アレな人
「簡単に言えばメイは今、鏡の中の世界に引きずり込まれて戻れない状態だ。それ以上の事はほとんど分からん」
「ここ、勝手に集合場所にして良かったんですか?」
持ち主のいなくなったメイの家のリビング。そこへ車座になって座る三人。スケロクと白石アスカ。そして彼女の父親である。
「まあここが一番現場に近いみてえだしな……洗面所行けばメイも見えるぜ」
「ええ……?」
気になったアスカは立ち上がって洗面所に確認しに行った。洗面所からは「あ、おはようございます」と、アスカの声が聞こえた。声は向こうの世界には届かないのだが、律儀な少女である。
彼女の背中を見送ってからアスカの父がスケロクに尋ねる。
「あの、メイってもしかして、去年アスカの担任だった葛葉先生で?」
家庭を顧みない父親だと思われていたが、どうやら娘の担任の名前は把握していたようである。スケロクが肯定すると彼はそのまま質問を続けた。
「まず……色々聞きたいんですが」
とはいうものの言葉に詰まってしまう。「何から聞いたらいいのか」が分からないのだ。意外にもそれを察してスケロクの方から声をかける。
「まず、メイは魔法熟……少女だ」
しかし「配慮」というものがない。予備知識のない状態でいきなり魔法少女だ鏡の世界だと言われてもアスカの父は困惑するばかりである。
「あんたの娘も魔法少女だ」
「!?」
配慮というものが一切ない。
「あんたももしかしたら魔法少女かもしれない」
あくまで可能性の話ではあるが有村親子の例がある。アスカに魔法少女の才能があるのなら、その父親にも魔法少女の素質があるかもしれない。
しれないが、唐突にそんなこと言われてもアスカの父は全くリアクションを返せない。
「そんでどうやら魔力の素質があるやつを敵が鏡の中に引きずり込もうとしてるらしい」
片手で顔を覆うアスカの父。
「とても……理解の範疇を超えていて……」
そりゃそうである。具体的に彼は何か怪異を直接見たわけではない。傍から見ればスケロクは夜中に中学生の娘を連れまわしていた怪しい男でしかない。
「先生を鏡の中の世界に引きずり込んだのは私の母親、ヤニアよ」
言葉を発したのは洗面所から戻ってきたアスカだった。
ここ十年近くは口にすら出していなかった彼女の親の存在。それを唐突に娘が口にしたのだ。
「ヤニアなんて名前じゃなかったと思うけどなぜ急にそんな話を!?」
「ある人……猫……人物から聞いたのよ。屈筋団のボスは私の母親だって」
ここで「猫から聞いた」とか言い出せばまた話が複雑になる。クレバーな判断といえよう。
「お父さん……私の記憶が確かなら、『お母さんは死んだ』って聞いたと思ってたけど……」
まだ物心ついたばかりの頃。
確かに父から聞いた話。
その時の言葉を発した父の辛そうな表情だけは今もはっきりと覚えている。言葉の内容よりもだ。
今となっては自分の勘違いなのか夢の中での出来事だったのか、はっきりとは覚えてはいない。しかしアスカはそれを父に聞いた。
すると、やはり記憶の中にあったのと同じように父は苦しそうな表情を浮かべた。それこそが過去の記憶が現実であり、そして実際にはアスカの母や生きていることを雄弁に物語っていたのだ。
「誰に……それを……」
ストーカーから聞いたのだ。
「ヤニアなんて名前じゃないけど」
顔を逸らして応える父の正面に回り、アスカは真っ直ぐに問いかける。
「教えて、お父さん。お父さんとお母さんの間にいったい何があったの? なんで『死んだ』なんて嘘をついたの?」
問いかけられて一旦は視線を合わせた父であったが、またすぐに視線を伏せる。
「そんな大した話じゃない。どこにでもよくある話だ。俺がだらしないばっかりに、女房に逃げられたってだけの話だ」
十数年前の記憶。父は天井を見上げて、もう思い出すこともないであろうと思っていた記憶を掘り返す。
「お前が生まれてほんの一か月くらいだったか……俺はすぐに半年のインドネシア出張になってな。その後、帰国しても夜遅くまで仕事する日が続いて、とうとう愛想つかされて逃げられた、ってだけの単純な話だ。複雑な事情があったわけじゃない」
アスカは真っ直ぐに父の顔を見つめる。
要は今と同じなのだ。仕事にかまけて家庭を疎かにした。結局のところこの父親はその頃と何も変わってはいないという事なのだ。
だが同時に母親に対しても無条件に肯定するわけではない。
まだ幼かった自分を置き去りにしているのだろうし、何よりマリエの情報では『男と逃げた』はずである。今聞いた話とは微妙に食い違う。
マリエの情報が間違っているのか、それともあまり子供にそんな生々しい話をしたくないのか。
「とにかくだぜ」
スケロクが間に割って入った。まだ隠し事をしているようなところを見せる父に対してアスカが怒りの表情を見せたのを感じ取ったのかもしれない。
「今のところはヤニアもメイも動きがないから何もやりようがないってところだ。暫くはここを拠点にしてメイからの連絡に備えようと思うがな。スマホの充電もいつまでももたないだろうし」
「私もここにいます。メイ先生が戻るまでは……」
「ま、待て、学校はどうする気なんだ?」
これに焦りを見せたのはアスカの父であった。異常事態が起きているのは分かるのであるが、しかしまだ義務教育の年齢である。父親としては学業を優先してほしいという事だろう。
「学校の勉強なんて社会に出て何の役にも立たないわ。三角関数ができたからって何になるって……」
「ま、待て! 待て」
鼻梁をつまみ、渋い表情をしながら父がアスカを止めた。
「こう……違うんだ。お前は社会ってものをよく分かっていない。何かをやらないことは選択肢を狭めることにはなっても広げることにはならないんだ」
話しながら少し考え、そしてアスカの目をはっきりと見て口を開く。今までのような自信の無さげな表情ではない。
「たとえば……たとえばだ。お父さんに部下が二人いて、片方が三角関数のできない人間、片方があいさつの出来ない人間だったとしよう。もし上司からどちらか切れと言われれば」
「そ、それは……いい年してあいさつの出来ない人間なんて組織に居ても……」
「違う。お前は分かっていない」
これが先ほどまで娘の一挙一動に戦々恐々としていた情けない男の姿なのか、と思えるほどに力強いまなざしだ。
「俺なら間違いなく三角関数ができない方を切る」
「そ、そういうもんなのか?」
この言葉には同じ社会人であるスケロクも疑問を呈した。
「ぶっちゃけて言えば、エンジニアやってると、挨拶できない人間なんて、割とよくいる」
「い……いい年して?」
「いい年して、だ。そして三角関数のできない人間は、いない」
あまりの気迫にアスカとスケロクが気圧されている。力強く断言するアスカの父に、二人は半信半疑の状態である。
「その証拠に」
アスカの父は親指で自分をビッと指差した。
「この俺が、そうだ」
「ええ……?」
ドン引きである。
「出張先のホテルで朝食バイキングの時にたまたま居合わせた副社長の挨拶を無視して、当時結構問題になった」
「問題になってるじゃん」
「だが現実として、その副社長はもう退任したし、俺は課長になった!」
「ええええ……」
二人ともデッサンが狂ったような表情をしている。彼女の父は、こんな人間だったのか。
「そもそも会社にいない時にプライベートで声かけられても、顔覚えてないから誰だか分からないし」
「副社長の顔くらい覚えてよ……」
「急に声かけられるとパニックになって挨拶を返すなんて高度な事できないんだよ! お父さんは!!」
彼の異様な熱気と、それに対する二人の寒気さえ覚えるほどの恐怖心と呆れの空気が部屋を支配していた。
「アスカちゃん……君のお父さん、結構アレな人なんでは?」