表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/50

9. 卑しい女と愚かな男

 ——いつかは向き合わなければならない。

 そんなことは分かっているのに、どうしても足がすくんでしまう。


「そろそろ、旦那様とお話しいただけませんか……?」


 バーナードは目を伏せ、申し訳なさそうに言った。


「奥様が代わりに務めてこられた執務を、そろそろ旦那様にお戻しいただく必要がございますので……」


「わかってるわ……でも、怖いの。公衆の面前で、あんなにあっさりと蔑ろにされたのよ? 人前に出るのも怖いのに、ましてやルドルフの前に座るなんて……考えたくもない」


 顔を手で覆いながら、私は小さく心の内を漏らした。


「私だって、ここに座っているだけでいいとは思っていないのよ……」


 公爵や公爵夫人という椅子は、想像を絶する重責を背負うものだから。

 それでも──。



「ですが、奥様がその重荷を少しでも下ろすために必要なことです。どうか、私たち周りの者を信じてください。皆でお守りしますから」


 バーナードは静かに微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。


「わかったわ。まぁ……あちらから断られるかもしれないけど」



 どうしても消せない、あの日の記憶がよみがえる。私と目を合わすこともなく、冷たく背を向けて別邸へと歩いていった、ルドルフの横顔と後ろ姿が。


「では先ず、旦那様のご予定を確認いたします。奥様は引き継ぎ内容をご検討ください」


 私は積み重なった書類の山と、バーナードの背中を交互に見つめた。


 戦争が始まったあの日、ルドルフが出征を決めた時の気持ちを、今でもよく覚えている。あの時は、言葉にできないほどの孤独と不安に押しつぶされそうだったっけ——。


 まだ新婚だったもんね。

 ルドルフのことは十五歳の頃から知っているのに、会話はほんのわずかで。

 それでも私は、彼を信じていた。

 知らぬ間に頼りにしていたんだわ——。

 

 たとえ愛がなくても、せめて頼りにできる存在ではあったのだと思う。



 ◇


 やがてルドルフの部屋の前に立ったバーナードは——執事としての務めを果たそうとしていた。


「旦那様、バーナードでございます」


 ノックをすると、程なくしてルドルフがドアを開けた。

 ガウン一枚の姿に、事情は察したものの、引き下がるわけにはいかない。


「業務についてご相談がございます。少しお時間をいただけますでしょうか?」


 バーナードは背筋を伸ばし、そっと一歩を踏み出そうとするが、ルドルフの冷たい声に動きを止めた。


「いや、今はダメだ。急ぐのか?」


 ルドルフは眉をひそめ、乱れた黒髪をかきあげる。

 そして疲れた表情で、バーナードを見つめるのだった。


「当然ではございませんか!?公爵閣下がお戻りになって、既に日が経っております。そろそろ夫人から引き継ぎを受けて頂きませんと。執事としては、不安でなりません!」


 ルドルフはゆっくりと扉にもたれかかり、苦笑を浮かべた。


「おおげさだな。だがやはり、今は無理だ。明日にしてくれ。

時間はそちらで決めてもらって構わない」


「承知いたしました」


 バーナードは深く頭を下げると、視線を静かに部屋の奥へと走らせる。

 ベッドの方に目をやると、予想どおりイザベラが横たわっていた。


「……(汚らわしい。これがディカルト家の当主か……)」


 嫌悪を滲ませ、バーナードは険しい表情のまま別邸を後にした。


 一方のルドルフは、バーナードの無言の叱責を重く受け止め、胸の奥に重苦しい感情が芽生えるのを感じていた。




 ——清廉潔白を絵に描いたような女主人

 バーナードは若き公爵夫人アリアに、心からの忠誠を誓っている。


 執事として、これほど支え甲斐のある主人がいるだろうか。

 バーナードにそう思わせるほど、アリアは五年の歳月を、ただ真っ直ぐに領地へ捧げてきた。



「ルドルフは、なんて?」

 

 執務室へと戻ったバーナードを前に、先に沈黙を破ったのはアリアの方だった。主人の気持ちを乱さぬよう、バーナードはつとめて穏やかに答える。


「……明日から始めたいとのことでございます」


 その一瞬で、すべてを察したのだろう。

 アリアはふと視線をそらし、まるで他人事のように言った。


「どうせ今ごろ、裸で愛人とベッドに転がってるんでしょう?……変な病気でももらわなきゃいいけど」


 さすがのバーナードも言葉を失って、「お茶でもいかがですか」などと、どうでも良いことを不自然に口走るしかなかった。


 ドロドロの恋愛小説が『愛人問題』の教科書だったアリア。

 そのおかげで、案外辛辣な視点を持てるようになっているのである。



 ——そしてその頃ルドルフの隣では、清廉潔白とは無縁の女が身をくねらせていた。


「ねぇ、仕事は奥さんに任せちゃえば? 忙しくなったら朝から晩まで本邸にいるんでしょ? そうなったら、貴方に触れる時間が減っちゃうもの」


 ガウン越しにルドルフの胸に頭を預け、裸のまま離れようとしない彼女の姿は、アリアとはまるで対照的だ。


「そうはいかない。君も俺がいない時にできることを増やせばいい。庭園に行くとか、本を読むとか……(……俺は一体この女と何をしているんだ?)」


「本……?」


「すまない、刺繍でも習ってみるか?」


「こういう時に突きつけられるのね、自分が平民だってこと!文字も知らないのに、本なんて読めるわけないじゃない!」


「機嫌を直してくれ。読み書きも習いたいなら、本邸から教科書を持ってこよう……」


「そんなことより、お詫びのプレゼントがいいなぁ。本邸から持ってきてくれるなら……教科書より、奥さんが使ってる薔薇のオイルがいいの。ねぇ……お願いよ?」


 再び身体をぴったりと寄せてくるイザベラの感触に抗えず、ルドルフは引き受けてしまう。——あまりに愚かで、情けない男。


 こうしてまた一つの事件が、簡単に幕を開けてしまったのである。

気に入って頂けましたら、ブックマークと☆☆☆☆☆(広告下)で応援をお願い致します!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ