#3「人形は貴婦人の独り言に耳を傾けるべきである」
《1》
《異類隔離区》で暮らすほとんどの怪異たちにとって、食事とは本来、単なる嗜好品の域を出ない代物だ。しかしながら、彼らの多くは三食きっちり摂るどころか、湧き出る食欲を抑えきれず、間食に手を伸ばす者も存在する。それはなぜか。簡単に言えば、「《焚書図書館》によって受肉させられたから」というのが理由である。
怪異たちはここに来ると、まず人間の貌を与えられる。それは《異類隔離区》に一人しかいない「義体師」によって作られた、外側だけでなく諸々の内部機構も人間そっくりに作られた、主なき体だ。
芸術家気質の「義体師」が整った顔立ちに仕上げた肉体は、無生物より発生した《付喪衆》、動植物に由来する《獣者衆》たちの核となるモノ——由来にあたる物品や、生前の肉体の一部など——を埋め込むことによって、完全に彼らのものとなる。
もっとも、元から人間の姿で生まれた《傾奇衆》や、自前で人間の姿に化けることのできる怪異には、受肉処置は行われない。故に、食事の必要性も薄れ、彼彼女らは「少食」な怪異となる。
茶屋の前に設けられた簡素な椅子に腰掛けたエマ=スタフティが持つ団子が、三つから二つに減ったきり数が変わらないのも、それが原因なのだろう。彼女の人の姿は、《モノクローム・イミテーション》によって文字通り模倣された、ハリボテなのだから。
「……」
一方、受肉処置を受けた猫の怪異であるシャルの前にある蕎麦のせいろは、すでに三枚目に突入している。一週間絶食していたかのような勢いで、彼は「ズゾゾゾゾ!」と音を立てて麺を啜っていた。
だが実のところ、シャルはそんなに腹を空かせていなかった。彼の食欲の源となったのは——他でもなくエマ=スタフティの話す壮大な過去の物語だ。
「んぐぅっ——ぷぁー……ごちそうさまでした」
シャルは三杯目の蕎麦の丼に口をつけ、一気につゆを飲み干すと、静かに手を合わせた。
「猫の兄ちゃん、いい食いっぷりだったねぇ」
「はは……ありがとうございます……うっぷ」
「どーした、顔色が悪いぜ?」
「ちょっとだけ……無計画に食べすぎたかも……美味しすぎて」
心なしか一回りほど大きくなった気がする腹をさすりながら、シャルは三角形の耳の先をへにゃりと曲げた。
「……はぁ」
エマの口から語られた、彼女の生い立ち。人間からの愛というものに触れないまま今日まで育ってきたシャルからすれば、彼女の生は未知に、そして憧れに満ちていた。
(——なんで……こんなに羨ましいんだろう)
それは、空の星を眺めるようなものだった。あるいは、水底を雄大に泳ぐ魚へ、水面を見つめながら思いを馳せるようなものだった。
(——なんで、こんなに恨めしいんだろう)
張り裂けそうなくらいに腹に物を詰め込んだ訳は、そんな気持ちを紛らわすため。少し前までただの友人だった彼女が、よく分からない別の次元の生き物のように見えてきてしまったからだ。
「……満足しましたか、シャル?」
「うん……まあね」
エマはもうすっかり冷えてしまったであろう、二つ団子が刺さった串を持ったまま席を立った。
「具合が悪いのですか?」
「あはは……ちょっと、食べ過ぎちゃったみたいで……」
「『食べ過ぎた』……ですか。そうですか」
エマは一瞬、何かを思い出したかのように動きを止めると、特に何事もなかったかのように元の調子に戻った。
「歩くのが辛いようでしたら、また少し寄り道をしましょう。確かここからだと……『彼女』の家が近かったはずです。それまで」
「うっぷ……その話で胃もたれしそうなんだけど……」
「何か言いましたか?」
「いっ、いやぁ何も!?」
《2》
工場が経営破綻に陥り、取り壊しが決まった後、エマは回収され、そのまま工場に眠っていたサンプル品の人形や、かつての工場長が出品したコレクションの一部とともに、オークションに出された。
彼女がいた工場で働く人々は毎日作業着を汚していたが、それで彼女を汚すことは決して無かった。それも手伝ったのだろう、彼女はその日の目玉商品の一つとして、オークションの大トリを飾る品に選ばれた。
「しかし、改めて見ても凄いですね、この人形……怖いくらい人間に忠実に作られています。肌の質感、アンニュイな表情、そのどれを取っても、こう、胸の内に訴えかけてくるものがあります」
「ああ、確かにな。俺が主催者側じゃなかったら、出品された瞬間に大金を叩きつけていただろうよ。……もっとも、これを家に置いておくってことはしたくないけどな」
「それは一理あります。灯りを消した部屋でこの人形と目があってしまったら、怖気付いて動けなくなってしまうかもしれません」
「ああ。悪い意味じゃなくてよぉ、あんまりにも人間に似過ぎてるから、逆に不気味に思っちまうんだよなぁ」
エマは出品を待つ間のバックヤードで、そんな会話を不意に耳にした。出品された富豪のコレクションの人形はどれも、色とりどりのドレスを身に纏い、その中でのエマの存在は、まさしく異質だったと言えよう。
布を被されて視界を塞がれ、自分の出番を待つ間、エマはひしと表舞台の緊張を感じていた。張り詰めた静寂に響く来客たちの声には、欲望と勝ち気が滲み出ている。赤い布越しでなければ、この小さな体は吹き飛んでしまうのではないかと思わせるほどに。
かくしてエマと同じくらいの背丈の少女たちは、一人、また一人と新しい主人と契約を結ばれていく。時間はゆっくりと、されどそれを体感させないほどに濃い感情の波と共に過ぎていき、ついにエマの番が訪れた。
台車の振動が腰掛けた台から直に伝わって、止まる。赤い布が払われると、エマの目の前には人形に負けないくらい色とりどりのドレスで着飾った淑女と、オーラのあるタキシードで身を固めた紳士が皆、彼女の方を向いている光景が現れた。
「……こちらが、本日最後の品『Emma』です。こちらは先ほどの人形たちと同様に、件の人形工場より出品された物です。製作者は今のところ分かっておりませんが、名匠が手がけた事は確かです。我々は地理的条件より、急死した……」
「私が買うわ」
「……?」
そのハリのある声に、会場中の視線が集中する。商品の説明がまだ終わっていないというのに、抜け駆けて手を上げたマナーのなっていない客は誰だ、と。
真っ直ぐに手を挙げていたのは、エマのそれに似たゴシック調のドレスでめかし込んだ婦人だった。年は五十に届くかといったところで、まるで日陰で俯く鈴蘭の花のような、もの悲しげだが、少女のように無垢で可憐な雰囲気を併せ持っている。
そんな彼女の視線は冷たく、あたかも自らの行いが当然のものだと暗に示すかのような揺るぎないものだ。それはただ真っ直ぐ、オークションの進行役へと送られていた。
「すみませんが……ご婦人? まだ開始の合図をだしておりませんので、その手を下ろしていただけませんか?」
「あら、私の声が聞こえなかったのかしら? あの子は私が買うわ」
「ですから……」
「あらごめんなさい、先に金額を提示しないといけない決まりだったかしらね。私ったら本当にせっかちで、もう……」
「あのですね……!」
司会が話を聞かない婦人の態度に苛立ちを見せる。しかしそんな事は気にせず、彼女は小さく息を吸うと、司会にエマへとつけた値段を宣言した。
その瞬間、会場の空気が凍りついたのを、エマはよく覚えている。
エマはその頃、人間の金銭に関する仕組みというのをよく知らなかった。だから彼彼女らが身を強張らせ、血の気の引いた顔を見せた理由が分からなかった。
しかし勿論、今ならその意味が分かる。エマにつけられた値段は軽く屋敷一軒分、下手をすれば農場の一つだって買えたかもしれない、まさしく信じがたい金額だったのだ。
人形というのは観賞用だが、絵画や彫刻と比べれば格の劣るものだろう。それなのに、だ。
「その子は私が、今の金額で買うわ。異論はないわね?」
異論は無かった、どころか、物音のひとつすらしなかった。ただ婦人の力強い声だけが、無限に反響しているように思われた。
「ら……落札です……」
ハンマーが力無く振り下ろされ、乾いた音が会場を覚ます。
「ふふふ……これからよろしくね、『Emma』ちゃん」
その日、婦人の柔らかな、孫娘に向けるような笑顔を見たのは、ただ一人エマだけだっただろう。
《3》
「……さぁ、エマちゃん。ここがあなたの新しいお家よ」
彼女が抱き抱えられて入った貴婦人の屋敷は、「広大」、「豪華」、あるいは「荘厳」、それらのうち一つだけでは到底説明しきれない。卒倒するような「財」の気配、とでも言うべき、その婦人の豊かさの象徴とでも言うべき代物だった。
そしてその中でエマが通されたのは、使われた痕跡のない、それでいて妙に家具が揃えられていて、埃を被っている子供部屋だった。
「この子が……紛らわせてくれるといいんだけど」
ベッドの上にエマを座らせた貴婦人は、そのまま子供部屋から立ち去った。この時エマは、まだ婦人の言葉の意味を理解していなかった。そして早くも次の日に、その真意を知ることになった。
貴婦人はどうやら、数年前に旦那を亡くしたようであった。二人は子宝に恵まれなかったため、彼女に残されたのは、旦那の有していた莫大な財産だけであった。
エマを手に入れたのは、その耐え難い寂しさをどうにかして紛らわすためであったらしい。他のどの人形よりも「人間」を忠実に模倣した『Emma』だけが、この苦しみを暈してくれると信じて。
「……ごめんなさいねぇ、湿っぽくなっちゃったかしら」
全ては直接、貴婦人の口から聞いたことだ。暖炉の方から弱々しくこちらを包み込んでくれる暖気のような彼女の声は、確かにエマの中まで届いていた。
そしてそれから数ヶ月、エマは貴婦人の昔話に耳を傾ける生活を送った。彼女は子供部屋に椅子を持ってきて話をすることもあれば、エマを抱き抱えて連れ出し、広大な屋敷の中を案内してくれる時もあった。
エマのお気に入りは、屋敷の庭にあるガゼボだった。それ風通しの良い白い柵、技巧の凝らされた彫刻で飾られた屋根、そして屋根と同じように品のあるベンチで構成されていた。
そこで話す時、エマと貴婦人は隣り合って座った。エマの小さな体が、貴婦人に寄りかかるような感じだ。視界は色とりどりの花で彩られ、甘い風が銀糸の髪を揺らす。そこで聞く婦人の話は、いつになく鮮やかに聞こえたのだ。
「その時私言ったの、『あなたってば本当に無鉄砲なのね。でもそういうところが私の心を射止めたのよ』って……あの人は本当にかっこよくて、優しくて……私より先に逝くなんて、全く想像させてくれないような人だったわ……」
エマは人形の身体、一言も言葉を喋ることはできなかったが、貴婦人の話を聞くたびに、彼女はその伽藍堂の胸の中に心を、特にヒトとしての体験への憧れを育てた。
(——ニンゲンって、やっぱり素敵な生き物だわ。寿命があることだけが勿体無いけど……自由に動いて、話して、感情を表現することができる。私がニンゲンだったら、おばさんのお話をもっと楽しく聞けるのかな……)
彼女は工場や、オークション会場で、人がどのようにコミュニケーションを取るかを知っていた。彼らのような「受け答え」が自分にもできたら、どれだけ素敵なことか。彼女は初めて、自分も人間だったら、あるいは人間のようになれたらと願うようになった。
——その願いは、望まない形で叶うことになる。
《4》
「……望まない形?」
「ええ。私の覚醒は、私が望まない形でもたらされました」
エマはすっかり話に引き込まれているシャルと歩きながら、自らの過去を語って聞かせている。その表情は昔を懐かしむ喜びに、何かしらのネガティヴなものを伴っていた。それは足の裏に刺さった小さな棘のような、些細だけれど大きな影響を持つものだった。
「あれを語るには……そうですね、少しばかり体力を使うことになるかもしれません」
「今以上に……?」
「……空箱叉流、あなたはただ私の話を聞いているだけでしょう。どうして体力の心配をする必要があるのですか」
「きッ、聞く側だって色々考えたり集中したりするんだから、多少は体力を使うんだよ! ていうかそんなことより——」
シャルはエマを抜いて少し前に出ると、周囲の情景を見回す仕草を見せた。それに釣られて彼女も周囲を見回してみると、ここはすでに《異類隔離区》の住宅街に差し掛かっているところだった。
「エマがさっき言ってた『彼女』の家って、もうそう遠くないはずじゃない? だってその『彼女』って、『クロノ』のことでしょ?」
「……よく分かりましたね、空箱叉流」
「も〜う、エマったら……僕がどれだけ君と一緒に仕事してると思ってるの! それくらいなんとなく分かるよ、だってエマとクロノって偵察範囲近いでしょ?」
「……ええ」
「ん? なんだか含みがある頷き方だったけど……まあいいや、早くクロノのところに行こうよ。僕、クロノに会うの久しぶりだからさ!」
シャルの足取りはさっきまでよりも少し軽くなっていた。
「空箱叉流、あんまり走ると、さっきまで乱暴に食べていた蕎麦が逆流しますよ」
「うぐっ……言わなければ忘れてたのに〜……」
「《義体師》に与えられた体は、そんな便利ではないでしょうに……」
エマはその後ろを追いかけるように、『クロノ』の元へと向かった。