膠着
無音の空間。
異様なほどに静かな自分の部屋でメイは目を覚ました。
小鳥のさえずりもなければ車の走る音も聞こえない。冷蔵庫のモーター音も聞こえなければ風の吹く音すらもない。全く音のない世界とはこんなに不気味な物だったのかと、寝起きでまだよく回らない頭で考える。
「ん、もう8時か」
携帯電話の時計を見て驚く。休みの日とは言えこんなにぐっすりと眠ってしまったのは久しぶりの事だ。
「ぅ……もう朝ですか」
隣で寝ていたコウジも目を覚ます。一つ屋根の下で男女が寝ていたにもかかわらず、着衣の乱れもなく随分と健全な目覚めである。尤もメイの着ている服は魔法少女だが。
「ごめんなさいね、コウジさん。顔を洗いたいでしょうけど、水が出ないのよ」
それは既に昨日のうちに確認済みの事である。水道も来ていなければ電気もない。この『鏡の中の世界』は完全にガワだけなのだ。携帯の電波は入るのだが。
そして水が出ないという事は、当然水分補給もできないのだが。メイは洗面所やキッチンをしばらくうろうろしてからコウジに声をかけた。
「コウジさん、お腹すいてない?」
言われてコウジは自分の腹を押さえる。
「すいて……ない」
そしてよくよく考えてみれば尿意もない。これはメイも同じである。
疲労感は回復しているものの、生理的欲求が全くないのだ。
「ヤニアもおはよう。そろそろ私たち二人をここから出してくれる気になったかしら?」
『ハッ、誰が! あんたたち二人はこの世界でこのまま私の養分になるのよ』
すぐに脳内に響く声で回答があった。
『あんたは刺客さえ倒してればいいと思ってるみたいだけれどね、ここにいるだけで少しずつあなた達の魔力は吸い取られていっているのよ。時間はかかるけどいずれ搾りかすになってもらうわ』
とは言うものの、具体的にいつ頃『搾りかす』になるのかは提示されなかった。不確定要素があるのか、焦らせるためのただのハッタリなのか。
「とにかく」
メイはスッと立ち上がり、コウジの手を引いて彼も立たせる。
「今日はこの世界を探索しましょう。ヤニアを見つけ出してボコボコにするわ」
『できるものならね。自分達が罠に嵌まっているとも知らずに、無駄な時間を過ごすといいわ』
もはやヤニアはメイを説得することは完全に諦めて挑発するのみである。メイはしばらく特に何も言わずに天井を見つめていたが、それ以上ヤニアからの反応がないと判断すると諦めて屋外に出て行った。何かしら反応があれば彼女がいる場所のヒントに繋がるかもしれないと思ったのだろう。
拭えない違和感。彼女のいう事が真実ならば、たしかにこのまま時間稼ぎをし続けても魔力は溜まる。しかしそんな消極的な作戦を組織のボスともあろうものが取るだろうか。
いまいち釈然としないながらも、メイはコウジを連れ立って外に探索に出た。
――――――――――――――――
「私のお父さんが意外にアレな人だったのは置いとくとして」
「そんなにアレかな、俺」
一方同時刻、同じ部屋にいた現実世界のスケロク達である。
「私達に結局何ができるんでしょう」
スケロクは顎をさすって少し考えこむ。
「現状では、多分何もない」
ダメならダメで冷静に現状を整理することも必要な行為である。
「こちらから向こうの世界に干渉できることが何もないからな。出来ればモバイルバッテリーとかおにぎりでも届けてやりてえが、それすらやり方が分からないからな。今できるのはここで待機して、向こうから何かアクションがあれば対応する事だ」
ただ、「待つ」……それしかできることがないのだ。
(アスカがヤニアの娘なのは、こちらにとって何か重要な『カード』になるかもしれない)
それは、口に出すことはしなかった。
母親との思わぬ再会でアスカがナーバスになっているかもしれないことは容易に予測できたし、何より子供を利用するのは彼の主義に反する。カードを切るにしてもできれば最後の最後にはしたい。
「まっ、ゆっくり待とうぜ」
そう言ってスケロクはここに来る途中にコンビニで買ってきた菓子やペットボトルを広げた。
「もし言えるなら、ヤニアってのが元々どんな女だったのか教えてくれねえか? アスカちゃんも興味あるだろう?」
「ヤニアか……」
アスカの父は遠い目をして天井を見上げる。
「何を思ってそんな名前を名乗ってるのかは知らないけど、ある意味では彼女らしくもあるかもな……」
「そんなイタい奴だったのか?」
アスカに気を使っているようでもこの男の本質は基本的に「不躾」である。娘の目の前だというのにヤニアの評価に遠慮がない。
「元々……いや、本名は鏡子っていってな……」
――――――――――――――――
「大漁ね」
「本当に」
メイのアパートの外の通路にどさりと死体が積みあがる。
メイが仕留めた彼女の「コピー」である。ここに入って来たばかりの時に襲撃してきた一体、次にコウジと接触した時に現れた一体、さらに外の探索中に二体ほど襲い掛かってきたものが追加され、現在四体が積みあがっており、ちょっとした死体置き場となっている。
見つけたのはそれだけではなかった。付近の建物の中に二体の白骨化した遺体。
これはアンデッドみたいなモンスターではなく、完全にただの死体だったので、おそらくはメイ達のように過去にこの世界に引き込まれて魔力を吸いつくされた人間だろう。
「いまいちヤル気が感じられないわね」
『だってぇ、あなた強いんだもん。正面から戦っても魔力の無駄遣いね』
投げやりなヤニアの返答。
一応刺客を送っては来ているものの、散発的に適当に襲わせるだけで戦略も戦術もない。少なくともメイにはそうとしか映らなかった。
まさか本当に持久戦に持ち込むつもりなのか。この世界にいるだけで少しずつ魔力は吸収されているとは言っていたものの、しかし既に一日弱いても二人とも体に異常はない。水や食料を必要としないこの世界で衰弱させるには相当時間がかかるはずだ。
メイはスカートの内側にある小さいポケットの中に入れてある小さな紙片の事を思い出す。
奴が何か戦略的に狙っていることがあるとすれば、おそらくは山田アキラから手に入れた『往復チケット』だ。
チケットには『一回分』、『往復』と書いてある。これに間違いがなければ、おそらくは「あと一回」「一人だけ」鏡の世界から外へ出ることができる。一度に複数人が使用できる可能性もあるが、チケットに書かれていない事に期待することは出来ない。
つまり、あまりにも動きがないことに焦れて、メイがチケットを使ってしまうのを待っているのではないかという事だ。
ヤニアは「この世界にいる私」と過去に発言していた。
つまりメイが外の世界に出さえすれば、もう一度チケットを手に入れない限り、邪魔者の排除に成功して次の作戦に移れるのだ。実質的勝利である。
「ふぅ……」
メイは脱力して深呼吸をする。
そうか。
そういう事ならば。
こちらも「切り札」を切るしかあるまい。
「自分は普通に結婚して子供作ってるくせに、革命だ理想の世界だと、白々しいことこの上ないわね」
『フン、私は過去を捨てた女よ。そんな昔の話、覚えてないわね』
メイはにやりと笑みを見せる。
「そうかしら? あなたのお嬢さん、白石アスカさんの身柄は私達が押さえてると言っても?」
『えっ!?』
明らかな動揺の色。
『ガブちゃんが生きてるの!?』