忘れ得ぬ思い出 ~私の湯布院日記~
あれは今から五年前の出来事である。
ゴールデンウィークの連休を利用して、連れ合いが友人と韓国に旅行することになった。
残る私と娘、息子の三人は、せっかくの休日、地元で過ごすのも何だろう、と、急遽旅に出ることにした。
が、なにしろ思い立ったのが遅かった。
検索エンジンを使って近場の適当な宿を探すものの、どこも満室で、たまにおお、これは、と思う宿が見つかっても、予算の二、三倍は優に超えようかという値段である。
焦りが募る中、小一時間程度の格闘の末、ようやく望む条件に近い湯布院の旅館が引っかかった。だが、想定はしていたものの、パソコンの画面で見るかぎり、少々くたびれた外観とは裏腹に、価格設定だけは一人前である。
繁忙期価格ほど理不尽なものはない、いったい誰が儲けているのか、とぶつぶつと一人不満をかこっても、こちらは喉から手が出るほど、そこを何とか、と袖にすがりたい立場である。残り一室、という煽り文句に負け、私はいつの間にか予約確定ボタンを押していた。
湯布院は標高千米を越える山々に囲まれた盆地で、言わずと知れた古くから多くの人々に愛されてきた避暑地であり温泉街である。
私たちが訪れたその日は、爽やかな涼風が時おり顔を撫でる雲ひとつない晴れ渡った天気であった。
滴るような新緑はまるで雨上がりのように目に染み、見上げれば澄み切った空にくっきりと駱駝の瘤のような山頂を持つ海抜千六百米の由布岳が町を見下ろし、その姿は雄大でありながらもどこかしら女性的な柔らかさを感じさせた。
なるほど、この湯布院にはもともと由布岳の神であるウナグヒメがいたとされ、湖であったこの地を大男に命じて蹴破らせたところ、水が引き盆地が出来た、という説話があり、今なお宇奈岐日女神社という古社が町の南方に鎮座している。延喜式にも記載されているというこの神社、もともとはこの地を治めた女性首長の巫女が崇められ、のちに神となったという説もあるらしい。この町の持つ優しい雰囲気は、きっと、この女神の存在に由来しているのだ。
さて、私たちは子供たちを連れて湯布院を二泊するに当たり、一つの懸念があった。それは、湯布院がどちからといえば大人の町ということである。
確かに、町の中心を東西に貫く湯の坪街道にはお洒落な和洋の菓子店、雑貨や食事処が立ち並び散策を楽しめるものの、子供たちは静ばかりでなく動を求めたがるもので、遊具施設やアトラクションを望むならここから三十分ほど移動した城島高原まで足を運ばねばならない。
私は知恵を凝らし、町中の散策を彼らも楽しめるように、と、事前にレンタサイクルを三台借り、観光地だけでなく、のどかな田園風景が広がる津江・川南地区へとまず足を伸ばし、そこから町中を縦断する大分川の河原に沿って湯の坪街道へと北上するルートを思いついた。
国内でも二番目に大きいといわれる大杵社の杉まで足を伸ばし、そこから宇奈岐日女神社、参宮通り、大分川沿いに初夏の風で髪を靡かせながら市中を自転車で走り抜けるのはなんとも心地よい。
時おり、鏡のように水を湛えた水田に映る逆さ由布が旅人の郷愁を誘う。
右手に有名な玉の湯旅館、六月には蛍が舞う蛍見橋を左手に見ながら進むと、もう目の前は亀の井別荘である。
この旅館にある天井桟敷という茶房は、長らく私の憧れの場所であった。
江戸末期の造り酒屋の屋根裏を移築したというこの空間には唯一無二の異世界を思わせる雰囲気がある。天井には何本もの太い梁が渡され、調度品は大正浪漫を感じさせる椅子や座卓で統一され、落とされた照明の中、格子窓からは、木々の木漏れ日が室内に柔らかな光を落としている。
二階席への階段は、あたかも劇場の桟敷席に迷い込んだような錯覚を起こさせ、背の低い円卓のアームチェアには名だたる文豪が今にも深々と身を沈め頬杖をついていそうである。
真空管アンプから厳かに流れるグレゴリア聖歌が静かに、心に忍び寄るようにどこからともなく聞こえてくる。
私は、湯布院の町づくりの原点、つまり都市計画の源泉はこの天井桟敷のコンセプトが元になっているのではないかと見ていた。
というのも、聞けば湯布院の町おこしの先駆者の一人・中谷前社長はもともと映画人であったという。
私は、彼が昭和初期の活気あふれる撮影現場やまるで西洋の怪人が突如現れても不思議ではないような大道具類が積まれた舞台裏、そして当時の馥郁とした首都東京の文化の香りを、彼の遊び心と共にこの喫茶に詰めこみ、後にその成果を町づくりに敷衍していったのではないか、そう勝手に思ってきた。
昭和四十六年、亀の井別荘の中谷氏、玉の湯社長の溝口氏らが私費で五十日に及ぶ西欧の視察旅行を行ったことで後の湯布院のまちづくりは大きな転機を迎えた。
現在、湯布院は二つの顔を持っている。それは昭和の古き良き時代を感じさせる昔ながらの田園地区と、新たなこの大正浪漫を色濃く反映した観光の目玉である湯の坪街道である。
また、中谷氏といえば、一つ忘れられない出来事がある。あの新型コロナウイルスの蔓延によって緊急事態宣言が時の総理大臣安倍氏から発出され、その後数度の宣言を経た時、突然、亀の井別荘から荷物が届いた。何事かと驚きながら封を開けると、そこには白い整った粒が美しい地産のとうもろこしがぎゅうぎゅうに詰められていた。
丁重な中谷前社長の挨拶状の文面の詳細は覚えていないが、こんな折りであるが、いつか宣言が解除され、また湯布院に皆様が訪れるまで、どうかご自愛を、といった内容だったように記憶している。そんなに常連ともいえない私だが、忘れずにいてくださったことは深い感銘とともに私の心に今も刻まれ、彼の湯布院を思う愛に思いを馳せたものである。
さて、その後私達は天井桟敷と同じ建物内にある土産物店「鍵屋」でちょっとした手みやげを購入し、そのまま庭園を抜けると、その先には金鱗湖が豊かな湖水を湛えて広がっていた。
金鱗湖というのは明治の儒学者・毛利空桑が、湖面を飛び跳ねた魚の鱗が夕日に照らされて金色に輝く様から名付けたとされ、その湖中には現在も鯉や鮒、ウグイなどが棲息し、観光客から愛でられている。
冬場には湖底の源泉により温かい水面と空気の温度差で朝靄が発生し、そこに朝日が差す光景はこのうえもなく美しい。
津江・川南地区から北上し、ようやく湯の坪街道へと到着した私たちだったが、思いの外はやかったために時間を持て余すこととなった。ただ、子供たちは待ってはくれない。運良く湯の坪街道と金鱗湖から北上する交差点あたりに湯布院昭和館という昭和三十年代の町並みを再現したコンセプト博物館の一階に駄菓子屋があり、入館とワンセットで立ち寄ることにした。
時間つぶしと思って入ったこの展示館。思いの外、昭和世代の私の五感には響いた。
町中のスナックや映画館、診療所や電器店、一般家庭の居間などが再現され、所狭しとおもちゃ箱のように当時の品々や看板、電照やポスターが飾られている。視覚だけではなく、嗅覚からも当時の裏路地の隘路を歩いているような錯覚を起こさせる展示にはただ感心するばかりだが、明らかに平成世代の子供たちの冒険心にも訴えかけるものがあったようで、退屈を凌ぐには好都合だった。
階上にある放浪の画家・山下清の私設コレクションも、その生涯とともに紹介されており、なかなかの見応えだ。
展示館を見終えると、それでもなお昼食には早い時間帯だった。
後は湯の坪街道沿いに店を渉猟するしか思いつかない私だったが、次の行く先を探す私に、ふと、昭和館の隣の交差点の角の半地下の店舗の窓ガラスに、「手相占い〼 一回千円」と書いてある小さな張り紙が目に留まった。
中を覗くと、どうやらここはパワーストーンのアクセサリーショップで、オリジナルの商品を手作りで制作しているらしく、受注がない暇な時間を使って店主が客の手相見をしているようだ。
冷やかしで子供たちの手相を見てもらうのもいいかもしれない。私の心にふとそんな思いがよぎった。
ためらいもあったが、暇を持て余すよりはいいだろう、ええい、と自転車を留め、子供たちにも同様に降りるように促した。
ガラス戸を開けて室内にはいると、そこにはネイティブ・アメリカンのタペストリーが掲げられ、髑髏をモチーフとした純銀のアクセサリーが壁にところ狭しと飾られ、商品の下にはオリジナルアクセサリー 数十万円、などのポップが並ぶ。
ショーケースの中には水晶やタコイーズなどの原石とそれを加工した指輪やネックレスが丁寧に陳列されている。
如何にも場違いなところに来てしまった、高価商品の買い取りを無理強いされるのではないか、と私の警戒感は思わずMAXとなった。
問題はオーナーだ。
いったいどんな人物なのか。私は店内の中央へと目を転じると、件の彼は陳列棚を背にして、おそらく商談スペースと思われる簡易な応接セットの長椅子にリラックスした様子で深々と腰掛け、手にした雑誌に目を落としていた。
私は思わず拍子抜けした。彼は年の頃は三十代中盤くらいで、ミドルロングの黒髪に黒のゴシック風Tシャツにブラックジーンズという出で立ちの優男である。
私はいささか胸を撫で下ろしながらさっそく店主に声をかけた。
「手相を見ていただける、と外に書いてあったので。…良いですか?」
雑誌から目を離して一瞬ちらり、と上目遣いで私たちを確認した彼は、別にお愛想を言うわけでもなく、ああ、いいですよ、と端正な顔立ちで涼し気に応え、皆にソファーに座るようにおもむろに促した。
私は続けて彼に頼んだ。
「子どもたち、手相に関心があるようなんですが、これまで見てもらったことがないんで…本人の性格とか、将来とか、興味が持てそうな内容で」
店主は黙したまま軽く頷くと、まず娘を前に座らせてその手を取った。
実を言うと、私は当初、鑑定には全く期待していなかった。
テレビや雑誌でよくある星占いと同様の答えでも出れば旅の良い土産話しになるかなぐらいの冷やかし半分の気持ちだったのだ。が、しかし、その後、おもむろに彼の口から発された言葉は、心の中の声を丁寧に言語に置き換えているかのようで、その一つ一つに不思議と重みがあった。
彼を侮ったのを多少後悔しつつ、私は次々と発される診断内容にじっと耳を傾けていたが、子供たちの長所や短所、考え方の癖などを的確に言い当てるのを聞き、心の中で何時の間にか感嘆の声を挙げていた。
鑑定を終えて上気した子供たちの顔を満足気に眺め、ではお暇を、と言おうとしたとき、私は自らの意に反してなぜか店主に声をかけてみたくなった。
「私のも、観てもらえませんか?」
店主は一瞬、びっくりしたような態度を示したが、すぐにああ、良いですよ、と気前よく同意し、私の方へと向き直った。
実は私はその時、鑑定結果はきっと良いものが出るはずだ、と確信していた。
というのも、自分自身、その頃の仕事や職位には満足しており、会社にもそれなりの貢献をしていると自負していたし、対外的なボランティア活動でも会長職を請け負うなど、充実していた。
だから、悪く言われるはずがない、多分、褒められて、納得して終わりだ、そう感じていた。
逆に現状に満足していたからこそ自分は見てもらう必要がない、と当初は思っていたのかもしれない。
私が預けた両手の平をしげしげと見始めた店主は、案の定、感心して口を開いた。
「すごいですねぇ。なかなか」
私は、そうだろう、そうだろう、と心の中で頷いた。
だが、次の瞬間、彼は青天の霹靂とも言える言葉を発した。
「う~ん…これはなんと言っていいのか…。あなた、現状の人生、終わってますよ。これからは、いや、…もう今は全盛期の残り火で生きているといっても過言ではない」
私はあまりの予想外の言に驚愕した。とともに、初対面の人間によくぞそこまで自信満々断言できるものだ、と空いた口が塞がらなかった。
「私も長い間手相を見てきましたけど、こんなのは始めて見た」
眉間にわずかに皺を寄せて店主は感嘆した。
私は慌てた。
「終わっている? じゃあ、死ぬってことですか?」
あまりの展開に内心ショックを受けつつも、私は二人の子どもがどのようなリアクションをしているのかを横目で気にしながら尋ねた。
「いや、そうじゃあありません」
憎らしいほどに淡々とした表情で店主は答えた。
「じゃあ、これからどうなるって言うんですか?」
じれったい彼の回答に、私は狼狽えた。
「次の新しい人生を始めるんですよ」
「?」
私は店主の言葉の真意を測りかね、呆けたように彼を見返した。
「不思議なことですが、あなたはこれから全く新しい道を歩んでいかねばなりません」
全く心当たりがない、と言いたいところだが、私の心には、数年来、なぜか確たる目的もなく書き溜めてきた小説のことが突然頭に浮かんだ。
「で? その新しい人生というのは、自然とそちらに運命で導かれていくものなんですか?」
私はすがるような目で彼に問うた。
彼は首を振った。
「いや、自分自身が強く求めなければ、駄目です。あちらからやってくるような、そんな代物ではありません」
整った顔立ちの店主は冷酷に言い切った。
あまりの鑑定内容に、私は二の句も継げず、また、子供たちの前で自分自身の鑑定を申し出たことを後悔した。
私は混乱した頭のまま、店主にそこそこのお礼を述べると、子供たちにも頭を下げさせ、店を辞した。
黄泉の国から帰還したような感覚の私にとって、外の光景は別世界であった。
湯の坪街道は相変わらず、あたかも縁日の神社の参道のように混み合い、人の間を縫うように我々が自転車で進んでゆくと、その通り過ぎる耳には韓国語、中国語、英語、とさまざまな会話が飛び込んでくる。
私は子供たちと町の人混みの中で昼食する場所を探すために自転車を走らせ、心地よい風を頬に感じながら、一人、先程店主が語った言葉を反芻していた。
それから一年後、私は湯布院を訪れた際、あのパワーストーンの店の存在が気になり、店の近くをそれとなく訪ねた。が、残念なことにそこは既に空き店舗になっており、中を覗くと、すべての家具や調度品がすでに引き払われていた。
あのオーナーは今、どうしているだろうか?
私は、湯布院に来るたびに、この町の持つミステリアスな雰囲気とともに、あの時の体験が鮮明に蘇ってくるのである。