ガブちゃん
「が、ガブちゃん?」
思わず聞き返すメイ。ヤニアの娘、白石アスカの話をしていたはずなのだが。ガブちゃんとはなんぞや。
『そうよ、愛天使ちゃん。私の付けた名前よ。あのクソ夫はなんかつまんない名前にして出生届勝手に出しちゃったらしいんだけど、私の中では今でも愛天使ちゃんなのよぉ!!』
思わず俯き、メイとコウジは気まずそうに顔を見合わせる。
やべー女の煮凝りである。
「ガブリエルて……」
「有森〇子の旦那ですか」
「ぷふっ」
コウジの発言にメイは思わず噴き出して顔を押さえる。
「いたわね、そんなのも」
肩を震わせながらスマホを取り出すメイ。
読者の諸氏は覚えていない、もしくは年代的に全く知らない人もいるだろう。元女子マラソンのメダリスト有〇裕子。
そんな彼女が突如結婚を発表した一般人の男性がガブリエル・ウィルソンであった。一般人であるため特筆すべきこともない彼が時の人となったのが「I was gay」発言である。
突如開かれた会見で語る、過去の自分の性癖。号泣する有森〇子。あまりにも意味不明な記者会見に多くの国民が疑問符を浮かべた事だろう。その記憶がメイとコウジの脳裏に浮かんだのだ。
「へぇ、有森さんは元ゲイだったこと知ってたんだって。マスコミが面白がってガブリエルさんの事根掘り葉掘り調べて勝手に報道し始めたから、いずれバレると思って傷口を小さくするためにあんな会見開いたのかあ……」
「マスコミの被害者だったんですね。それであんな意味不明な会見を……」
スマホの画面を見ながらぼそぼそと喋る二人。
「あっ!!」
急にメイが大きな声を上げた。
「スマホの電池切れちゃった!! なんで私有森〇子のWikipediaで貴重なライフラインのバッテリー使いきってんのよ!!」
「Wikipedia調べ始めると止まらなくなりますよね」
これで外界との通信手段は無くなったのである。
メイはぎりぎりと歯を食いしばりながら天を睨みつける。しかし今のはどう考えてもメイが悪い。
だが気が済まない。せめて何かヤニアに一矢報いなければやり切れない。
「娘にキラキラネームつけようとしただけじゃない、私が握ってる情報だとあんた男と逃げたって聞いてるわよ? さんざん男の性欲を嫌悪しておきながら、自分が性欲に負けて子供を捨ててるじゃないの」
『仕事にかまけて生後間もない子供と私を置き去りにして出張しちゃう奴なんて捨てられて当然でしょ。子供を押し付けられる気持ちを教えてやったのよ』
全く悪びれる様子はない。彼女が「正義」なのだ。
メイはちらりと視線だけでコウジの方を見る。
たまたまこういう話の流れになったが、これはチャンスである。上手くいけば彼の子育て観、家庭観を聞き出すチャンスかもしれないと思ったのだ。
「一番ケアの必要な時期に家にいないのは、確かに厳しいですけど……だからって自分も子供を置き去りにするのは……しかも他所の男のところに行くって」
きわめて模範的な回答である。メイは心の中でガッツポーズをとる。
しかし油断してはいけない。そんなもん口では何とでも言えるし、開業医なのか勤務医なのかで家に帰ってこれるかどうかも全く違う。さらに医者は学会などで出張になることも多いのだ。
それは置いておいて。
『自分の事を大切にしてくれる人のところに行くのは当然の事じゃない?』
ヤニアの話はまだ続いている。
しかし話がこれで終わりではない事はメイもよく知っている。なぜなら結局のところ彼女の現状はこの有様。見事なミサンドリストに育ったのだ。おそらくはその逃げた先、男とも上手くいかなかったのだろう。まあこの性格では当然だが。
『ああ、それにしてもガブちゃんが生きてるなんて。きっと可愛い女の子に育ってるでしょうねぇ』
何やら雲行きが怪しくなってきた気がする。
『うふふ、なんだか楽しくなってきたわ。感動の親子の再会ね。ああ、なんだか目頭が熱くなってきたわ。ガブちゃんも感動の再会ですものね、きっと泣いちゃうわね。なんか今から気の利くセリフでも考えておかなきゃね』
異常である。
メイの額に脂汗が浮かぶ。
なんでこの女は物心つく前に自分が捨てて、男と逃げたというのに無条件で自分が受け入れられる気になっているのか。
普通に考えれば自分は「憎まれている」可能性の方が高い。
幼いころに自分を捨てて男と逃げ、この十数年間全く何の音沙汰もなく、さらに話の流れから推察するにその間も娘のことなど全く気にすることなく、生死すら確認していなかった無関心ぶりである。
しかもそれが魔法少女であるアスカの敵の組織の悪の親玉として自分勝手な理屈で世界を滅ぼそうとして現れたのだ。受け入れられるわけがない。憎まれてしかるべき相手である。
しかしこの数日ヤニアと話して、理解できるところもある。
それは勿論彼女の考え方に共感するという意味ではない。
この女の全ての判断基準は基本的に「自分が受け入れるかどうか」なのだ。
「他人が自分を受け入れてくれる」のは当然の事であり、そこに議論の余地はない。もし「自分が受け入れられなかった」場合は「自分に何か問題がある」のではなく「他者の方に何か問題があるに違いない」、そう考えて生きてきたし、もちろん今もそう考えているのだ。
そんなだからこの有様なのだ。
最大限ヤニアに好意的に解釈するとして、ひょっとするとアスカの父親が彼女に暴力を振るっていた、などのやむにやまれぬ事情があったかもしれない。(そんな話一度も出ていないが)
「その……本当に夫が仕事が忙しいってだけで家を出たんですか……?」
果敢に突っ込んでいったのはコウジであった。彼も気になるのだ。本当にそれだけの理由で男とは捨てられてしまう存在なのか、と。
『だけで、ですってぇ!?』
どうやら彼女の心の琴線に触れてしまったようだ。
『あんたねぇ、女がこのヘル日本で一人で生きていくことがどれだけ危険で辛いことなのか分かってるの!?』
しまった、という表情を見せるコウジであったがもう遅い。見えている地雷を踏みぬいてしまった。
『例を挙げればきりがないけど、あれはまだ子供が一か月くらいの時よ。子供を抱っこしているっていうのに、電車に乗っているときに痴漢に触られて……身動きもとれず、子供もいる状態で自分よりはるかに体の大きい相手にそんな暴力を受ける気持ちがあなたに分かる? 痴漢は魂の殺人よ』
「む……」
『魂の殺人』は流石に言い過ぎではあるが、しかし言わんとすることは分かる。コウジもほんの昨日、体格の大きい異性に暴力を受けたところである。しかも幼い子供を抱いた状態でそんな事をされた経験があるのなら、世界に対し絶望する気持ちも分かろうというもの。
『そういうツイートを、私は見たのよ』
「む?」
二人して空を見上げる。
「え、ごめん。どの部分?」
『なにが?』
メイとコウジは顔を見合わせる。いまいちヤニアと会話がかみ合わない。
「いや、その『ツイートで見た』っていうのは」
『ん? 痴漢された、っていうのを見たんだけど?』
「え? ごめんなさい。『子供を抱いてた』のは? だれ?」
『わたし』
「痴漢されたのは?」
『ツイートした人』
沈黙。
しばし情報処理中である。
「そのツイートを?」
『うん』
「子供を抱きながら?」
『ん』
「見てた? 家で」
『ん』
「その間、旦那は?」
『インドネシアで働いてる』
空だけは明るく、まだまだ日の高い時間ではあるが、鏡の中の世界には人の気配がない。そんな静寂の世界で、二人は言葉を失った。