9. 卑しい女と愚かな男
——いつかは向き合わなければならない。
そんなことは分かっているのに、どうしても足がすくんでしまう。
「そろそろ、旦那様とお話しいただけませんか……?」
バーナードは目を伏せ、申し訳なさそうに言った。
「奥様が代わりに務めてこられた執務を、そろそろ旦那様にお戻しいただく必要がございますので……」
「わかってるわ……でも、怖いの。公衆の面前で、あんなにあっさりと蔑ろにされたのよ? 人前に出るのも怖いのに、ましてやルドルフの前に座るなんて……考えたくもない」
顔を手で覆いながら、私は小さく心の内を漏らした。
「私だって、ここに座っているだけでいいとは思っていないのよ……」
公爵や公爵夫人という椅子は、想像を絶する重責を背負うものだから。
それでも──。
「ですが、奥様がその重荷を少しでも下ろすために必要なことです。どうか、私たち周りの者を信じてください。皆でお守りしますから」
バーナードは静かに微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。
「わかったわ。まぁ……あちらから断られるかもしれないけど」
どうしても消せない、あの日の記憶がよみがえる。私と目を合わすこともなく、冷たく背を向けて別邸へと歩いていった、ルドルフの横顔と後ろ姿が。
「では先ず、旦那様のご予定を確認いたします。奥様は引き継ぎ内容をご検討ください」
私は積み重なった書類の山と、バーナードの背中を交互に見つめた。
戦争が始まったあの日、ルドルフが出征を決めた時の気持ちを、今でもよく覚えている。あの時は、言葉にできないほどの孤独と不安に押しつぶされそうだったっけ——。
まだ新婚だったもんね。
ルドルフのことは十五歳の頃から知っているのに、会話はほんのわずかで。
それでも私は、彼を信じていた。
知らぬ間に頼りにしていたんだわ——。
たとえ愛がなくても、せめて頼りにできる存在ではあったのだと思う。
◇
やがてルドルフの部屋の前に立ったバーナードは——執事としての務めを果たそうとしていた。
「旦那様、バーナードでございます」
ノックをすると、程なくしてルドルフがドアを開けた。
ガウン一枚の姿に、事情は察したものの、引き下がるわけにはいかない。
「業務についてご相談がございます。少しお時間をいただけますでしょうか?」
バーナードは背筋を伸ばし、そっと一歩を踏み出そうとするが、ルドルフの冷たい声に動きを止めた。
「いや、今はダメだ。急ぐのか?」
ルドルフは眉をひそめ、乱れた黒髪をかきあげる。
そして疲れた表情で、バーナードを見つめるのだった。
「当然ではございませんか!?公爵閣下がお戻りになって、既に日が経っております。そろそろ夫人から引き継ぎを受けて頂きませんと。執事としては、不安でなりません!」
ルドルフはゆっくりと扉にもたれかかり、苦笑を浮かべた。
「おおげさだな。だがやはり、今は無理だ。明日にしてくれ。
時間はそちらで決めてもらって構わない」
「承知いたしました」
バーナードは深く頭を下げると、視線を静かに部屋の奥へと走らせる。
ベッドの方に目をやると、予想どおりイザベラが横たわっていた。
「……(汚らわしい。これがディカルト家の当主か……)」
嫌悪を滲ませ、バーナードは険しい表情のまま別邸を後にした。
一方のルドルフは、バーナードの無言の叱責を重く受け止め、胸の奥に重苦しい感情が芽生えるのを感じていた。
——清廉潔白を絵に描いたような女主人
バーナードは若き公爵夫人アリアに、心からの忠誠を誓っている。
執事として、これほど支え甲斐のある主人がいるだろうか。
バーナードにそう思わせるほど、アリアは五年の歳月を、ただ真っ直ぐに領地へ捧げてきた。
「ルドルフは、なんて?」
執務室へと戻ったバーナードを前に、先に沈黙を破ったのはアリアの方だった。主人の気持ちを乱さぬよう、バーナードはつとめて穏やかに答える。
「……明日から始めたいとのことでございます」
その一瞬で、すべてを察したのだろう。
アリアはふと視線をそらし、まるで他人事のように言った。
「どうせ今ごろ、裸で愛人とベッドに転がってるんでしょう?……変な病気でももらわなきゃいいけど」
さすがのバーナードも言葉を失って、「お茶でもいかがですか」などと、どうでも良いことを不自然に口走るしかなかった。
ドロドロの恋愛小説が『愛人問題』の教科書だったアリア。
そのおかげで、案外辛辣な視点を持てるようになっているのである。
——そしてその頃ルドルフの隣では、清廉潔白とは無縁の女が身をくねらせていた。
「ねぇ、仕事は奥さんに任せちゃえば? 忙しくなったら朝から晩まで本邸にいるんでしょ? そうなったら、貴方に触れる時間が減っちゃうもの」
ガウン越しにルドルフの胸に頭を預け、裸のまま離れようとしない彼女の姿は、アリアとはまるで対照的だ。
「そうはいかない。君も俺がいない時にできることを増やせばいい。庭園に行くとか、本を読むとか……(……俺は一体この女と何をしているんだ?)」
「本……?」
「すまない、刺繍でも習ってみるか?」
「こういう時に突きつけられるのね、自分が平民だってこと!文字も知らないのに、本なんて読めるわけないじゃない!」
「機嫌を直してくれ。読み書きも習いたいなら、本邸から教科書を持ってこよう……」
「そんなことより、お詫びのプレゼントがいいなぁ。本邸から持ってきてくれるなら……教科書より、奥さんが使ってる薔薇のオイルがいいの。ねぇ……お願いよ?」
再び身体をぴったりと寄せてくるイザベラの感触に抗えず、ルドルフは引き受けてしまう。——あまりに愚かで、情けない男。
こうしてまた一つの事件が、簡単に幕を開けてしまったのである。
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