5. 妻と愛人の物語、開幕します。
——今朝の執務室は、やけに静かで。
誰もがこれから起こる出来事を憂い、表情を固くしている。
「奥様、失礼致します。イザベラ様が到着されました。旦那様のご指示どおり、別邸の応接室にご案内しております」
執事のバーナードが客人(愛人)の到着を知らせにきた。
執務室に入ってからというもの、今この時まで全く仕事が手につかなくて、気が重いのとは違うソワソワしたような、お腹の辺りがふわふわするような妙な感覚に包まれていた。
「そう、いよいよね。わかったわ」
書類を置いて立ち上がると、私は執務室を出た。
バーナードと私、専属侍女のパメラ——黙々と歩く私たち3人の間に、特殊な緊張感という共通の感覚が芽生え始めている。
「バーナードから見てどうだった?」
私は単刀直入に問いかけてみた。
間もなく別邸というところで立ち止まり、私たちは3人は互いの顔を見ながら笑顔もなく淡々と、まるで円陣でも組むように向かい合っている。
「中肉中背、静かな女性に見えました(……地味という言い方は失礼だからな…)」
「…そう。見た目どおりの方だと良いけれど(……気が重い)」
——足を運び慣れない別邸、応接室も一年ほどぶりだろうか。
別邸に到着し応接室の前に立つと、侍女がドアを開けた。
私にお辞儀をしながら入室を促している。
やはり——表情は硬いわね。
「ようこそ、ディカルト公爵邸へお越しくださいました。ルドルフの妻、公爵夫人のアリア・ディカルトです」
——挨拶と同時にイザベラと目を合わせる。
小柄ではあっても、丸みのある豊かな身体。
ほんのり焼けた肌は、健康そうな印象を与える。
色白な女性が持つ華やかさを備えていない点、バーナードにとってはそれが「静かな女性」と見えたのだろう。
——良かった、身重ではないようね。
心配事がひとつ減ったわ。
「はじめまして。イザベラと申します。隣国ソルテーヌから参りました。戦地で公爵閣下のお世話をしたのがご縁で目をかけて頂き、戦後は同居させていただくことになりましたので、これから宜しくお願いいたします。こんな素敵な家をご用意くださり、とても幸せですわ」
特に私の様子をうかがうでもない。
既にくつろいでいる様子は、まるで女主人だ。
ちょっと信じられない態度だけれど、正妻との初対面でこれだけ堂々と振る舞えるなんて——けっこうな強者?
厚かましいというか、常識を知らないというか——。
逆に私が劣勢なくらいよ。
「夫との出会いについては分かりました。まずは本人が戻らないことには何も前に進められませんので、しばらくはこちらでゆっくりお過ごしください」
この頃には、スッと落ち着きを取り戻せたような気がした。
私は公爵夫人らしい笑顔を作って見せる。
「アリア様はルドルフから私のことお聞きになっていたんですね。これからお世話していただくんですもの、なにか私についてお知りになりたいことがあれば遠慮なくご質問ください。なにかありますか?」
早く聞いてくれとばかりの雰囲気ね。
バーナード、あなた岩のように固まってるじゃない——…。
「ありがとう。では、遠慮なく。ご両親のことについて知りたいわ。イザベラさんがどのように育ったか知ることにつながりますから」
「それって、平民かどうかを知りたいってことでしょう?はっきり言ってくださればいいのに。えぇ、ご期待どおり私は平民家庭の生まれです!でもそんなことは、ルドルフとの間では既に乗り越えた事実ですわ」
詳しいことは話す気もないようね。
彼女の語気が強まった瞬間、私はイザベラという女の本質を見たような気がした。
「誤解があったのなら謝るわ。ルドルフが貴女に許容していることについて、私がとやかく言うつもりはないから。おふたりの間のことは、おふたりでご自由に決めてくださいな。それと最後にお伝えしておきますけれど、私は公爵夫人であなたは平民です。だから、私があなたを「お世話する」日は来ませんわ。おふたりの自由は、私と関係のないところ……この別邸で完結してください。では、ご挨拶はここまで。失礼するわね。バーナード、行きましょう」
「ふんっ!なによ!!聞いてたのと全然違うじゃない?痩せた普通の女ってなんだったのよ。ルドルフにはそう見えてたっていうの?最初っから不愉快ね」
私がバーナードとパメラを連れて出ていくとすぐに悪態をついた。
丸聞こえだなんて気付いてもいないのだろう。
侍女からの報告によると、その後はクッションをドアに投げつけて。
口元を歪にゆがませて、苛つきを隠せない様子だったそうだ。
「奥様、少し休まれますか?良い関係を築けるか不安でございましょうが、落ち着いて今後の対策を練れば、使用人が総出で奥様をお守りすることもできますので。どうぞご安心ください。」
バーナードも大変ね。
余計なことで私を気遣わなければならないのだもの。
彼なりの考えがあることは既に、十分に伝わっている。
「ありがとう。統括執事のあなたが……何の策もないまま今日という日を迎えるはずがないものね。安心して『公爵夫人』に徹することにするわ」
ようやく私にも持ち前の笑顔が戻った。
別邸の使用人らしき女性かしら?
ちょこちょこと走ってくる姿が小動物みたい——。
「公爵夫人にご挨拶申し上げます。ルイーゼと申します」
彼女からは何かを感じ取っている様子がうかがえる。
わざわざ見計らって近付いてきたようにも見えて——。
ここはちょっと試してみましょうか?
「こちらこそ、よろしくね」
簡単な挨拶だったけれど、あちらとこちらの考えは同じようね。
お互いに感じたものを確かめるように笑顔を交わし合って、その場は解散。
別邸と本邸の使用人、区別せず同じように接するべきね。
この後どんな動きが起こるにしても、密偵は必要だもの。
そうそう、小説で読んだわ。
夫と愛人の様子を教えてくれる侍女にお小遣いを渡すシーン。
あれ私もやってみたい——。
「バーナード、イザベラって……そうとうな器なのかしら?」
本邸に戻りながら、今さら不安に駆られる。
夫不在の愛人初見、やっぱり心騒ぐものね。
初めて会うイザベラは勝ち誇ったようにも見えた。
「ただの怖いもの知らずかもしれません。貴族のルールやマナーを全く理解しておられませんので、器そのものは極小でも、大きく見えるのでは?」
相変わらずの辛口だけど、鋭い推察かもしれない。
その場合は、どう対応したらいいのだろうか?
器が大きかろうが小さかろうが、初めての愛人対応なわけで。
うーん、迷うわね。
「ところで、公爵閣下はどう扱ったら良いの?それも分からないわ」
「あちら次第でございましょう。戻られて最初の言動を注視いたしましょう。それから改めて相談すればよろしいかと存じます」
全く公爵を庇わないわね。
それもそうか——。
ルドルフの幼少期の教育係として、彼は今、私の前で恥をかいている——という認識だものね。お気の毒様。
「では、まずは旦那様のお戻りを待つとしましょうか。今日のところはここまで」
こうして、私とイザベラの物語が幕を開けたのである。