SS02.悪魔の見る夢
※グロく感じる表現があるかもしれません。
寂れた廃墟。
その壁の一角に倒れるようにして背を預け、腰を下ろしている少女――。
どうしてここにいるのだろうか。
いつからここにいただろうか。
何一つ思い出せない。
ただ、私にあるのはこの渇きだけ。
もう何日も何も口にしていない。
喉が渇いて、腹も減って。
なんでもいい。口にできるものを欲するが立ち上がる力さえ残っていないので、必然、この身が朽ち果てるのをただ待つことしかできない。
「――――――あ」
そんな時、聞こえて来たのは長らく聞くことのなかった人の声。
どうやら私以外にもここにたどり着いた人がいるらしい。
……たどり着いた? 私はここを目指していたんだっけ?
やっぱり何も思い出せない。
「あなたも……?」
白い法衣を身に纏い、その手に聖杖を突く女性。
掠れた視界ではそれぐらいしか判別できないが、おそらくは教会の聖職者――聖女。
無視する意図は無かったのだが、口を開いても声が出ない。
そっと喉を手で撫でるが、やっぱり声は出なかった。
声の出し方も忘れたか、それとも最初から話せなかったか。
声が出せたとして、彼女の疑問の答えを持ってはいなかったが。
「あなた、声が……そう、話せないのですね……」
聖女は悲しそうに呟いた。
別に、何も悲しむことはない。
地獄が顕現し、すべてが壊された世界では、声が出ないぐらい些細なことだ。
友人に訪れた死。家族に訪れた死。今まさに自分に訪れようとしている死。
それらすべて皆、救済であると受け入れた。
この喉の渇きに比べれば、死なんて簡単に受け入れられる。
けれど、逆にこの渇きだけはどうしても受け入れることができない。
灼けるように熱く、水を求めても手に入らず、苦しくて、苦しくて……。
この苦しみを死でも、救済でも、なんでもいいから、早く終わらせて欲しかった。
「あなたを癒すだけの力が残っていればよかったのですが……私も、もう長くはない……」
終末を迎えた世界で、私たちは等しくすべてを失った。それはきっと彼女もだ。
だから、誰も責められないし、責めもしない。
彼女が私を助けられなかったことを悔いたとしても、自分を責めることはないのだ。
「……!」
からん。杖が地に落ちる乾いた音。
音が聞こえて少しして、何かが肩に寄りかかった。
その方向にゆっくりと視線を向けると私の隣に聖女が座り、頭を預けていた。
「ごめん、なさい……あなたも辛いのに……でも、許してください……」
……許すとも。
痩せこけた身体では別に重くもない。
むしろ一緒に逝ってくれるのなら、欠片の寂しさも消える。
自然、いつの間にか寄りかかられていない方の手で聖女の頭を撫でていた。
「……ありがとう」
それから、どれぐらいの時間が経ったか。
一秒、一分、一時間、一日。時間の感覚はとうにない。
その時が来た。
「……あなたは、生きてください」
耳に届く前に霧散してしまいそうなほど小さな声を辛うじて拾う。
「私は、先に逝きます。そうしたら、私の亡骸を……食べてください」
それは、およそ人間の倫理に反すること。
いくら世界が私たちの知っている以前の世界から変わってしまったとはいえ、その行為に抵抗は拭えない。
それにどちらかが生き残るのであれば、私ではなく彼女こそが生き残り、教会の掲げる救いを他の誰かに与える方がずっといい。
けれど、その思いを伝える術を私は持たなければ、自死を選ぶこともできない。
生を諦め、死を受け入れていたつもりだったが、そう簡単ではなかったらしい。
腹の底から迫り来る冷たさが、死ぬことが、今は狂いそうなほど怖い。
「――――――」
ほどなくして聖女は逝った。
彼女の最後の言葉は上手く聞き取れなかったが、誰か人の名前のようだった。家族か、愛する人か。それを確かめることはもうできない。
結局、共に逝くことは叶わず、私は再び一人となった。
心を決めかねて、時間だけが過ぎていく。
聖女の亡骸からはもう、熱を感じられなくなっていた。
彼女の言った通りにすれば、少しの間だが、死神の手から逃れられるだろう。
けれど、その後は? 数日生き延びたところで何が変わるのか。きっと、何も変わりはしないし、変えられることもない。
ならばこのまま、聖女の亡骸を穢すことなく、その後を追うべきなのではないか?
心ではそう思った。
けれど、身体は――渇きが、それを許してはくれなかった。
◇
そこで私は目を覚ます。
「はあ……はあ……っ!」
嫌な汗をかいている。
触れた唇に、嫌な感触が今も残っている。
忘れられるはずがない。何千と時が過ぎようと、忘れたいと願っても。
「……慣れないものだな。見る夢はいつも同じだというのに……。当然か」
今も私を苛み続けるあの日の悪夢に、ため息を漏らす。
夢の続き……結局、あの後私は渇きを抑えきれず、聖女の亡骸を口にした。
冷たい血は、故郷の川の水のよう。
柔らかい肉は、それまで食べたことがないほど極上のもの。
ぶよぶよとした内臓は、最初こそ嫌悪感を覚えたが尽きる頃には何も思わなくなっていた。
硬い骨も、長い髪も、虚ろな目玉も、薄い爪だって、全部。
彼女の全部を、喰らった。
そして、食い終えた頃、私は人間ではなくなっていた。
見た目は人間となんら変わりないが、肉体は老いず、それを維持するための食事も必要としない。
死しても死なず。殺されようとも殺されない。傷つけば即座に再生する、不死身の肉体。
そんな身体になったのだから、そう呼ばれもする――悪魔、と。
「……おはようございます。また、目覚められてしまったのですね……」
足音もなく静かに入室してきたのは、いつか私が救おうとした女の子。
終末の獣に破壊され、一度は終焉を迎えた世界。しかし、世界は少しずつ再生していった。
けれど、破壊されたモノは二度と同じ形には戻らない。
同じようで、どこか歪。それまで当たり前だったことがそうではない。
私がまだ世界を旅していた頃、未知の病に苦しんでいた彼女と出会った。
悪魔となった私の血は、摂取した者に不完全ではあるが私と同じ呪いを与える。
それを知ったのはずいぶんと後のこと。
自分の血を万能薬と勘違いした私は、人々に――彼女に自分の血を飲ませ、病を癒し、不老不死の肉体を与えてしまった。
苦しみが除かれ、最初の数十年こそ喜んだが、以降は時が精神を蝕む。
人の心は、人が永遠に生き続けられるようにできていないのだ。
大切な人たちは先に逝き、その人たちに追いつけないまま、自らは永遠に世界に縛られる。
それを理解した時、心が、壊れてしまう。
「期待するのは遠い昔にやめた。……だけど、君は先に逝ってもいいのだよ?」
「……私はあなたに救われました。その恩を返すまでは逝けません」
「救われた……陥れた、ではなくて?」
「あの時……確かに私は嘘偽り無く、救われていたんです」
救われていた、か。
彼女が本当にそう思っているのか、その心中はわからないが……いや、本当に思ってくれているのだろう。
彼女はあらゆる手段で私の願い――死すること、を叶えようとしてくれているのだから。
心が壊れた不死者は、破壊衝動に駆られ破壊を行うだけの、自我を持たない化物となる。
化物となっても不死は健在であり、通常、何者も対処できない。
しかし、彼らにそれを強いた私なら――。
「気が変わったら、いつでも送ろう」
その不死者を殺すことができる。
できれば化物と成り果てる前に送ってやりたい。
無駄な苦しみを重ねることはない。世界に縛られる必要もない。彼女たちは私の手によって、この世界から逝くことができるのだ。
それは分不相応にも聖女に代わり、世界の救済を行おうとした私への罰でもある。
私の過ちによって不死者となった者たちをすべて、呪いから解放しなければならないのだ。
「はい。心に留めておきましょう」
それでも彼女は諦めず、私を殺そうとしてくれるのだろうが……。
来た時と同じく彼女は静かに部屋を去った。
その後ろ姿を見送って私は悪魔の王の玉座を後にした。
未だ苦しみ、私にしか与えられない救いを待つ不死者たちを、殺すために――。




