絶滅種
「なかなかやるわね」
蒸れたヘルメットから解放された頭で高原の空気を感じていた俺の耳に、男にしては高くよく通る声が入ってきた。
「???」
えっ、女?
俺は一瞬戸惑い、リダカの方に振り向いた。
最初見た時、汗でぺしゃんこになった短い髪は、普通に男だと思っていた。体型はプロテクターをしてるのでわからない。だがその声は確かに女のものだった。顔を上げてもう一度しっかり見れば、小顔に長い睫毛と大きめの瞳。ぺしゃんこの髪はヘルメットと汗のせいだけでなく、実際短く、少年のようではあるが、滑らかなうなじの線は男のものではない。そして若い。
「私が女だったんで驚いた?」
そいつ、いや彼女はいたずらっぽくほほ笑み問いかけてくる。
「いや、あの……小柄だとは思ったけど、男とか女とか全然考えてなかった」
当たり前に男だと思っていた俺は意表を突かれ、自分でも情けない返答しかできない。これではまるでアニメとかラノベによくある展開ではないか。だが俺はラノベの主人公のような高校生じゃない。いや最近は、おじさんが主人公も流行りか?
「女っぽくなかった?」
「そういうわけじゃ……。ただオフロードバイクをあれだけ走らせられる女の人を、あまり見たことなかったんで」
別に女性ライダーなどめずらしくもない。今や大型バイクに乗ってる女の子もたくさんいる。中にはそこらの頭でっかちライダーを追い回すほどのバリバリ女性ライダーもいる。しかしオフロードバイクとなると女性ライダーの比率はうんと少なくなる。いても「ちょっと自然と触れ合いたい」ぐらいのイメージだ(個人の感想です)。オフロードはオンロードと比べ、体力的にハードなので女性からは敬遠されるようだ。あとバイクも乗り手も汚れる。中には本格的にモトクロスまでやってる子もいるが、特殊なケースだろう。基本モータースポーツは男女わけられていないが、モトクロスとトライアルはレディースクラスが設けられている。テクニックだけでは超えられない差があるという事だろう。
しかし目の前にいるこの女(どちらかというと男より女の子からモテそうなイケメン少女)は、パリ・ダカール仕様なんてクソでかくて重いバイクを、自在に乗りこなしていた。広大な砂漠を一日中全開で走り続けるならともかく、狭い日本の山道を2スト250に乗った俺と同等に走れる奴なんて、男でもそういないはずだった。ちょっとプライドが傷ついた。
「でも、あなたもなかなかのものよ。ここまでついて来た『男』は少ないわ。モトクロスとかやってたでしょう?」
「若い頃少しね。まあノービス(入門クラス)で終わったけど」
「へぇ意外ね。B級ぐらい走ってそうって思ったけど」
慰められているのか、褒められているのか、複雑な気持ちだ。ここは素直に褒められたと思おう。
「自分でもそれくらいの自信はあったけど、経済的理由で断念したよ」
彼女は俺のレベルを正確に評価してくれた。お世辞でないと信じよう。
モトクロスやってた頃は、ノービスじゃアクシデントさえなければ普通に勝てたし、自惚れでなく続けてれば最短でB級にも上がれたはずだ。自分で言うのもなんだがA級でも勝てる自信があった。だが上にいくほどマシンにも金が掛かるし遠征も多くなる。お金は必要だがバイトも休まなくてはならない。当時の(今もそれほど変わらんと思うが)日本のモトクロス界なんてマイナー競技で、ちょっと地方レースで連勝したぐらいじゃ、翌シーズンのバイクが少しお値打ちに買えるぐらい。その他スポンサーも、バイクやヘルメットにステッカー貼るかわりにせいぜいタイヤやオイルを分けてくれる程度。現金収入なんてほとんどない。モトクロスだけで食っていけるのは全日本トップの数人ぐらいだったと思う。大抵やっていけなくなってレースから足を洗う。ローンだけ残して……。
「レースはお金掛かるものね」
彼女もレースに素人じゃないらしい。あれだけのテクニックだ。レースしてると言われても驚かない。
「そっちこそ、レース出てるのか?女子部門なら全日本チャンピオンでも狙えそうだけど」
「色物扱いされるのは嫌なの」
見た目通り、言い難い事もずばり言ってしまう性格らしい。真面目に取り組んでいる女性レーサーたちには申し訳ないが、否定できない部分もある。
「男に混じってもいいところ走れるんじゃないか?もっと軽くてスプリント向きのバイク乗ってたら、俺なんてとてもついていけなかったよ」
「このコースに走り慣れてるからよ。ジャンプやバンクもないし、あなたも後ろでおとなしくしてくれたから。レースみたいに本気でガンガン来られたら弾き飛ばされちゃうわ。それに連続ジャンプとか体力的に絶対無理。それからこのバイク、見た目より軽いしレスポンスいいのよ。自信持っていいわ」
そこで改めて彼女の乗っていたXR600パリ・ダカール仕様を観察してみた。
確かに相当いじってるようだ。フロントフォークはモトクロッサーに使われてるようなごっついのだし、前後ともディスクブレーキ。確かこの時代のオフ車は、ようやくフロントディスクが出始めた頃で、リヤのディスクなんてロードでも走り重視のモデルしかなかったと記憶してる。前にも言ったが、大型のオフロードバイクなんて日本では需要なかったし、俺もパリ・ダカールラリーには興味あっても、レプリカモデルを欲しいとは思わなかったのでメカ的に全然詳しくない。従ってノーマルと比べてどこがどうカスタムしてあるのか正確にはわからない。ただ多くのパーツが普通市販車には使わない高価なものだったり、HRCが有力チームにしか供給していなかったものだったりで、独特の迫力を漂わせている。
「燃料タンクも樹脂製だから、たぶんあなたの鉄製タンクより軽いわよ」
パリダカ仕様の象徴である40Lは入りそうな巨大なガソリンタンクも、樹脂製で近くを走る程度のガソリンしか入ってなければ、満タン近く入った中型市販車の鉄製タンクより軽いかもしれない。
「だけどこれだけのもん組んだら相当お金掛かったんじゃないか?あんた金持ちなんだな。ていうか、こんなパーツ手に入れるのも大変だったろ?」
「お金持ちなのは否定しないけど、私がパーツ集めて組んだものじゃないわ。実際にパリ・ダカールラリーを走った、正真正銘のホンダのワークスマシンよ。優勝車じゃないけどね」
「なるほどね……」
普通、ワークスマシンが売りに出される事はない。お金では買えないというのが一般的だ。メーカーの威信をかけたワークスマシンには、莫大な開発資金が掛かっているのは当然として、そのメーカーの持つ最先端技術の塊でもある。技術流出を防ぐ為に完全に管理される。40年前のワークスマシンに盗まれて困るようなテクノロジーはないと思われるかもしれないが、そもそも古いワークスマシンなどは、ミュージアムなどに展示保存されてるチャンピオン獲得マシンか歴史的価値のあるマシン以外、現存しないはずなのだ。
メーカーは、シーズンが終わっても企業秘密の詰まったワークスマシンがライバルメーカーの手に渡る事は、絶対避けなければならない。前モデルをサテライトチーム(準ワークスチームみたいなもの)に貸し出す事もあるが、しっかり管理されていて、企業秘密の部分はメーカー直系のメカニック以外触れられないようになってるらしい。そしてレースが終わればきっちり回収される。そして役目を終えたマシンは解体廃棄される。保管していれば、あれば資産と見なされ、税金が掛かってしまうからだ。なにしろ億単位の金が掛けられたマシンである。経費削減を迫られる企業としては、技術流出を防ぐ為に売却も出来ない課税対象の資産を処分対象とするしかない。なのでミュージアム等に保存される記念的マシン以外は解体、使えるパーツは再利用し、あとは廃棄という事になっている。
というのが表向きで、実際には不透明な所があるらしい。開発段階から一台だけの車体を改良しているわけではなく、何台も試作する。テスト中に潰れてしまう車体もあれば、ほぼ完成していながら実戦投入される事なくお蔵入りとなる車体もある。どんなマシンを開発してるかはトップシークレットだ。練習やレース中のアクシデントで修復不能になる事もある。スペアの車体もパーツも、実際にレースを走るマシンの何倍も必要だ。どれだけの部品が造られ、何台のマシンに実際に使われたのか、どこまで再利用できるのか、正確にはわからないというのが実情だ。
勝つ事だけを目的に、コストも労力も度外視で作り上げたマシン。それがワークスマシンである。
心血注ぎ作り上げたマシン、共に世界を戦った技術者の誇りを、スクラップにするのに耐えられないと心痛める者が、開発チームの中にいたとしても不思議ではない。
研究所のスクラップ置き場には、基準を満たさなかった試作品や焼きついたピストン、クラッシュでへし折れたフレームやフォークなどが山と積み上げられている。
「この中から『GPで○○○選手が乗っていたマシン』を誰がチェックする?誰も確認なんて出来やしない。あのマシンは人間の英知と夢が結集した、後世に伝えるべき貴重な人類の遺産なのだぞ。一企業の都合でスクラップにしていいものではない!」
技術者は、書類上解体廃棄されたバイクを救出し、以前イベントで知り合った熱烈なレースマニアにしてコレクターの資産家に世界遺産の保護を託した。
という話を聞いた事がある。いつも「ここだけの話」とレーシングチームやメーカーの裏話を高らかにふれまわってる自称事情通から聞いた、噂話か都市伝説の類いなのでどこまで真実かわからないが、実際に一般のマニアに手に入るはずのない古いワークスマシンを所有してる人物は、俺も知っている。
そしてこのXR600パリ・ダカール仕様は……たぶん本物のワークスマシンのような気がする。根拠はない。このカテゴリーのマシンに詳しくないから、具体的に説明できない。だけど昔ならコンプライアンスも今より緩かったろう。至る所に刻まれた無数の傷は、過酷なラリーを走り抜いた証のように感じた。傷なんて、どこでついたものかなんて判別できない。ただこのバイクが、どこまでも続く砂の海を走ってる姿が、頭に浮かんだ。
「少しは興味出てきたみたいね?他にもあるから見てみる?80年代に活躍したレーシングマシンたち。ロードやモトクロスもあるわよ」
彼女の話では、祖父が熱心なモータースポーツ愛好家で、コツコツ集めたコレクションがガレージにあるらしい。ただ保管してあるだけでなく、いつでも動かせる状態で。彼女が時々こうして走らせ、状態のチェックと維持をしているという。
当時のままの名車たちを見せてもらえると聞いて、断る理由などなかった。