最大のピンチ
要は。
要するにだ。
夫が海外出張になってしまって生後一か月の赤ん坊を一人で面倒を見なければならない。そこに同情の余地はあったとしてもだ。
この女の「男に対する憎悪」は自分が経験したわけでもない、どこぞの「顔も知らない誰か」の経験談、それも言ってみれば真偽の不確かな物によって育まれたというのだ。
「さすがに白石さんが可哀そうになってきたわね……」
メイはもはやこの母親とアスカを会わせない方が良いとすら判断している。
それは十三年前の家を出た時の経緯だけではない。ここまでの屈筋団との全てのやり取りから判断してなんとなく察している「空気」があるのだ。
「あんた……山田アキラと、ヤッてるでしょ」
今度はヤニアが沈黙する番である。
『……今それどうでもよくない?』
よくない。
もし今メイが危惧している通りの背景ならば、屈筋団自体が肥大化したヤニアの自意識を利用して山田アキラの作り出した「遊び場」という事になる。そしてそれに飽きたから奴はそれを放り出したのだ。
『誰と誰がヤッただとか、そんなワイドショーみたいな事さ。中学生じゃないんだから。そんな細かいこと言ってるからあんた結婚できないのよ』
挙句の果てに結婚マウントをかましてくる。言動に一切の一貫性がない。
もはや疑惑は確信に変わっている。ヤニアはフェミニストではない。この女にとってフェミニズムとはただの自己表現に過ぎず、本気で女性の事を考えてなどいない。承認欲求を満たすための「ツール」でしかないのだ。
『私なんてホント若い頃からモテモテなんだから。そう言うのがいざという時にきいてくるんだからね。実際家出した時も結婚前から付き合ってた男の家に泊めて貰えたしさ』
「ちょ、ちょっと待って!?」
聞き捨てならないセリフだった。
今確かにヤニアは「結婚前から付き合っていた彼氏」と言った。てっきりマタニティブルーで不安定になっているところに山田アキラみたいな、女を食い物にする悪い男にちょっかいかけられて阿呆みたいについて行ったのだと思っていたのだが、どうやら事情が違うようだ。
結婚前から、元々別に男がいたのだ。という事は。
「えっ!? ちょっ、ちょっと待って!!」
メイの額からは汗が止まらない。
「……っていうことは、アスカさんって……アスカさんの父親って……」
当然そういう疑問は沸き上がる。
『ガブちゃんのこと?』
どっちでもいい。
『父親がどっちかなんてどうでもよくない?』
どっちでもよくない。
期せずして墓まで持っていかなければならない秘密を握ってしまった。
「うう……やだ……怖い。大人って汚い……」
メイは腰砕けになって地面に膝をつき、コウジに寄りかかった。余り恋愛経験の豊富でないメイにとってこの告白は衝撃であったようだ。
「と、とにかくメイさん、一旦部屋の中に入って休憩しましょう」
コウジは自分よりも一回り体格の大きいメイを背負ってアパートの部屋に戻っていく。しかしながら部屋に入ってもメイの精神が回復することはなく、結局ヤニアを精神的に追い詰めるために切った「アスカ」というカードは手痛い反撃を受けてしまうだけの結果となった。
打つ手の無くなったコウジはメイに現実世界と連絡を取ってスケロク達に相談することを提案したが、スケロクのすぐ隣にはアスカと、その父がいる。
メイは精神的ショックから外界への連絡もできずにその日はそのまま就寝することとなった。
実際外界と連絡を取ったところで有効な手立てなどないのだ。鏡の中の世界にいる限り主導権を持っているのはヤニア。それはよほどの奇策でもない限り動くことはないのである。
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次の日、昼近くの時間になって、ようやくメイはショックから立ち直ることができた。
「醜態をさらしてごめんなさい、コウジさん」
「いえ、僕の方こそ何もできずに」
「もう三日目の昼、日曜もあと少し。なんとしても今日中にヤニアを探し出さないと……」
『のんびりしてるわね、まだそんなこと言ってるの?』
相変わらず緊張感のないヤニアの声。のんびりしているのはどちらなのか。彼女は本当に持久戦に持ち込むつもりなのか。しかしメイとコウジは仕事の始まる月曜日になる前にどうしても決着をつけたい。
『どうせあんたたちの事だから日曜のうちに事を済ませたい、なんて考えてるでしょうけどね。残念だけどもう手遅れよ』
「まだ半日以上……」
しかしコウジの声をヤニアは遮る。
『残念。もう日曜の夜半も過ぎて、日付上は既に月曜日よ』
「なにっ!?」
二人は驚いたものの、しかしすぐにある「可能性」に思い至った。
「まさか……日照時間をずらして……」
『せいか~い!! 昨日やけに日の落ちるのが遅いって感じなかったかしら? 早く寝ちゃったから気付かなかった? あんた達に気付かれないように少しずつ日照時間をずらしてたのよ。今はもう月曜の未明。後数時間で学校も始まるわよ!!』
実を言うと可能性の上では排除はしていなかった。特に昨日スマホの電池が切れてからは実質的に正確な時間を知るすべはなくなっていたのだ。しかしそんな「嫌がらせ」みたいな手段を取ってくるとはまさか思わなかったので検証もしなかった。
『これであんたは無断欠勤よ! 夏のボーナスを楽しみにしてるといいわ!!』
「くぅぅッ!! なんて非道なマネをッ!! ボーナス入ったらテレビのスピーカーにサブウーファー着けようと思ってたのにッ!!」
『ボーナスどころかこのまま無断欠勤が続けば懲戒解雇もありうるわ! 学校に、悪の組織に捕まってました、なんて言えないでしょう? お前を殺すのは悪魔でも悪の組織でもない。この腐った社会よッ!! 魔法少女の天敵は“現実社会”だあッ!!』