裏切り
「それで、わざわざこんなところに呼び出して、何のご用かな?」
放課後の聖一色中学校。
もうすぐ日も沈むころ、校庭で汗を流している生徒達もそろそろ後片付けを始めるという時間である。
一年生の教室では二人の男女が向かい合って生徒の椅子に着席していた。
一人は長身で体格も良い女性、葛葉メイ。もう一人は女性よりも少し背が低く、線の細い男性、山田アキラ。いずれもこの学校の教師である。
余裕の笑みを見せるアキラに対し、メイは相変わらずの無表情で、感情が読み取れない。怒っているようにも見えれば、何の感慨もなくアキラの顔を眺めているだけのようにも見える。
「生徒を巻き込むな。私から言いたいことはそれだけよ」
なんとも簡潔な言い分である。アキラがそれを鼻で笑うとメイはさらに言葉を続ける。
「あんたの事は昔っから気に入らないし、本当に気持ち悪い男だと思う。正直なんでこんなのと同棲してたのかって今思い出そうとしても自分が理解できないわ」
「改めて言われなくても知ってるよ。傷つくなあ」
「でもあんたが罪を犯してることを立証できないなら、あんたが生きる権利も、学校の教師を続けることも私は保証する。……ただ、」
メイはポケットからメリケンサックを出し、それを指にはめて窓の方にかざした。夕焼けの美しい赤がメリケンサックのニッケルめっきに反射してきらきらと光る。
「生徒に手を出すなら、殺す」
「落ち着いて」
目つきに殺意をにじませるメイに対し、相変わらず余裕の笑みを見せているアキラ。おそらくは元々の彼女の性格も把握しているからこそ、堂々と目の前に正体を明かした状態でも平気だったのだろう。
「正直言うと、俺はもう屈筋団は見限ろうと思ってる。君の勝ちだよ、メイ」
アキラは立ち上がり、メイのすぐ隣を歩き回りながらゆっくりと話す。
「だから俺達はもう敵同士じゃない。仲良くしようじゃないか」
そう言って彼はメイの肩にポンと手を置いて顔を寄せた。吐息がかかるほどに耳に口を近づけて話し続ける。
「仲良くしようじゃないか。昔みたいに」
「汚い手で触るな」
メイはその手を払うが、しかしアキラはそれでも話を止めない。
「おっと、言動に気をつけろよ。俺は性的マイノリティ様だ。メイ、まさか君は俺を差別するつもりなのか? このレイシストめ」
そう言いながらアキラはメイの後ろから、口は左耳に接するほどに近づいて話し、右手は強く彼女の乳房を鷲掴みにし、逃げられないように囲い込む。
「仲よくしようって言ってるんだ。もし君にそれができないなら、君が差別主義者で、バイセクシャルの俺を差別しているからだ。そうじゃないという事を証明したいんなら、おとなしく俺に抱かれるんだな」
しかしメイは全く表情を変えずに彼の右手首を強く掴んで胸から引き剥がした。
「私にそんなくだらない詭弁が通用するとでも?」
みしみしと手首の骨が悲鳴を上げる。人間の、それも女性の握力ではありえない事だが、このまま万力のように手首の骨を粉砕しそうな力に、アキラの額には脂汗が滲む。
「し……知ってるさ」
焦燥の表情を滲ませ、アキラは慌てて腕を引っ込めると、メイも素直に手首を放した。
基本的には原理原則を重んじる女ではあるが、しかしいざとなればシンプルな問題の解決を望み、それを達成するためには暴力も辞さない。
ましてやそれが「綺麗事」を並べた同調圧力のような物なら、意地でもそれに屈することはない。
彼女の妥協のない生き方と決して曲がらない強さは、アキラ自身よく知るところでもある。
「『知ってる』……どういうつもり?」
問いかけるメイの表情には相変わらず感情は見えない。しかし見えないからこそ深い怒りを感じる。
「ちょ、ちょっとふざけただけさ。『仲良くしたい』ってのは文字通りの意味だ。俺は君ともう敵対する気はない。この戦いを下りる」
「私がそんな言葉を信用するとでも?」
メイは立ち上がり、アキラの首を鷲掴みにして仰向けに学生机の上に押し付ける。アキラがメイの胸を揉んだ時のような『やさしい』力ではない。そのまま喉仏を粉砕してしまいそうな力の脈動を感じる。
「ヤ……ヤニアの居場所を教える……屈筋団のボスだ。俺はもうあいつについていくつもりはない」
一瞬メイの力が弱まったが、しかし一瞬の事。またぎりぎりと彼の喉を締め上げる。
「裏切り者の言葉なんて信用に値しないわ。それにあんたに聞かなくても私は独力で奴を見つけ出して始末する」
「ま、待て、奴は通常の手段ではたどり着けない場所に引きこもってる……俺の協力がないと見つけられん……」
そこまで聞いてようやくメイはアキラの首から手を放した。アキラは机の上から床に倒れ込み、激しく咳き込む。
「ごほっ、ごほっ……相変わらずのバカ力め……」
「どういう事? 本気で裏切るつもりなの?」
「せっかく安定した職に就いたんだ。俺はこのまま静かに人生を送る。あんなアホ女にはついていけん」
メイは訝しげな表情でアキラを見る。
彼の事を信じたわけでは、当然、ない。しかしもし彼の言う事が確かで、どうしてもヤニアのいる場所に辿り着けないのであれば、ここから先メイは一方的に攻撃されるだけの不利な戦いを強いられることになる。
「奴は鏡の中の世界にいる」
「ふぅん……」
唐突なファンタジー設定が出てきたが、メイは腕組みをしたまま動じず、まだ床に跪いて肩で息をしているアキラを見下ろす。
「驚かないんだな」
「何年魔法少女やってると思ってるのよ。鏡の中の世界に入るのもこれで三回目よ」
「マジか……じゃあこれの存在も知ってるのか?」
そう言いながらアキラが取り出したのは小さな厚紙の紙きれのような物だった。その紙きれにはどうやらミシン目が入っていたようでぴりぴりと一番下の部分を2センチ×5センチほどの紙片に千切ってメイに渡す。
「何これ……初めて見るわ」
ようやく息が整ったのか、アキラは軽く咳き込んでから立ち上がる。
「お前が知ってる『鏡の中の世界』とはちがうもんなのか?」
小さな紙片には「往復」「一回分」と書かれている。意味が分からずに首を傾げているメイにアキラは余裕の笑みを取り戻して説明を始める。
「ソイツは『鏡の中の世界』に入るための『許可証』……往復チケットだ。それを持ってる者だけが『鏡の中の世界』の主の許可を受けたとして任意の鏡から中に入ることができる」
「ふぅん、こんなもんでねぇ……」
メイはしばらくチケットを眺めていたが怪しいところがないと判断すると財布の中に入れて懐にしまった。
「だが、たとえそれで中に入れても、お前にヤニアが殺せるかな?」
不敵な表情のアキラ。どういうことかとメイが尋ねると、彼は全く隠すことなく真実をメイに話す。
「ヤニアは白石アスカの母親だ。生徒思いのお前に奴が殺せるか?」
「ヤニアが……白石さんの母親……?」
目を見開いてアキラに聞き返すメイ。さすがに動揺を隠しきれていないようだ。
「白石さんのお母さんって外人なの……?」
「そういう話じゃない」