泡沫夢幻
雑草に覆われた建物は、朽ち果て、崩れかけていた。剥がれかけのくすんだ水色やピンクのパステルカラーのペンキは、かつてこの建物がメルヘンチックなかわいいペンションだったと想像できる。
此処は雄大な自然と冬場の豊富で良質な雪質を誇りながら、交通の便の悪さから観光地としてほとんど置き去りにされていた。だがちょうどバブルと呼ばれた時代、近くを高速道路が開通したことで巨大資本グループがリゾート地として開発に乗り出した。温水プールまで完備した豪華なホテル。そこから見渡せる景色はヨーロッパアルプスのリゾート地を思わせる高級リゾートとして、当時話題になった。スキー場を中心に、メルヘンチックなペンション街。溢れるほど金を持ってる連中向けの別荘地区が作られ、若者は此処へスキーに行く事がステイタスになった。ヨーロッパの本場リゾートを模してアルペンスキーのワールドカップまで開催する計画もあったほどだ。
しかし栄枯盛衰は世の習い。娯楽に湯水の如くお金を使う時代は長くは続かなかった。観光や娯楽など、経済的な余裕の範疇でするものである。景気が悪くなれば真っ先に切り棄てられる。借金の返済で精一杯なのに高級リゾートへ遊び行く奴はおらん。いたら馬鹿だ。巨大資本は早々に手を引き、大自然の中でペンションを営む夢が破れた者たちは去っていった。別荘の不動産価値は暴落し荒れ果てた。スキー場の経営はいろいろな会社が引き継いだらしいが、赤字を増やすだけで数年前から放置されているという。
俺が此処に来たのは、スキー場の運営会社が倒産し、何年も放置されているという話を聞いたからだ。別に哀愁にひたりたかったわけじゃなく、昔から雪のないスキー場をオフロードバイクで走りまわりたいと思ってっただけだ。営業期間以外ならいつでも走れそうに思われるかもしれないが、オフシーズンのスキー場は、キャンプ場になっていたり、マウンテンバイクやトレッキングコースだったりして、管理されてる事が多い。そうでなくてもバイクや四輪駆動車が大挙してが走りまわると深い轍ができ斜面が崩れたり、最悪土砂崩れの原因になったりするから歓迎されない。
運営会社が経営破綻して、引き継ぐ団体もなく何年も放置されてるなら、もしかして走れるかも?(轍に関してはバイク一台がちょっと踏み入ったぐらいではえぐれるほど轍もできないはず)と来てみたものの、ゲレンデは背丈を越える雑草に覆われ、とてもバイクで走れる状態ではなかった。
廃墟となったホテルやガラスの割れ落ちたレストハウス、錆びついたリフトの支柱、崩れかけたペンションの群れ。人が立ち入らなくなると、草木はあっという間に勢力をのばす。アスファルトを押しのけ、コンクリートの隙間から幹を伸ばし建物を持ち上げ、窓や屋根をも突き破り、自然へと戻していく。元通りとはならないだろうが、バブル時代のリゾート開発の成れの果ては、なんだか人類の滅びたあとの世界のような荒涼とした遺跡に見え、これはこれで観光名所になりそうな気がしないでもない。いわゆるインスタ映えというやつだ。わざわざこんな山奥まで来る物好きがどれくらいいるのか、どれくらいお金を落としてくれるかは知らないが。
SNSに廃墟写真をあげる趣味はないが、取り敢えず荒廃したスキー場を背景に写真を数枚撮ってバイクに跨がった。せっかく此処まで来たのだから、もう少し探索していこう。ゲレンデは走れなかったが、別荘地区も見ておこうとスタートさせた。
別荘地区なら少しは走れるダートコースもあるかもしれないという希望は、早くも地区の入口のゲートによって阻まれた。丸パイプで簡易的に作られた車止めは、バイクなら脇から簡単にすり抜けられる。そもそも固定されているわけではなく、持ち上げて動かせば車でも簡単に入れそうだ。しかし道の真ん中に『私有地につき、関係者以外立ち入り禁止』と書かれた立て札が置かれていた。道も含めた別荘地区全体が私有地になってるらしい。
どうしたものか?若い頃の俺なら躊躇なく入ったであろう。たとえ見つかっても、別荘に盗みに来たわけでもなく、森林資源を荒らしたり、廃棄物の不法投棄目的でもないから、多少怒られても『道に迷って入り込んでしまいました。すみませんでした』で済まされるぐらいの感覚だ。もちろん、火事だけは絶対に出さないよう気をつけていた。
しかし俺も今や分別ある大人。それに時代が違う。別荘を専門に狙う空巣グループもあるという。杉や檜などの材木が山から大量に盗まれたという話も聞く。バイクじゃそんなの運べんだろ?と言いたいが、下見に来たと疑われるのも嫌だ。昔と違って監視カメラもそこら中に設置されているだろう。自分は関係なくても、もし火事や事件(死体が発見されるとか)でもあったら、容疑者にされかねない。
そんなことをぼうっと考えてると遠くからエンジン音が聞こえてきた。単気筒、おそらくオフロードバイクだろう。結構大きな排気量のようだ。近づいて来る。別荘地区の中からだ。
現れたのは、古く大きなオフロードバイク。HONDA XR600パリ・ダカール仕様だ。
ほぉ~、これはまた珍しいビンテージバイク……。
1970年代終わりから1980年代始め、パリ・ダカールラリー草創期に活躍したホンダのワークスラリーマシンレプリカだ。と言ってもスタンダードのXR600に大きな燃料タンクをつけ、当時のホンダワークスカラーの三色がカラーリング施されているぐらいだったと思う。当時日本の免許制度は400cc以上の二輪車が乗れる、いわゆる限定解除が極端に難しく、ただでさえ大型バイク乗ってる人が少ない上に、日本人の体型と走れる環境に合わないビッグオフロードはすべて輸出専用で、ほとんど見かけなかった。ましてパリ・ダカールレプリカなんて、見た事あるのは400までで、600のパリダカレプリカなんて存在すら知らなかった。輸出仕様ならたぶんあると思っただけだ。正直に言えば、その頃のXRの最大車種が500ccだったか600ccだったかすら覚えてない。
パリダカライダーは、入口からまっすぐのところでバイクを停めた。片尻をシートからずらし、左足1本で爪先立ちでこっちを見ている。バイクが大きいせいか、ライダーがやたら小さく見える。俺も背は高くないが、おそらくこいつは俺と同じくらいか小さいぐらいだろう。普通これほど大きくシート位置の高いバイクは、少しでもバランス崩したら支えられなく立ち転けしてしまうものだが、爪先立ちながらぐらつきもせず堂々としてる。
乗り慣れている。
バイク乗りなら、跨がってるだけでおおよそのレベルはわかるものだ。どんなにいいバイクに乗って、どんなに格好つけていても、上手いか下手かは跨がっただけである程度わかる。もっと言えば、ヘルメットを持ってバイクの横に立ってるだけの雰囲気がちがう。それはスキーでもテニスでも野球でも同じだから、わかる人にはわかるだろう。おそらく彼は相当乗れる。
向こうもこちらを値踏みしてたのか、しばらく見合ったあと、手招きをしてきた。入ってこいと誘っているのか?
いいのか?あんた何者なんだ?ここの関係者?それとも俺と同じような、ただオフロードバイクで走ってるだけのツーリングライダー?
ツーリングライダーにしては、荷物を何も持っていなかった。林道ツーリングならたとえ日帰りでも簡単な修理工具や弁当とか水筒ぐらい持っているはずだ。ヘルメットやブーツ、プロテクターはオフロードのフル装備ながら、ウエストバッグひとつ持っていない。よく見ればパリダカ仕様のXRにはナンバープレートがない。つまり公道は走れないバイク。という事はバイクをトランポで運んできたか、もしくはガレージを持っている別荘の所有者と考えられる。
別荘の所有者から招待されたのだから俺も関係者と言えるだろう、と都合よく解釈し、ゲートの脇をすり抜け、中に入った。
俺がゲートを抜けるのを確認するとパリダカも走り出した。走りながら後ろを振り返り、「ついて来い」と言ってるようだ。こうなったらついて行くしかない。
予想通り、そいつは相当乗り慣れているようだった。身体に不釣り合いな大きなバイクに振り回される事なく、荒れて滑りやすいアスファルト路面を安定して走らせている。それもかなり速いペースで。
やがて舗装路面が途絶えて砕石敷きのオフロードとなった。それでもパリダカライダーは乱れる事なく、むしろ舗装路よりアグレッシブに、カウンターをあてながら小石を後ろに弾き飛ばし始めた。小さな体であんなに大きく重たいバイクをそこまで操れるのは相当なテクニックだ。知らない道とはいえ、軽量ハイパワーの2スト250に乗ってる俺が、ちょっと気合い入れないとついていけないほどのペースになっていた。
しばらく未舗装路を走った後、開けた広場のような所でそいつはバイクを停めた。俺も並べて停める。正確にはわからないが、おそらくダートの区間を2周ほど周回しただろう。心地いい汗が溢れ出す。二人ともバイクを降りてヘルメットをとった。