ジェスチャーゲーム
「メイ先生……」
妙だ。
玄関の鍵が開いている。
逡巡したものの、白石アスカはゆっくりとドアを開けて1DKのメイのアパートの部屋の中に入っていく。令和の世には珍しい木造アパート。平成どころか昭和の時代に建てられた年代物の集合住宅である。この地方都市の地価ではこの建物だと月の賃貸額は四万を切ることも珍しくない。
とにかくそんな少し時代遅れの、女性が一人暮らしをするには随分とセキュリティに不安の残る建物がメイの住んでいる場所なのだが。
アスカ自身は以前にメイの正体を確かめるためにここまで尾行してきたことがあった。あの時は級友の赤塚マリエ、青木チカと一緒に、三人であったが、しかし今回は一人。
どうしてもメイに相談したいことがあったのだ。頼れる学校の先生として、そして魔法少女の先輩として。
彼女は学校の生徒とは完全に一線を引いて互いに相手の領分に踏み込まないようなドライなところがあったので、先生として相談に取りあってくれるかどうかは分からなかった。しかし事はそう簡単な話ではない。これは「魔法少女」としての彼女にも関係のある話なのだから、と思ってここまで来たのであったが。
しかしどうも妙だ。
いくらオンボロでセキュリティのなっていないアパートだとはいってもいくら何でも鍵を掛けられないなどという事はあり得ないし、最強の魔法少女だからと言っても独身女性の一人暮らしなのに部屋に鍵すら掛けないなどという事もあり得ない。
此れは一体如何なることなのか、すわ緊急事態かと思い、アスカは急いで室内に入っていく。
室内は「探索」するほどの広さはない。所詮は1DKの貧乏アパートである。ドアを開けて室内に入ればほぼ部屋の全貌を知ることとなる。
果たして洋室にもダイニングキッチンにもメイの姿はなかった。ではどこに? まさか鍵をかけ忘れてコンビニにでも行っているのか? アスカは既に暗くなっているアパートの外に思いをはせたが、しかしもう一つ確認していない場所があることに気付いた。
トイレと風呂が一緒になっているユニットバスだ。
あまり主人がいないからと言って他人の家を探索するのも少し気が引けたが、しかし彼女たちが今敵対しているもの、悪魔たちの事を考えれば、もしかするともしかするかもしれない。閉じられているそのドアの向こうで今まさに彼女に危機が訪れている可能性もあるのだ。
アスカは意を決して浴室のドアを開ける。
そこにもやはり誰もいなかったのだが、しかし一つ妙な事、いや、普通で言えばあり得ないことが起きていたのだ。
そこにはやはりメイはいなかったのだが、浴室の鏡にはメイの姿がしっかりと映っていた。しかもいつもの魔法少女の衣装に身を包んだ彼女の姿がだ。
「こ……これはいったいどういう……?」
全く状況がよく分からない。鏡にはメイが映っているのだが、現実にメイはそこにはいないのだ。
「メイ先生、メイ先生、いったい何が!?」
鏡に駆け寄って声をかけるアスカであるが、しかし声が届いていないのかメイは答えない。それどころか洗面台に両手をついて項垂れており、どうやらアスカにも気づいていないようである。
「メイ先生!! 何があったんですか!?」
バンバンと鏡を叩いているとようやくメイは気づいたようで、洗面台に両手をついたまま顔を上げてアスカの方を見た。
どうやら彼女の方からもアスカが見えているようではあるのだが、しかし何やら口をパクパクと開けているだけで音が聞こえてこない。
アスカの方から語り掛けてもやはりメイがそれに反応することもない。
やがてしばらくやり取りしているとようやく互いに音が届いていないという事が分かったようであった。
「メイ先生……いったい何があったんですか!?」
アスカが口を開くとメイはアスカの方を指差し、次に左手で筒のような形を作って、そこに右手の指を入れた。
「え? 私? 私が何か?」
アスカが少し焦って自分を指差すが、メイはフルフルと首を横に振る。次に彼女はやはりアスカの方を指差したが、今度は鏡の四隅を囲むように順番に指を動かした。
「え? 四角? いや、違うな……あ! そうか鏡! 鏡だ!!」
アスカは「か・が・み」と大きくゆっくりと口を動かすとメイはこくこくと首を縦に振った。次にさっきと同じく左手を筒状にしてそこに指を入れる。
「えっとぉ……なんだろこれ? エロいジェスチャーじゃないですよね? ……なんで私こんなことやってんだろう」
金曜の夜、突如として始まったジェスチャーゲーム。しかも答えを言ってもどちら側にも音声が届かないので合っているのかどうかも分かりづらい。
しばらくアスカは難しい顔をしてからポン、と手を叩く。
「あ! そうか! 鏡、から続くから、鏡の中!! 鏡の中に入っちゃった!!」
アスカはそう言ってからさっきと同じように大きく口を開けて「か・が・み」と言ってから、しかし伝える方法がないのでメイと同じように手のひらの中に指を包み込むようなジェスチャーをする。
正直言ってほとんど同じジェスチャーなので伝わったのかどうか非常に怪しかったが、なんとなく「雰囲気」で「合っている」と判断したのか、喜びの表情を見せてこくこくと頷いてアスカの方を指差した。
会話が成り立っているのかどうかは、誰にも分からない。
「というか鏡の中に入ったのは見りゃ分かりますよ!!」
ドン、とツッコミを入れながら洗面台をアスカが叩く。
「あ、ヤベ……」
叩いた瞬間みしりと音がした気がした。洗面台も大分古いつくりである。あんまり乱暴に扱って壊してしまったら敷金が返ってこなくなる。
アスカの剣幕に少し驚いて身を引いた後、再びメイは懲りずにジェスチャゲームを始めた。
「ええと……今度は何です……? んん……三角? んで、次は四角?」
今度は全く分からない。メイは頭の上に両手で三角の形を作ってから、今度は手で四角を作ってから真ん中に十字を切った。
実は彼女がチケットを手に入れた山田アキラの「山」と「田」を現したかったのだが、さすがにハードルが高すぎる。アスカはこの「鏡の世界」の件に彼が関わっているなど全く知らないのだから。
「はあ……もう無理だ。時間の無駄ですよこんなの」
賢明な判断である。
「私、誰か助けを呼んできます」
そう言ってアスカは親指で外を指差す。とりあえずこの場を離れるというジェスチャーである。
しかしメイが慌てて両手のひらを見せて彼女に「待つ」ようにジェスチャーをする。
「今度は何ですか……?」
若干疲れた表情のアスカ。難解なジェスチャーゲームの再開である。
「ええと、四角? 箱? 指さしてるのは……部屋の方ですか? どっかの引き出しに何かあるんですか?」
聞き返したところで当然答えは返ってこないし、そもそもこちらの声も届いていない。
「あ、ええと……穴に何か突っ込んで……ひねる……あ! もしかして鍵!?」
メイがぶんぶんと頭を縦に振る。
「っていうか、もしかして『出てくなら部屋の鍵をかけて』ってことですか!? 今更そんなの気にしてどうすんだ!!」