何でも屋5 外伝7 渡る後悔
何処までも広がる霧がかかった場所に男は一人ぽつんと立っていた。
「……」
無言で辺りを見回してみても、そもそも霧のせいで何も見えず、人や動物と言った生き物の気配すら感じないので、取り敢えず声を響かせてみる。
「おーい。誰かいませんかねー?」
その声に対して返事は、無情にも帰ってはこなかった。
「んー。どうしましょうかね。困りました」
男はしばし考えると、意を決して前へと進み始める。
先が見えない風景をしばらく歩いていると、ゆっくりとだが霧が晴れていきそこには大きな青色の台地が広がっていた。それを最初は海と思って見ていたが、対岸が見え水が横に流れていることから川だと判断する。
空気はとても澄んでおり温かい光が周りを包み込んでいるかのように心地の良い空間がそこにはあった。
「へー。とてもいい所ですね」
「ほほほ。そうだろうねぇ。ここはそういう所だからね」
男がぽつりと呟くと返事が帰ってきたのでそちらを見ると椅子に座った老人がそこにいた。
「おや。独り言を聞かれてしまいました。これは恥ずかしい」
「そんな事はないさ。お前さんのように、ここをいい所だとついつい口にしちまう人間を何人も見てきているよ」
「そうなのですか。なら良かった」
男は老人の周りを見てみる。近くにはオールが立てかけてあり目の前には桟橋が伸びていてその横には小さな小舟が波に揺られている。
それを見た後、男は老人に訊ねる。
「御老人は渡し舟をやられているんですか?」
「ああ。そうだよ。もう向こう岸に行くのかい?」
「いえ。私は……」
オールに手をかけた老人を制止しようとした男だったが、強烈に自分はこの小舟に乗って対岸に行かなければならないと思い込みだし、言葉を飲み込んだ。
「何かあったかね?」
「いいえ。なんでもありません。船を出してもらってもいいですか?」
「ああ。いいよ」
不思議に思いながらも老人は、早速船を出す準備し始める。
「ところで、料金はいくらなのですか?」
男がそう訊ねると変な返事が返ってくる。
「お前さんの分は要らないよ。もう貰ってるからね」
「えっ?それはどういう……」
「さっ。準備が出来たよ」
気になる言葉を疑問に思いつつも老人に言われるがままに小舟へと乗り込み、それを確認してから小舟は対岸へと向かって行く。
「さて、対岸に付くまで時間がある。それまで暇だし、お前さんの話でも聞かせてくれないかい?」
オールを漕ぎゆっくりと進む小舟の上で老人が楽しそうに言う。
「話ですか……申し訳ないのですが、その、記憶を思い出せなくて」
「それは、忘れているだけだろう?お前さんは珍しいお客だから、やろうと思えば思い出せるよ」
「そう言われましても……」
男が困っているその時、薄っすらとした記憶の断片が頭の中に徐々に浮かんでくる。
「私は……どこかの国の兵士でした。その戦いは、それはもう酷いもので……それでも、私が所属していた国が勝ちましたが、沢山の仲間を失ってしまいました……それに対して、私は……そうだ。復讐を誓ったんでした。仲間を無駄に殺した国に対して」
「復讐とは、それはまた物騒な。しかも、自分が命を賭した国に対してとは」
「ははは……本当にそうですね。今思うと、情けない事を掲げていました。付いて来てくれていた部下達にも最後の最後まで手伝わせてしまい、悪い事をしてしまいましたよ」
「それで、その復讐と言うのは成功したのかね?」
男は片手で頭を押さえ数度横に振ると、悲しそうに苦笑しながら話を続けた。
「……いいえ。元部下に阻止されて……いえ、止めてもらったんです。人生の選択で選んではいけない道を進むぎりぎりの所を」
「ほっほっ。それは良かったのう。ならば、そこからは人生が変わったのではないか?」
「いいえ。その後の記憶がさっぱり無いのです。つまりは……」
「成程な。だからこそ、ここに来たのか」
暫く環境音だけが響き、男が落胆した様子で呟いた。
「やはり私は、死んだのですね」
「そうだよ。自覚できたかい?」
「薄々はそうだろうとは思っていましたが。改めて自覚してしまうと……言葉が出てきませんね」
「お前さんの様な奴は大体がそうなる。でも、揺るがない事実だ」
「……」
また無言になってしまう男に、今度は老人が喋り始める。
「お前さんが戦争に参加していた話で思い出したんだが、奇妙な偶然が続いた事があってね。まだまだ若い兵隊さん達だったが、口々に、隊長は大丈夫だろうか、とか、隊長が気を落としていないか、とか、複数人の口から一人の事を聞いた時期があってねぇ」
「若い兵隊?隊長?」
「その兵隊さん達が言ってた名前は何だったか……は……はー、は……は、い」
男は目を見開いて老人を見ながら訊ねた。
「ハイベル、ですか?」
「おー。その名前だよ。なんだい?お前さんも知っている名前なのかい?」
「……ええ。同じ部隊ではなかったので噂程度ですが」
「そうかい。そのハイベルって人は相当慕われてたんだろうね。ここに来たら大体の人間は記憶や感情なんて無いはずなのに、それだけ覚えられているんだからね」
「そうですか……」
それ以降、二人の間に会話が流れる事は無くただ目的地に向かって小舟は進んで行った。
どれだけの時間が経ったのか、ようやく対岸が見えてきた頃に、老人は思い出したように呟いた。
「そう言えば、最近もいたんですよ。そのハイベルと言う隊長さんを慕っている方々が」
「えっ?」
伏せていた顔を上げると対岸に、大小様々な人影が四つ見え始める。
「あれは、お前さんのお仲間かい?」
「……ええ。大切な、仲間達です」
嬉しい反面自分の身勝手な行動に巻き込んでしまった後悔の念が思い出され人影達を見つめていると不意に涙が流れてくる。
「後悔先に立たずとはよく言ったもんだねぇ。でも、それ程までに慕われているんだ。今は開き直って再会を喜べばいいさ。どうせこの後は決まっているんだからね」
小舟は対岸の桟橋に近付くと先に老人が降りて小舟を安定させる。
「ほら。お客さん。着きましたよ。この先の行き方は……まぁ、何とかなりますよ」
「御老人。ありがとうございました」
男は立ち上がり小舟から降りて行く。そして、対岸に待っていた四つの人影へと歩み寄る。
「皆さん。待たせてしまいましたか?」
「……」
返事が返ってこないどころか、どこか生気を感じない面々。
「それが普通なんだよ。お前さんの様に意識がある奴の方が珍しいのさ」
「しかし、先程会話をしたような話をしていたじゃないですか」
「それは、聞いたら答えるいわば人形みたいなものだから」
「そう……なのですか」
がっくりと肩を落とす男だったが、四人の内の一人がぽつりと
「隊長……」
と言った。
すると、口々に同じ単語を繰り返し始めそして
「……隊長!?ご無事だったんですか?それに、ここは一体?」
一人が意識を取り戻すと、他の三人も連鎖するように戻っていく。
「隊長。私達はあの後どうなったのですか?」
「ここは不思議なとこですね。嫌な感じがしません」
「いま、なにが、どうな、てる?」
全員が正気になると、それを見た老人は目を見張った。
「こりゃあたまげた。こんな事が起こるなんてね」
この光景を男は嬉しくも悲し気に思いつつ、背筋を伸ばして立つとそれを見た四人も同じように立つ。
「皆さん。このような再会を果たし嬉しく思います。私はこれから厳しく罰せられる為に死地に赴きます。皆さんももしかしたら同じ場所に行くことになると思います。あんな事になった後なのに自分勝手なのは分かっています。ですが、それでも、こんな私と共に、死地へと向かってもらえませんか?」
静寂を破ったのは四人の内一番大きな男だった。
「おれ、どこまで、も、たいちょ、うと、いっしょ!」
その発言に賛同するように次々と声が上がっていく。
「私も隊長について行きます!」
「ここまできて、まさか付いて行かないなんて選択はありませんよ」
「隊長。どちらへ向かいましょう?」
「皆さん……」
溢れ出しそうな感情を無理矢理抑え、男は老人の方に顔を向ける。
「御老人。ここまで本当にありがとうございました。いつまでもお元気で。それと、いつの日にか、赤毛の真面目そうな男と、喋り方が特徴的な黒毛の男が来ると思いますのでよろしくお伝えください」
「その二人はいつ来るんだい?」
「さぁ?ここにいつ来るかを分かっていたら苦労はないんじゃないですか?」
「確かにな。まぁ、覚えていたら伝えとくよ。覚えていたらね」
「宜しくお願いします」
男は軽く会釈をすると、四人と再び顔を見合わせ大きく深呼吸をすると霧のかかった道を当てもなく歩いて行く。五人の姿はその内見えなくなった。
「さようなら。皆から慕われた隊長さん」
老人はオールを動かしつつ元居た桟橋へと戻って行った。