悲鳴
「ここね……」
「はい」
メイが尋ねると、眼鏡の縁をくい、と上げてチカが答える。
学校から歩いてほんの三十分と少しの距離。どうやらそこは今現在は既に廃業してしまった小さな精密加工業者のようだった。
天井の高い一階にはいくつかの加工機械が並び、その上の階はオフィスとなっているようである。
チカの眼鏡の索敵によれば、敵はこの建物の中にいるはずだ。フェリアが戻ってきていない事を考えれば、ユキもまだのっぴきならない状況にはなっていないはずである。
メイは封鎖されていた正面入り口の門を軽く飛び越え、アスカとチカもそれに続く。この中で唯一の一般人のキリエだけが物価こうな仕草で塀をよじ登り、やっとのことで敷地内に入った。
門は固く閉ざされてはいたが、建物自体にはセキュリティも施錠もされていない。
いや、もしかしたら施錠はされていたかもしれないが、おそらくは『キムリカ』なる敵がそれを破壊して根城として使っているのだろう。
だがいずれにしろそんなことはどうでもよい。
目につくような罠、そして目につかない敵の『能力』による罠を警戒しながらメイを先頭に建物の中に入っていく。
日も傾きかけた夕闇の中、慎重に歩を進める。
「白石さん、青木さん。キリエを守りながら後ろからついてきて」
既に魔法少女に変身している二人は、周囲を警戒しながらキリエを挟むように警護する。今回は前回と違ってマリエとスケロクの二人がいない。その状況でキリエ親子を守らなければならないのだ。
メイの方はどうやら魔法少女の衣装を学校にも持ってきていたようで、職員用の更衣室で着替えてから学校を出た。堂々と。
建物の中には当然ながら電気が通っていないようで、明かりは外から入ってくるオレンジ色の寂しげな夕日の光だけ。
そのうす暗い工場の中、メイは中央に一人の女性が立っているのに気付いて立ち止まる。
暗がりの中に立つその女の黒い長髪に縁どられた白い顔はまるで闇の中に人の顔が浮かんでいるようだ。その下には夕日によって主張を強めている赤いスーツがなんともアンバランスで不気味だ。
「うふふふふ、ようこそ。ここがあなた達の墓場よぉ」
手の中で何かを操作するようなそぶりを見せると、メイ達の入ってきた、開け放たれていた工場入口のシャッターが下り、封じられた。電気は来ていないようだが、元々工場ならば非常用電源や発電機で作られた電気で動いたのかもしれない。
当然夕日の入ってくる窓から逃げることは出来るが、それでも「嫌がらせ」程度にはなる。
なにより、特にまだ未熟なアスカやチカは心理的にこの「シャッター」によって不安をかき立てられることとなった。
ここまで無敵の強さを誇ってきた葛葉メイ。そのメイをこの女はたった一人で「片づける」自信があるという事なのだから。
「堂々と姿を現すとはいい度胸ね。それとも頭沸いてんのかしら?」
「残念ながら……」
キムリカはにやりと口の端を歪め、ポケットから青白く光っている水晶を取り出して顔の横に並べる。
「あんた達は、絶対に、絶対に私には勝てないのよ。そう、絶対にね」
そう言ってキムリカは親指の先ほどの大きさの水晶を指の力だけで潰した。
「なにを……ッ!?」
粉微塵になった水晶の欠片が周囲に霧のように散らばる。メイは反射的に鼻と口を押えてこれを吸い込まないようにした。
「安心してぇ……別に毒とかじゃないわ。これはね、そう、おまじないよ。『私が絶対に勝つように』っていうおまじない。
でもね、あなた達に勝機があるとしたら、私にこれを使わせない事だったのにねぇ……ざぁんねん。キャハハハハハハハ」
彼女が笑い終えると、辺りにキラキラと散らばって浮遊していた水晶の欠片は蒸発するように掻き消えてしまった。
「ハハ……ハ……」
その時、笑い終えたキムリカの顔が蒼白になった。目を見開き、瞳孔が拡大する。
「ハ……はああああああ!! いやああぁぁぁぁ!!」
「?」
彼女は踵を返して建物の奥に逃げようとして、急ぐあまり足がもつれてその場に転んだ。
「……わけ分かんないわね。何一人で盛り上がってるの」
メイが数歩前に出ると、キムリカは異様な取り乱し方をしながら涙を流し、這って逃げる。どうやら腰が抜けているようだ。
「ひぃぃぃ、ごめんなさいいいぃぃぃ殺さなぁいでええぇぇぇぇ!!」
まるで人が入れ替わったかのような取り乱し方である。先ほどまでの自信満々の女の姿はそこにはない。
「うわぁ……」
キムリカはうつぶせに這ったまま、ぷしゃあ、と失禁してしまった。余りの惨状にアスカが小さく悲鳴を上げる。
事態が呑み込めず、一瞬振り返ってキリエの方を見るメイであるが、キリエも首をかしげるばかりである。
わざと視線を外していたメイであったが、キムリカの方はこれを機に攻撃を仕掛けようという気配すらない。失禁し、涙を流し、涎を垂らして鼻水が出て、体中のありとあらゆる体液を出しながら必死で立ち上がろうとする。
「た、助け……誰か、助けてえぇぇ……」
当然ながら助ける者など居ない。なぜなら彼女のこの行動は四天王のベルガイストこと山田アキラですら把握していなかった事なのだ。増援など望めるはずもなし。
いやそもそもまだ何もしていない。
メイはほんの数歩キムリカに近づいただけなのだ。だというのにまるでこの世の終わりかというような取り乱し様。
戦闘経験の豊富なメイにも全く予想だにしていなかった事態である。彼女の目から見ても、あの恐慌状態がとても演技には思えなかった。
「いやぁ、死にたく……なぃぃ……」
キムリカはやっとの思いで立ち上がり、走り始め、しかし恐怖のあまり数歩足を前に出してまた転ぶ。
「ひぃぃ」
メイの方に振り向いた彼女の顔には、おそらく転んだときにぶつけたのか、鼻血も出ている。
「や……いやぁ」
泣きながらキムリカはようやく上階に上がる階段まで辿り着き、呻きながら四つん這いでそれを登っていった。
一回に取り残されたメイ達四人。
当然ながら、事態の把握が全くできない。
「いったい、何が起こったの」