3. はじめての気持ち
終戦の報、勝利の知らせを受けたからだろうか。
それとも女の話を聞いたからだろうか。
——寝室にいても、簡単にくつろげそうにない。
「奥様、御髪のお手入れをさせていただきます」
「ありがとう、パメラ。オイルを塗ってくれる?」
「今日は薔薇の香りにしましょうか?」
「そうね。ベッドに入ってからも香るから、よく眠れるの」
「西でしか咲かない薔薇ですものね。奥様のご友人が送ってくださる貴重なオイル、侍女たちの憧れの品なんです。奥様と同じお名前の薔薇だというのもまた素敵で。一昨年、私の誕生日に奥様がプレゼントしてくださった時、専属侍女の特権だと皆から羨ましがられて、誇らしかったものです」
パメラが丁寧にアリアの髪をブラッシングしている。
いつもなら、一日で一番落ち着く時間。
「社交パーティーでも毎度ご婦人たちから質問攻めなのよ(笑)瓶のデザインも美しいから、北でも販売できたら人気が出そうなのにね。名前が『アリア』なのが少し照れくさいけど」
「えぇ、ほんとうに。特に貴族令嬢の間で話題になりそうですね!さぁ奥様、御髪の艶が増しましたよ!お手入れが終わりましたので、オイルは飾り棚に戻しておきますね」
「ありがとう、お願いね」
厳しい北の地に嫁いだ私を気遣って、西の友人が栽培してくれている紫色の薔薇『アリア』。私の名前から命名されたものだと話すと胸がいっぱいになって、涙を流しそうになる。だからパメラにも偶然の一致だと伝えてあるのだ。
とっても希少な薔薇だから、オイルは私のところに送られる10本と、西の貴族たちにプレゼントする20本程度しか作れないと言っていたっけ——。
公爵夫人とはいえ、私だってまだ23歳。夫人になってすぐの18で夫が出征してから今日まで5年、苦労も多かった。公爵代理なんて重責だったのに。それなのに——夫は愛人を連れて帰ってくる。
私を大切にしてくれる人もいるって思い出さないと、とてもやってられない。
「奥様、少し元気がないようで……。何かありましたか?」
「パメラ、あなたには伝えておくわね。実は……ルドルフが女性を連れて戻ってくるのよ。愛人だと思う。別邸に住まわせるみたいだけど、ルドルフがどちらと暮らすかも分からないの。戦地で出会った人なら娼婦かもしれないし。まぁとにかく、詳しいことは何も知らせてくれないのよ。だから心が痛んでないと言ったら嘘になる。それで元気がないのよ」
——無意識のうちに、手に力が込もっていたみたい。
あとが付いてる——。
「奥様、どうして泣かれないのですか?泣いてください!泣いていいんですよ。5年も…公爵家を守ってもらって、恩を仇で返すようなもんじゃないですか!悔しいです。一緒にいた騎士団は何をしていたんでしょうか?旦那様を止めることすらできなかったなんて」
パメラを泣かすつもりじゃなかったのに。
16歳を迎えたばかりだものね——。
まだ恋愛のことも結婚のこともよく分からないだろうけど。
主人が受けた屈辱くらいは分かってくれているのでしょう。
「パメラ、もう下がっていいわ。私のことを大切にしてくれる人も多いのだから、惨めに暮らすつもりはないの。だから心配しないで!明日は街に出て、本屋にでも行こうかしら」
「それは良いですね!馬車の準備をするよう伝えておきます」
貴族の多くは政略結婚だから、愛人を持つことも珍しくない。
正妻と同じ屋敷に住まわせる者も多いと聞くし——。
でも、北のこの地は例外。
北部の貴族は、厳しい冬を夫婦で助け合って対応する。
どこの家門も代々、愛人を持つことに罪悪感を持つことが普通よ。
「助けてくれる妻を不幸にできない」精神が受け継がれているからね。
『内助の功』万歳!!——って。
だから——私が例外になってしまうのが怖い。
夫から大切にされない自分が——愛人よりも軽んじられる自分が——周りからどんな目で見られるのか?憐れまれるのか?憐れまれたら恥ずかしい思いをするのか? 私の人生、これから不安と恐怖に溢れてしまうのかしら?
愛人の方が美しかったら?
愛人の方がスタイル良かったら?
愛人の方が……愛人の方が……愛人の方が……と、ひとしきり比べるネタを並べないと気が済まなくなるわね。 全て空想に過ぎないのに。
「ルドルフ……私のこと嫌いだった?家同士の約束だから仕方ないって結婚生活を諦めて過ごしたのかしら?目を合わせてくれないのは照れ屋さんだから……、食事の席で会話をしてくれないのは静かな性格だから……年頃だから……とか、私はいつも自分に言い聞かせてきたのよ。どんな顔であなたを迎えたら良いのか、もう全く分からないわよ。いっそのこと、本邸からの出迎えはいらないと言ってくれたらいいのに」
突如として襲う経験したことのない惨めな気持ち。
愛人の存在を知ってから初めて、私は泣いた。