前編
「ヴィルシーナ・サンチャリオット。君との婚約は破棄する」
侍女に伝えられて来た部屋で、婚約者のアラジ・ウォーリック公爵は冷たい声で開口一番にそう言った。
「……え?」
突然の婚約破棄に、ヴィルシーナは困惑する。
「君の出自を調べさせて貰ったよ。そしたらなんだ? 元農民の新興貴族如きが、古参公爵家たる私と結婚しようとしていたとはな。騙されたよ」
「っ──!? そ、それをどこで……!?」
「どこで、だと? 農民はつくづく愚鈍だな。貴様らのような新興貴族と私達のような古参貴族が区別されて登録されていない訳がないだろう」
どこまでも冷ややかな目で、アラジは言う。
この国グランディ王国は四民平等の国だ。しかし、古参貴族層の差別意識は未だ色濃く残っており、それはヴィルシーナの婚約者──アラジ・ウォーリック公爵も同様だった。
「お、お願いします。婚約の破棄だけは……!」
この婚約は父の──サンチャリオット家の昇格には必須なものだ。私がどんな目にあったとしても、この婚約だけは絶対に守り抜かなければならない。
縋るように近づくヴィルシーナに、アラジは軽蔑した目でテーブルに置いてあった銃を向けた。
「っ……!?」
「二度と私に姿を見せるな。下賎な農民風情がウォーリック家と婚約を結ぼうなど、身の程を知れ」
唖然とするヴィルシーナを他所に、アラジは執事を呼びつける。
「ただいま参上致しました。アラジ様、何用でしょうか」
「そいつを連れて行け」
ヴィルシーナに背を向けて、アラジは淡々と言い放つ。
「はっ。了解しました」
「ま、待って下さい! どうか、どうか婚約の破棄だけはっ──!」
泣き喚くヴィルシーナに、彼は背を向けたまま何も答えない。滲み出る嫌悪と差別意識だけが突き刺さった。
「……煩い。黙らせろ」
それが、最後に聞いたアラジの声だった。
†
執事に屋敷の門まで連れて来られてからはよく覚えてない。茫然自失のままにふらふらと歩いていると、気がつけば海に来ていた。
「……どうしよう」
ぽつりと、ヴィルシーナは呟く。
父はより高位の爵位に上り詰めるために、より高位の家に嫁がせるために故郷の村を捨ててヴィルシーナを厳しく育てた。昔の事は絶対にバラすなと、私は父に何度も言われていた。事実、父は故郷との一切の関係を断ち切っていたし、元農民だということも完璧に隠し通していた。
……なのに。私が父の努力を全てぶち壊した。恐らく、父に隠れて行っていた故郷の村への寄付金が、何かの拍子に見つかってしまったのだろう。結果、出自を調査され、父が必死の努力で隠し通して来た元農民の肩書きをウォーリック公爵家に知られてしまった。
「……家、帰りたくないな」
家に帰るのが怖い。父になんて言ったらいいのか分からない。何を言われるのか分からない。
そう思うと、目から涙が零れ出した。夕焼けの水平線がぼやけて見える。
「君、大丈夫か?」
一人海岸で泣きじゃくっていると、いつの間にか隣に一人の男が居た。
「あ、貴方は……?」
涙を手で拭って、ヴィルシーナは訊ねる。
「バーラム・ガイヤースだ。君の名前は?」
「……ヴィルシーナ・サンチャリオットと申します」
「サンチャリオット? 今勢いに乗ってる貴族さんじゃないか。そんな家の御令嬢さんが、どうしてこんなところで?」
「それは──……」
目を瞬かせて問うバーラムに、ヴィルシーナは事の顛末を全て話した。
ウォーリック公爵家との婚約を破棄されたこと。
その原因が元農民の新興貴族だからということ。
茫然自失のうちに、気がついたらこの海に来ていたこと。
初対面の人に明かすような事でないのは自分でも分かっていた。だけど、不安でいっぱいだったヴィルシーナに、話す事を抑える理性は残っていなかった。
「……そんなことが。大変だったな」
「……バーラムさまはなぜここに?」
少しの沈黙の後にヴィルシーナが訊ねると、バーラムは苦く笑った。
「軍の志願書類がうちにも届いてね。どうするか悩んでいたら、いつの間にかここに」
「あぁ、確かランド帝国と開戦したんでしたっけ」
そう言って、ヴィルシーナは今朝聞いたラジオの回想に耽ける。
ランド帝国──ドーツ海峡を挟んだ先のサドラー大陸に位置する巨大帝国だ。今日、グランディ王国は同盟国が侵攻されたことを受けてランド帝国へ宣戦布告した。
「ま、俺のことはどうでもいいよ。君はこれからどうするんだ? やっぱり、家に帰るのか?」
「……いえ。家には……帰りません」
「ん? どうしてだ?」
「……合わせる顔がないので」
自嘲気味に言って、ヴィルシーナは顔を伏せる。
「父はより高位の爵位につけるように、必死で努力していたんです。なのに、私がその努力を踏みにじってしまった。……だから、家に帰るのが怖いんです」
「………………君、どこかあてはあるのか?」
少しの沈黙の後に、バーラムは問う。返すヴィルシーナは──無言。その様子から、肯定の無言なのは明白だった。
「なら、どこかに泊まる金は?」
質問を変えて問うが──、やはり、無言。
二人の間に、妙な沈黙が流れた。
「……実は、おれの実家は宿屋をやっているんだが。丁度、今人手が足りないんだよな」
「え?」
突然の言葉に、ヴィルシーナは伏せていた顔を上げる。
「誰か泊まり込みで働いてくれる人は居ないかなぁ〜? 三食つきで週休二日制なんだけどなぁ〜?」
わざとらしくそう言って、バーラムはちらりとヴィルシーナの方へと目線を飛ばす。助け舟を出してくれているのは明白だった。これに乗らない手はない。
「や、やります……!」
一歩踏み出して、声を上げた。急に大きな声をだしたものだから、少し変な声だった。
「くっ……、ふっ……!」
「な、なんですか! そこまでおかしい事ではないでしょう!?」
その声が余程面白かったのか、バーラムは笑いを必死に堪えていた。そこまで笑われると思っていなかったので、少しムッとする。
「いやぁ、ごめんごめん」
ひとしきり笑った後で、バーラムは改めて彼女に向き直った。
「では、よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」