再会
(まずい……)
メイはちらりとコウジの腕時計に視線をやる。額には汗が浮かんでいる。
既に午前9時である。
(本格的にまずい……私のボーナスが、サブウーファーが)
遅刻確定である。
事情を話せば後からでも有給扱いにしてくれるかもしれない。と言ってもまず事情を話せないのだが。
しかしそもそも有給を取得する際に事情を説明する必要などないのではあるが、しかし事後連絡はまずい。よほど上司との間に信頼関係があれば話は別なのかもしれないが、メイは職場での勤務態度が悪く、教頭との関係も、すこぶる悪い。
大抵の「生きづらさ」を感じている人というのは、ほとんどの場合「気にしない」ということでその生きづらさから解放される。
しかしそれができる人間というのはほんの一握りだ。
それはつまり「職場に仲間などいなくても平気」な人間であり、「孤独が苦にならない」人間であり、究極的に言えば「文句を言われても実力で黙らせられる」人間である。
メイは仕事の遂行に関しては完全に独力で出来る人間であるが、長く仕事を続けていくと今回のような「不測の事態」は必ず訪れるのだ。読者の中にも鏡の中の世界に入ってしまってなかなか帰れなくなった経験のある方がいるだろう。
メイは顧問の件からも分かる様に、基本的に職場の人間と「助け合い」をしない。自分が「助けない」という事は当然自分が「助けられる」事もなくなるのだ。
(査定が下がるか……ヘタしたらとばされるか。懲戒免職にだけはなりたくない)
メイはコウジと顔を見合わせる。
メイが無言で頷くと、コウジも同じように頷いた。
(メイさん……さっきスケロクさんと鏡を使って会話してたみたいだし、もう頭の中に反撃のシナリオができてるんだろうな……せめて邪魔にならないように動けないとな)
(コウジさん……頷いてくれた。つまり私が失職した時は「養ってくれる」って事よね。ふつつかな魔法少女ですが、よろしくお願いします)
「ん?」
二人が全くかみ合わない思考をしているとメイが何かに気付いてキッチンの方を見た。
「あ、もしかして……」
メイとコウジは立ち上がって洗面所の方に歩み寄る。その表情にはかすかな希望の光が見える。
「あ……いたた、何が起こって……?」
「白石さん!」
洗面所から転がり出る様に姿を現したのは学校の制服に身を包んだ少女。
「いてて……腰が」
「だれ」
と、知らないおっさん。
「?」
疑問符を浮かべるコウジだったが、メイは無言で彼を押さえてキッチンの壁の端まで下がった。
ヤニアに感づかれる可能性があるため、スケロクにヘルプサインを送った後は打ち合わせなくここまで来た。
しかし状況からなんとなく察することは出来る。
以前に白石アスカに山田アキラが今回の件に関係していることは伝えてあるので、おそらくはそこのルートから往復チケットを手に入れたのだろうと。
(でも、二人しか入れないんならなんでスケロクじゃなくこのおっさんが来たのかしら? ……まさか)
最初は繋がらなかった「知らないおっさん」の存在だったが、すぐにそれがアスカの父親だとメイは理解した。
(ということは、この二人は囮……余計な警戒心を抱かせないためにスケロクはここには来なかった。単純にチケットが二枚しかなかったのかもしれないけど)
『あら……あらあらあら』
(出て来たな……)
ヤニアの声がその場にいる全員の脳内に聞こえてくる。語調からは余裕のあるような印象は受けない。だがまだ姿は現していない。
アスカの方はというと、体勢を立て直してメイに話しかけようとしていたようだが、ヤニアの声が聞こえてきたことに驚き、ハッ、として顔を上げる。
(この声が……ヤニア? 私のお母さんなの?)
『ガブちゃん、こんなに大きくなって……』
「ガブちゃん?」
「プフッ」
メイとコウジの脳裏には有森〇子の顔が浮かんで噴き出しそうになり、慌てて口を押えて顔を逸らした。
(なんで『ガブちゃん』? あだ名? というか誰かと間違えてない? ホントに私のお母さんなの?)
ひとつ疑問が沸き上がれば次から次へと人は疑いだす。突然意味不明な名前で呼ばれたことでアスカは母の存在に疑念を持ち始めた。
よくよく考えてみれば一度も会った事のない女である。十三年間の人生の中でその存在すら感じる事すらなく生きてきた。
父は「自分が仕事にかまけていて逃げられた」と、悪し様には言わなかったのだが、マリエからは「男と逃げた」と聞いている。
仕事人間への父への反発はあるのだが、客観的に考えると「子供を捨てて男と逃げた女」と、「それでも子供の前では母の悪口を言わないようにしている男」である。アスカはふつふつとヤニアへの怒りが湧いてくるのを感じていた。
『やっぱり面影があるわ、私のガブちゃん』
「ふんぅ」
「んふッ……」
(やめてほしい。気配を押さえようと必死に頑張ってるのに『ガブちゃん』連呼しないで)
メイとコウジは部屋の隅で生まれたての子犬のようにプルプルと震えている。
『この十五年間、あなたの事を忘れた事なんて一時だってなかったわ……』
(私まだ十三歳なんだけど……なんか)
この数分のやり取りでアスカはヤニアについて、ファーストインプレッションとしてはほぼ正確に人物像を把握したと言ってよいだろう。
(なんかうすっぺらいな、こいつ……)
そう、うすっぺらいのだ。
さすがは親子といったところか。メイがヤニアと彼女の持つ世界観について小一時間ほど話して理解した「うすっぺらさ」にアスカは数分で及んだのである。
「鏡子、鏡子なのか!?」
『ゲッ、あんたもいたのね』
明らかに声のトーンが変わる。メイ達と同様、当然ながら彼女もまさかアスカの父、というか彼女の元夫が一緒についてくるなど予想していなかったのだ。
「なんで、なんで急にいなくなったりしたんだ。あの後、俺は必死で……」
『はぁ!? まだそんなこと言ってんの?』
そして薄々そうなるだろうとは思っていたが、ヤニアの怒りが爆発した。
『そんなだから女に逃げられるのよこの粗チンが! いい? ガブちゃん。こいつみたいなつまんない男とだけは付き合っちゃダメよ。真面目だけがとりえで毎日黙々と仕事するしか能のないつまんない男なんかと一緒にいたら自分の価値が下がるわ。女なんて家で子育てしてればいい、って思ってるのよ、きっと』
どうやら実際に言われたわけではないようだ。
「お、おれはそんなことは一度も……」
『でもね、私もあのころとは違うのよ』
空間が歪むように景色がねじれ、人影が現れる。
『鏡の魔女としての力を手に入れた今の私なら、こんな奴を殺すことなんて赤子の手をひねる様なものよ』
ヤニアが、ついにその姿を現したのだ。