孤独の城
「ふぅ……」
静かな部屋に小さくアスカのため息が響いた。
四月になって段々と陽が落ちるのも遅くなってきた夕方のリビングルーム。
電気もつけずに薄暗い自宅の部屋の中で、白石アスカは何をするでもなく居間のテーブルでコップに注いだ牛乳をこくりと飲み込む。
一人で暮らすにはその家はあまりにも大きすぎるし、静かすぎる。かといって用もないのにテレビをつける気にはなんとなくなれず、ただ静かに、孤独を噛み締めるように静寂の中に身を置く。
とはいえ実際には彼女は一人でこの家に住んでいるわけではない。
父親と二人暮らしなのではあるが、彼が家に帰ってくるのはもっと遅い時間。早ければ九時、遅ければ日付を超えることも珍しくないこの家では、実質彼女がたった一人のこの城の主なのだ。
「お母さんが……生きてるって……?」
先日彼女の親友が言った言葉を反芻してみる。
口にはしてみたが、あまりに現実感のない言葉だった。
小さい頃から父からは「死んだ」と聞かされていて、それが当たり前のように受け入れていた事が、全て噓だった。赤塚マリエがどうやってその情報を手に入れたのかは想像するべくもないが、しかし彼女にとってはそれよりなによりまずその事実自体が受け入れ難い。
その言葉を聞いて彼女がまず思ったのは「何故そんなことに」だとか「母親に会いたい」だとかいう気持ちよりまず「子供をナメてるのか」という思いだった。
黙っていればバレないと思ったのか。面倒な話を子供にするのが億劫だったのか。とにかくその父の行動はアスカにとっては好まざるものだったらしい。
確かに自分は他の家庭と比べて裕福な暮らしをさせて貰っているという自覚はある。今暮らしている一軒家が土地込みでどのくらいの価格になるのかはなんとなく、ふんわりとだが知ってはいる。父親の年収がどのくらいかは知らないが、しかし一般的に何年くらいのローンを組むかくらいは知っている。
だがそれでも、金さえ出していれば親なのかと、それだけですべての責任を果たしているつもりなのかと、仕方ないとは分かっていても静かな怒りが沸き上がってくるのを止められなかった。
「何をイライラしてるニャ」
自分の中のモヤモヤとした気持ちを処理できずにコップの中の牛乳を覗いていると、不意に甲高い声がかけられ、それと同時にアスカは自分が「イライラしている」のだと自覚した。
「フェリア……別にイライラなんかしてないわ」
どこから入って来たのか、いつから入り込んでいたのか。話しかけてきたのはかつてキリエが魔法少女として活躍していた時のマスコット、黒猫のフェリアだった。
ルビィ亡き後、今は折に触れて彼女たちのサポートを買って出てくれている。
「アスカのお母さんが今何してるか知りたいかニャ?」
それも気になる。気にはなるのだが、今現在彼女の優先度としては低い。何故ならばアスカからしてみれば所詮は会ったこともない他人。何故家族を捨てて家を出たのか、好奇心はくすぐられるものの、しかし実を言うと、今のところそこまでの興味はない。
「じゃあ、お父さんにイラついてるのかニャ?」
自分の感情すら測りかねている彼女にとって、この言葉は一番腑に落ちるようであった。
フェリアの言葉を借りることでようやく自分の感情にラベルを貼り、それを再認識することができたのだ。
そうだ、自分は今父親に対して怒っているのだと。
「家族の事で、自分は当事者なのに蚊帳の外扱い……蚊帳って分かるかニャ? 今時どこの家にもエアコンあるから蚊帳なんて使わないニャ。でもアフリカ辺りだとマラリア対策として日本製の蚊帳が」
「今何の話してるのフェリア」
「すまん、思考がそれたニャ。人間の言葉が喋れると言っても所詮は猫。暖かい目で見て欲しいニャ」
こほん、と咳払いをしてフェリアは佇まいを直しているつもりなのか、ぺろぺろと手を舐めて顔を洗う。
「悔しくないかニャ?」
フェリアは顔を寄せ、吐息がかかるほどの近くでアスカに語り掛ける。アスカはその問いかけには答えなかった。
「『子供だから』って理由で自分の親の事すら教えて貰えない。そもそも父親は金だけ出して後は知らんぷり、こんなの親としての責任を果たしてるとは言えないニャ。そのくせ都合の悪いことは『子供だから』教えて貰えニャい。自分は大人としての責任から逃げてるくせに子供には口を突っ込ませない。子供は親に都合のいい人形じゃないニャ」
何を考えているのか、アスカは相変わらずじっとコップの中を見つめていて、返事はしない。
「メイが出てきて以来魔法少女としての立場も微妙ニャ。大人が出てきたら子供の出る幕はないニャ。見返してやりたいとは思わないかニャ」
「なにが目的なの?」
尋ねながら、アスカはそっとフェリアの背を撫でる。状況から考えればこの間と同じように思念体を家から飛ばしているのかもしれないが、触った感触はまるでそこにいるかのようで、艶やかで柔らかい毛は撫でていると気持ちが落ち着く。
「メイみたいなババアが出てきてるようじゃもうこの業界先細りニャ。後進を育てていかニャいと魔法少女という文化自体が断絶しかねないニャ」
アスカは少し冷めた目でフェリアを見る。自分だって人間に換算すると百歳に迫る老境のくせにそこに首を挟んできているのだから当然だ。
そもそも、フェリアのこの行動はどこに根拠を持つのか。まさか本当に魔法少女のマスコットは人間社会に奉仕するために全てを賭けているのだろうか、そこがアスカには信じられなかった。
彼女自身を動かしているのは魔法少女の「プレミア感」他にもいろいろとあるが突き詰めるとその一点だった。
自分は凡百な人間とは違う。物語の主人公となる特別な人間なんだ。
そんな、ややもすると中二病的な「特別感」から身を戦いに投じていたのだ。それはただ「なんとなく」やっているだけではなく、彼女の場合は社会の歯車となって身を粉にして働いている父親への反発でもあった。
自分はあんなのとは違う。
どこにでもいる「替えの利く」部品とは違う。
あんな、死んだように生きている大人にはなりたくない。
そんな気持ちが、心の奥底にあった。
「具体的にどうしろっていうの?」
しかしアスカは慎重な性格である。気分が高揚しただけで敵に突っ込んでいくような愚かさはない。
「屈筋団のボスを止められるのはアスカだけニャ」
「どういうこと?」
アスカが尋ねるとフェリアは満足そうな笑みを見せ、後ろ足で首元を掻く。随分ともったいぶった態度である。一方のアスカの方は焦れてしまってるのか、前のめりになっている。
フェリアはテーブルの上をうろうろと歩き回って、アスカから少し距離を取ってから口を開いた。
「屈筋団のボス、ヤニアは……」
すとんとテーブルの上に腰を下ろす。
「アスカの母親だニャ」