8. 公爵閣下と愛人の本当のところ
——この日はルドルフにとっても大きな転機だった。
「……ようやく落ち着けるな」
上着を椅子の背にかけながら、ルドルフは深く息を吐いた。
勢いよくドカッと腰をおろすと、座り心地の良いソファーを手で撫でる。
住みなれた家に戻った安堵感よりも、今は得体の知れない苛立ちを感じている。
「公爵閣下、改めまして……お帰りなさいませ。どう?ドレス姿も良いものでしょう?夕食はこっちで一緒に食べましょうね!」
ノックもなくドアが開けられると、イザベラが立っている。
ドレスを見せると、許可もなく部屋に入り隣に座った。
「……そうだな」
公爵とその夫人のために作られた寝室は隣り合っていて、室内のドアでつながっている。——それにしても、ノックもなく訪れるというのは無礼であろう。
「……(戦地では何とも思わなかったが、下品な女だな)」
「やはり本邸の晩餐に顔を出す。主人がいないのは非常識だし、戦士たちの今後の士気にもかかわるから行ってくるよ。夕食は一人で済ませてくれ。」
「そんな…。嫌よ…夫人の隣に座るの?」
「当然そうなるだろうな。普通のことだ。これからは毎日一緒なんだから一晩くらい我慢してくれ。君も公爵家で暮らそうと思うなら、毎日楽しく暮らすなんて無理な話だと承知しおく方がいい」
「……わかった。お詫びにキスして?」
気分の乗らないルドルフは額へのキスで済ませようとしたが、不満そうなイザベラが口付けをせがみ、結局深く交わることになった。
——それでも不満を募らせるのがイザベラという女、強欲である。
「今日はここで夕食をいただくわ。」
「かしこまりました。すぐにお持ちしますか?」
「そうしてちょうだい」
侍女たちが夕食の支度を始め、イザベラはその様子をぼんやりと眺めている。そしてボソッと呟くように聞いた。
「ねぇ、晩餐の料理は豪華なの?」
「別邸には詳細が知らされておりませんが、騎士たちを労うためのものですから、豪華でないはずはございません」
「そうだ!ルドルフに連絡してデザートとか持ってくるように言ってくれない?私だけメニューも知らないなんて、おかしいわよ」
「恐れながら、そのようなことはご遠慮なさるべきかと。今後のこともございますし……。本邸のことはお気になさず、イザベラ様には穏やかに暮らしていただきたく思います」
専属侍女に任命されたルイーズが、踏み込んだアドバイスを送る。
一緒に恥をかくのはゴメンだからだ。
「生意気なのね。あなたってずーっと貴族の侍女やってるの?」
「はい。以前は、西部の公爵家で夫人にお仕えしておりました」
「わかったわ。それなら私を公爵夫人と同じような女に育てなさい!先生だと思えば、生意気も許せるわ」
準備が整い夕食に手をつけるイザベラだが、マナーが酷い。
パンに直接かぶりつく姿を見たルイーゼは、目を疑った。
「イザベラ様、パンは一口分を取ってお召し上がりください。」
「はぁ…誰もいないんだからいいじゃない?ルドルフの前では気をつけるわよ。あー食べた気がしないっ!」
アドバイスに逆らいながら食べ終えると、次は楽しそうにネグリジェ選びを始める。——ルドルフとの夜のためである。
「高価だからかしら?どれもこれも身体にフィットして心地いいわね。サイコーーーーー!!はぁ、はやく夜にならないかなぁ」
ルイーゼを下げ、クローゼットの物色を始めて小一時間。
次から次へとドレスや靴を身に纏ってみる。
イザベラにとって人生初の贅沢な生活だ。
「別邸に篭りたくないわ。アリアがどんなモノ持ってるのか知りたいに決まってるじゃない!?」
手に取った品々をずらっと並べると、ニタァッと笑う。
「まだまだ足りないわ。物なんて序の口よ」
そうこうしているうちに夜がやってきて、隣の部屋からドアを閉める音がした。ルドルフが晩餐から戻ったようだ。
——イザベラに対し、こちらは戦から戻った夜。
ルドルフは、じわじわと押し寄せる疲れを感じ始めている。
身体の変化を突きつけられ、心底、休息を求め始めているのだ。
「戻ったのね!一緒にお風呂に入らない?」
イザベラは相手の様子などお構いなし。
騒がしく室内のドア開け、またまた勝手に入ってくる。
自分のことしか考えない人間の典型、その姿にルドルフは計り知れない不快感に包まれた。
「は?なぜノックしないんだ?次からはノックをして、俺が許可してから入れ!いいな?」
「ごめんなさい。どうしたの?そんな怖い声、聞いたことないわ!あの女に何か言われたんじゃないわよね? 一緒にお風呂に入れば気分も落ち着くから……行きましょ?」
「今日は疲れているんだ。君は相手のことを気遣える女性だと思っていたのだが、俺の勘違いだったのか?」
「え…えぇ、もちろんよ。ごめんなさい。あなたに会えたことが嬉しくて、つい我儘になってしまったの。今日は一緒に寝てくれるだけでいいわ」
「わかってくれたならいい。こちらも風呂に入るから出て行ってくれないか?また後でな。強く言って、すまなかった(……本当は一緒に寝るのもゴメンなんだが)」
「ねぇ、愛してる?」
「……(鬱陶しいな…バカなのか?)」
「愛してるって言ってくれたことないわよね?これからは言葉ではっきりと伝えて欲しいの。私の立場がどんなに弱いものか知ってるわよね?あなたのそばに居るためには、必要なことなのよ。」
「前も言ったろ? 誰に対してもそんなこと言いたくない性分なんだ。こうして一緒に住めるようにしてやったんだから、それで満足した方がいい」
「わかったわ……」
イザベラが自室へ戻った途端、ルドルフは大きな息を漏らす。
自分が招いた現実と今更ながら向き合っているのだ。
戦地で近寄ってきた女。
誘われて抱いてしまったのが始まりだったが——。
訳もわからず溺れて、今じゃ離れられない。
イザベラは、世間で言うところの「愛人」なんだろう。
正妻には絶対になれない平民で、アリアが自分と比べる必要もない程度の女だ。だから、ここに連れてきても問題ないと思った。
これまでのこともこれからのことも口外させないためには、傍に置いておいた方が楽だと判断したから。
なのに、アリアは——。
ルドルフは、アリアの絶望的な表情を思い出す。
背中で聞いたアリアの騎士たちへの感謝の言葉、あんなに声を振るわせた姿は見たことがない。
「君は俺を愛しているのか?政略結婚だから仕方なく嫁いで来たんじゃないのか?いつも怖くて聞けなかった。本当の気持ちを聞いていたら、何か変わっていたんだろうか?」
気付かぬうちに漏らした独り言に、ふっと笑う。
「自業自得だな。どうせ望むようにはならない」