オーストリッチ症候群
ジュコッ、ズコココココ……ジュッポジュッポ、ジュココココッ
早朝の廊下に正体不明の水音が鳴り響く。
「んひああぁぁぁぁらめええぇぇぇぇぇ! おひんひんとれひゃうのおおぉほぉぉぉぉ!!」
青年男性の野太い声も聞こえる。
カラカラカラ……ガコンッ、ジャアアァァァァ……
コツコツコツ、と足音を響かせ、職員用のトイレからキリエがハンカチで口を拭きながら出てきた。
「どうだった?」
スケロクが問いかける。キリエはポケットから小さな紙片のような物を見せた。
「これが一切れあれば鏡の中の世界に一人が一回往復できるらしいわ。メイにも同じものを渡したって。とりあえずある分全部分捕ってきたわ」
有能である。
「残念ながらヤニアの弱点はゲエェェェェェェップ」
「んむッ!?」
予兆なく吐き出されたげっぷに三人が顔をしかめる。
「あ、ありがとよ。方法はともかく助かったぜ」
スケロクは鼻をハンカチで押さえながらキリエの持っていた残りのチケットを指でつまむように受け取った。
「構わないわ。私達もこの数日鏡に近づけなくて不便だったからね」
「キリエ……」
笑顔を見せるキリエ。スケロクは感謝の念を込めて彼女に声をかける。
「歯にひじきが挟まってるぜ」
――――――――――――――――
既に学校や会社が始まっている時間にはなっているものの、とりあえずスケロク達三人はメイのアパートに戻ってきた。
おそらくはどの鏡からでも入れるであろうが、念には念を入れてメイが入ったであろうものと同じ鏡から侵入しようという考えである。
「チケットの残りは三枚だ。ちょうど人数分あるが……」
ちらりとスケロクはアスカの父を見る。
本来はこの件に白石アスカは無関係。さらにその父親は魔法少女ですらない一般人である。スケロクが何を言いたいかを理解したアスカの父は彼が何か言う前に反論した。
「俺の元妻が迷惑をかけているんです。傍観なんかしてられません。せっかく有給もとっちゃったし」
別に有給の心配はしていない。
「むしろあなたがここに残るべきだと思っています」
「なに!?」
「あなたまで鏡の世界に入ってしまって戻ることができなくなったら、今度は本当にリカバリーができなくなります」
リスクを分散したいという気持ちは分からないでもない。しかし一般人の彼と、魔法少女ではあるものの、実力のいまいち伴っていないアスカを、メイですら手詰まりになってしまうような能力者の元に送ってしまうのは流石に不安である。
「安心してください。これでも俺とヤニアは元夫婦ですよ。こう……なんか、家族の愛的な力で、なんや、上手いことやって解決して見せます」
凄く不安である。
「できるか? アスカちゃん?」
とはいうものの、である。
確かにアスカの父のいう事も分からないではない。しかし不安な気持ちは拭えない。
アスカも魔法少女としての実績がないわけではない。同じ魔法少女のマリエやチカと比べても性格もしっかりしており、その点ではむしろ信用できる方であると言っていい。
スケロクが元々あまり子供にこういった「仕事」をさせるのに抵抗があるという事もあるが、しかし彼が危惧しているのはそれだけではない。
「できるかどうかじゃない。やるんだ」
アスカの肩をポン、と、叩いていい笑顔でそういう彼女の父。
(信用していいんだろうかこの男……)
別に裏切りそうとかそういう話ではない。
最初は真面目一徹で仕事人間みたいなイメージだったのだが、口を開く度にそのイメージが崩れていく。スケロクもあまり人の事が言えた義理ではないのだが、結局彼の評価としてはコミュ障でどこか抜けた男のイメージがこびりついてしまった。
(アスカちゃんよりも親父の方が心配だ……)
「そ、そうだな、先ず……作戦を立てよう」
そう、作戦。計画である。PDCAの中でも最も大事なパートであるとよく言われ、これを完成させれば作戦はもう成功したも同然だ。だから計画を立てたら後はもう誰かに任せて家で昼寝でもしてればいい。
つまりスケロクが完璧な計画を練り上げればあとは白石親子に任せて彼はメイの部屋で昼寝でもしていればいいのだ。
「整いました」
二人がスケロクに注目する。
「まず、二人が鏡の中の世界に入る」
こくりと二人は頷く。先ずそれは作戦の大前提である。
「そして、ヤニアが二人に気を取られている隙に……」
「ん?」
少し雑になった気がする。色々と前提がスッ飛んでいるのだ。全く中の状況を把握していないように思える。
「隙を見てメイがヤニアを殺す」
「ころ……ッ!?」
唐突な言葉にアスカの父は手で顔を覆って首を左右に大きく振った。
「どうした?」
「いや、どうしたもなにも」
言葉に詰まる。何から突っ込めばいいのか。
まず、計画が雑過ぎる。
スケロクがそれだけメイの事を信頼しているという事の裏返しなのかもしれないが、まず、中の状況が分からない。今のシチュエーションから考えて膠着状態に陥っているのは間違いない。
その状況でメイとヤニアが面と向かって対峙しているだろうか。答えはノーだ。その上で二人が姿を現せばヤニアが出てくるというのは希望的観測に過ぎない。
さらにメイがどういう状態なのかも分からないのに隙を見てメイがヤニアを始末するというのもやはり楽観主義的だし、そもそもメイと何の打ち合わせもしていないのにそれを実行しようというのだ。
しかしアスカの父が一番驚いたのはそこではない。
「殺す……?」
仕事一徹に生きてきた父ではあるが、世の中の事を全く知らないわけではない。
いわゆる「魔法少女」がどんなものなのかは知っている。昔であればミンキーモモ、最近はもっぱら日曜朝八時半の戦う魔法少女。
しかしその魔法少女を取り巻く戦いの話の中で出てきた突然の不穏な言葉……「殺す」と。たしかにスケロクは言ったし、アスカもそれに対して何もツッコミを入れなかった。
(そんな殺伐とした世界の話なのか? もっと、こう……敵を改心させたりとか、敵の幹部を仲間にしたりとか……そういう話じゃなかったか?)
納得はいかないものの、しかしアスカの父が選んだ選択肢は「沈黙」であった。
(きっと、若者が勢いに任せて言う意味での「ぶっ殺す」って事だろう)
もっとも考えなければならない事なのに、確認せずにスルーしたのだ。
人は直視したくない危険な問題に対面した時、文字通りそれを「直視しない」ことで問題が解決したつもりになることがある。オーストリッチ症候群という。
ダチョウが命の危機に際して頭だけを砂の中に隠して安全な場所に隠れたつもりになっている状態を指す言葉だが、実際にはダチョウにそんな習性は、ない。