に中止となった」事だと僕は思い出した
だが、その言葉の意味がもう僕には解らなかった
自分の血だらけの頭を撫でる
頭上の光輪が指に触れた
その手触りが面白くて、僕は赤子の様に光輪を手で弄んだ
「忘れられる事だけが、僕の最後の幸せなのかな」
言葉が口から流れ出る
それでも、次の瞬間には僕にはその意味すら解らなくなっていた




