尿を追って
「さて、どうしたもんかしらね」
思案のしどころである。もう少し時間が経てば工場に入ってきている夕日も落ち、完全な暗闇がやってくるのだが、しかしなんとも迂闊に行動をとるのが難しくなってきた。
この建物の上階にユキは確かに囚われているはず。
そして堂々と誘拐犯のキムリカがメイ達の前に姿を現して宣戦布告をしたのだが……
しかしキムリカは「何か」をした直後、急に怯えだして失禁しながら上階に逃げて行ってしまった。
「あの水晶みたいなのを砕いたのが何らかの能力の発現の合図だったとは思うんだけどね……」
キリエが何とも腑に落ちない表情でそう呟くが、しかし結局メイ達には何も起きていないようにしか見えないので何ともしようがないのだ。
キムリカの能力の正体はいったい何なのか。一つはドッペルゲンガーらしいが、もう一つはキリエの「尋問」でもアキラから聞き出すことは出来なかったので分からない。
「急に態度が豹変してましたし、二重人格とかじゃないんですか……? 確かベルガイストもそんなようなこと言ってませんでしたっけ? ドッペルゲンガーがどうのこうのとか」
アスカの言う通り確かにキリエの聞きだした情報の中にはそんなものがあったのだが、しかしキムリカは見た感じドッペルゲンガーを出してはいないし、そもそも人格があそこまで違うのではドッペルゲンガーでも何でもない。それこそただの二重人格だ。
「どっちにしろ……追いかけるしかない気がするわね」
「危険ですよ。罠かも……」
チカがメイを引き留める。しかし虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言う。ここで待っていても何も進まないのだ。
「もしかしたら、上階に何が罠が仕掛けてあって、そこに誘い込むために怯えた演技をしていたのかも」
「演技で失禁までするかしら……?」
確かにメイの言う通りでもある。
演技だとしたら、あまりにも過剰なのだ。ドリフ世代だってあんなオーバーリアクションはしない。
「とにかく、慎重に進むしかないんじゃない? あんまり時間かけて、ユキ君に何かあったら困るし」
キリエの言葉は常に母としての立場を前提にしているため、人質の事に偏重しているが、しかし確かにこちらからアクションを起こさないと何もできないという意見はメイと一致した。四人は慎重に上階への階段へ向かう。
階段に点々と続く尿漏れの後。周囲をアンモニア臭が包む。
ゆっくりと階段を上がっていく途中、メイが異変に気付いた。
「妙ね……二階に続いている」
建物の構造上てっきり有村ユキは三階の最上階に囚われているのかと思っていたのだが、しかしキムリカの尿漏れの後は二階に続いていたのだ。
「罠……止め足かも。メイ先生、気を付けて下さい」
アスカが注意を促す。
止め足とは、野生動物が追跡者を撒くための技法のひとつである。
「止め……?」
メイが聞き返すが、長く悪魔と戦い続けてきた彼女がもちろん「止め足」を知らないなどと言うことはない。では何がひっかかるのか。
「尿漏れで……止め足?」
もちろんそこである。
よりによって何故尿で。
とは言うものの。
実際メイもこの事態には罠くささを多分に感じ取ってはいるのだ。
この先にはおそらくキムリカがいるはず。
尿の跡は点々と廊下の先に続いている。
「青木さん、白石さん、危険だけどキリエを連れて三階に様子を見に行ってくれる? 有村さんがいないかどうかの確認だけでいいわ。何か異常があればすぐに戻り……いや、離脱して」
今のキリエには基本的に戦闘能力はないとメイは考える。追い込まれれば昔取った杵柄で魔法少女の能力を使うかもしれないが、そこには期待していない。
回復魔法の使える青木チカと近接戦闘の出来る白石アスカを彼女につけて、三階への「偵察だけ」をさせる。
「メイ先生は……一人でキムリカと……?」
アスカが怪訝な表情で尋ねるが。もちろん彼女はその心づもりである。これまでだってキリエと一緒に活動していた時以外十年以上もたった一人で戦ってきたのだ。
どんな敵が相手だろうと負けるつもりはない。
「分かりました。メイ先生の方も、気を付けて下さい」
少し不安そうな表情をしていたアスカであったが、意外にも素直にメイの言う事を聞いてすぐに三階への階段をゆっくりと、慎重に上り始める。
「ふぅ」
メイは一人、二階の廊下の先に目をやる。異様なアンモニア臭は不気味に奥の部屋へと続いていく。
「ガリメラ……」
静かに彼女が呟くとバサバサと羽音をさせてメイの隣にホバリングし、大きく口を開けた。いつかのようにメイはその口の中に腕を突っ込み、武器を取り出す。
「マジカルハンマー……」
ガリメラの粘着質な唾液を纏い、柄が1メートル強ほどある巨大なスレッジハンマーが姿を現す。静かに武器の名を宣言したメイはぶん、と血振りの如く唾液を吹き飛ばし、両手でそれを構えながら少し腰を落としたまま構えて進む。
纏っているのは甲冑ではなく魔法少女の衣装なれど、しかしその堂々たる隙の無い威容はまさしく中世の重装歩兵を彷彿とさせる。
水滴と、尿に塗れた足跡。
床に残るその痕跡に不審な点がないかを確認しながら、しかし全方位に対して油断ならない殺気を放ちながらじりじりと進むその姿は先ほどの大変に取り乱していたキムリカの姿とは対照的である。
足跡はそれほど奥には続いていなかった。階段から数メートル離れた部屋に入っている。
グシャン、とハンマーを一振りしてドアを消し飛ばし、入室するメイ。ノックは一回である。
少し広めの、デスクの並ぶ部屋。この廃工場のオフィスであろうか。既に足跡はなくなっていたが……
(匂う……)
そのアンモニア臭は、間違いなくキムリカがこの部屋にいることを物語っていた。
廊下を進んでいた時と寸分違わぬ姿勢でスレッジハンマーを構えたままじりじりと室内を移動するメイ。
完全にホラーゲームの世界である。
沈黙のまま、メイは足を止め、視線だけで周囲を確認。
「フッ!」
一瞬で体を回転させたかと思うとスレッジハンマーを超高速で振り抜く。
狙いは壁際に置いてあったロッカー。
その上半分に、先の尖ってもいないハンマーは突き刺さり、焼き付け塗装のされた薄い板金のそれはひしゃげ、上側だけが引き千切れて吹き飛んだ。
ガンガンと高い音を立てて反対側の壁にロッカーの上半分が激突する。
「ひ……ひぃ……ッ!!」
果たしてロッカーの中には確かにいたのだ。きついアンモニア臭を放つ赤いスーツに黒い長髪の女、キムリカが。
「あ……あぁ」
もはや先ほどのように悲鳴を上げることもできない。しゃがんだ姿勢で両耳を手で押さえ、歯の根を鳴らす泣きっ面の女。
もし彼女がロッカーの中に立って隠れていたのならば、おそらくハンマーの直撃を受けて彼女の首は千切れていたことだろう。
「ゆ……ゆるして……こんなこと、もう二度としませんから……おねがいぃ……」
全く「戦意」というものの感じられない弱々しい声。
キムリカは反撃に転じることもできない姿勢のまま、狭いロッカーの中で命乞いをするだけであった。
やはり腑に落ちない。メイは問いかける。
「あんたの能力……いったいなんなの? さっき一階で何をした?」
キムリカは涙を流しながらもゆっくりと何度も深呼吸をして、それから答える。
「わ……私の能力は、た、『タイムリープ』です……」




