ウィザード
「ん?」
自宅への帰り道の途中、妙な気配を感じて堀田コウジは振り返った。
「匂い」とも「音」とも「振動」とも言い切れない、それらの複合された感覚を「気配」と呼んだり「殺気」と言ったりする。
もしくは、コウジの読み取ったそれは他の人間の五感にはない六番目の感覚、「魔力」であったかもしれない。
実を言うとこの感覚はここ数ヶ月ずっと感じていたものであった。―何者かが自分の跡を尾行けている― 最初は少し自意識過剰すぎるかと思っていた。しかし先日の「鏡の中の世界」騒動があったため、それはヤニアの気配だったのかとも思ったのだが。
しかし結局あの「鏡の中の世界」が現実のものであったのか夢であったのか、それもはっきりとは分からない。
ただ残ったのは過ぎ去った日付と怒りの溝渕さん。
だがこの日の「気配」はやはり気のせいなどではなかった。
彼が立ち止まって振り返った先、余り人通りのない住宅街の路地で、電柱の影から人影が現れたのだ。
「ふっふっふっふ……」
それ自体は珍しい事ではない。天下の公道なのだから人が電柱の影から現れることもあろう。コウジはそのまま踵を返して再び帰路につく。
「ちょっと」
4月もそろそろ終わりである。陽が沈んだ時間ではあるが随分と暖かくなってきた。それほど遠いわけではない職場から自宅への帰り道をコウジは……
「ちょっと!!」
「え、なんですか」
コウジの肩がぐい、と引っ張られた。
「なんですかじゃないでしょ! この状況で無視していくとかあります!?」
「え、僕ですか? 人違いでは?」
「え……」
謎の男が立ち止まった瞬間にコウジは再び道を進み始める。街の明かりのせいか、星空はあまり見えない。
「いや人違いじゃないですから! 間違いなくあんたですよ!」
「え、でも僕はあなたのこと知らないですけど」
今度はどうやら放してくれそうにない。ダボッとした七分袖のトップスに顎くらいまでの髪の長さで右目が隠れている男性。少し中性的な顔立ちで、あまり覇気の感じられない表情だ。この男がコウジに何の用なのか。
どうやらコウジは彼の事を知らないが、彼はコウジの事を一方的に知っているらしい。もしかしたらストーカーというものかもしれない。
「この数ヶ月、ずっとマークしてたんですから」
ストーカーの波動関数が収束する。
「堀田コウジさん……来月、誕生日ですよね? 三十歳の」
あかん。
コウジは踵を返し、今度こそ帰路につく。若干早足で。
「逃がすかぁッ!!」
その時男の身体が金色に輝いた。
「!?」
異常な事態を感じ取りコウジは走り出す。しかし男を中心に放射状に、ひびが広がる様に金色の糸が広がっていく。
「ヤニアに邪魔された時は少しびっくりしましたがね。様子を見すぎて完全に出遅れたかと思って。しかしもう逃がさない」
走って逃げようとしていたコウジはその言葉に動きを止めた。
なぜこの男が「ヤニア」の事を知っているのか。アレはやはり夢などではなかったのだと。だがおそらくはコウジが逃げ足を止めなくとも彼の動きは止まっていただろう。
なぜならば、男を中心に広がっていた「金色の糸」がコウジの脚に絡みつき、彼の身体の自由を奪っていたのだ。
「んっ!? なんだこれッ!! やっぱり無視して逃げればよかった!!」
三十六計逃げるに如かず。しかしその「逃げる」という決断すら常人にはなかなか下せないものなのだ。
「安心してください。あなたに危害を加えるつもりはありません。ただ、私達の仲間になってほしいだけですから」
「仲間? まさか、屈筋団とかいう奴らの残党か……?」
「屈筋団……?」
男の顔が歪み、馬鹿にするような笑顔を見せた。
「あんな半端者のツイフェミ集団と一緒にしないで欲しいですね。私達こそがこの歪んだ現代社会を真に救える者……」
「あっすいません、宗教なら間に合って……」
と言って踵を返そうとするものの、しかし足が糸にからめとられて動かない。備えあれば憂いなし。
「ふふふ、本当はもっと平和裏に協力してほしかったんですがね。ですが、きっとあなたも私達のアジトに来て話を聞いてもらえれば理解してくれることでしょう……」
「クッ……僕を屈筋団みたいな悪の組織(笑)に入れるつもりなのか……!?」
しかしコウジの言葉に男は天を仰いで高笑いをする。
「ハッハッハ、何を言うかと思えば。あんな悪魔どもと同じにしないでください。しかしまあ、どちらにしろあなたにはアジトに来てもらいましょうか……」
中性的な美しい顔が笑顔に歪む。その体からは無数の細い金色の糸が触手のようにざわめいて動き出し、コウジの方に向かって動き出す。一般人であるコウジに抵抗するすべなどない。もはやこれまでと思われた時だった。
ガチャリ、と男の後ろで金属音がした。その音に反応して金色の糸がさざめくように方向を変える。
パン! と、住宅街に発砲音が響いた。
「クゥッ!! 何奴!?」
スケロクの銃弾。しかしそれは標的までは届いてはいなかった。弾丸は包み込まれケブラー繊維の防弾チョッキのように衝撃を分散させて金色の糸に受け止められていた。
「スケロクさん!!」
コウジの声には答えずに、スケロクは無言で撃鉄を引き、次弾をシリンダーに送り込む。問答無用で次の攻撃に移ろうとしていることに気付いた男はコウジに巻き付けていた糸を自分の元に戻して自分の脚に巻き付けた。
「公安のスケロクか、噂には聞いている!」
そうしてテーピングのように足に糸が巻き付くと、とても人間とは思えないような跳躍力で飛び上がり、数回電柱の側面を蹴ってそのてっぺんまで登り切る。完全に射程範囲外、スケロクは銃を下ろして、視線は男の方に合わせたままコウジに怪我はないか問いかけた。
「この場は一旦預けるとしよう、また会いましょう、堀田コウジさん」
謎の男はそのまま恐るべき跳躍力で夜の住宅街の奥へと消えていった。
「逃がしたか……なんか俺こんな登場の仕方ばっかだな」
何が起こったのか理解の及ばないコウジはまだ尻餅をついたままである。
「す、スケロクさん……いったい、今のは……?」
これが尋常な事態ではないことはなんとなく分かっている。そしておそらくは、この間の「鏡の中の世界」ことが現実であったことにも、考えが及んでいる。
スケロクは前回はメイの隠蔽工作に加担していたものの、しかし随分と無理のある隠蔽であることはよく理解していた。
これ以上はもはやごまかせないだろう。そう悟ったのかもしれない。ふう、とため息をついてコウジの方に振り向いた。
「堀田先生、こんな話を聞いたことがあるかい?」
ゆっくりと安全装置を銃にかけ、ベルトの間に差し込みながらスケロクは言葉を続ける。
「三十歳まで童貞だと、魔法使いになる」