メス男子
「ああ……」
メイは両手で顔を覆い、天を仰いだ。
ただでさえ憂鬱なのに。
これ以上問題を持ち込まないでくれ。
そんな心持であった。
メイが今年受け持つことになった新一年生のクラス。
そこにキリエの息子、有村ユキがいることは事前に知っていた。
だからこそここ数日気分がすぐれなく、重く沈んでいたのだ。教頭の攻撃を軽くパスして何とか教室に辿り着き、さっそく初日の出席を取り始めた……そこまでは良かったのだが……
五十音順で「有村」はこのクラスで一番目の名前だった。正直その字面を見ただけで憂鬱な気持ちにもなったが、その名前を呼んで勢いよく返事をしたのは、何故かセーラー服に身を包んだ美少女であった。
いや、少女ではない。顔には見覚えがある。間違いなくキリエの息子のユキだ。
幼馴染みの子供が入学してきて自分の受け持ちになるというだけで大変な心労だというのに、これ以上問題を持ち込んで欲しくなかった。
メイはとりあえずポケットからスマホを取り出してどこぞへ電話をかけ始める。
生徒達は何が起こったのか分からずざわざわとし始めるが、そんなものどこ吹く風である。
「もしもし、私。メイだけど……どういうことなのこれ」
メイは眉間に皺を寄せてちらりとユキの方を見る。
「なんで女子の制服着てるのよ」
さらに生徒たちがざわつき始める。なんとなく彼らも事情が分かり始めてきたようだ。「何故女子の制服を着ているか」という事はつまり、本来なら有村ユキは女子の制服を着る存在ではないという事だ。
つまり今元気に返事をした少女は、少年なのではないか? という事である。
「着たがったからからって……そんなの許されるわけあっ」
メイはスマホの画面を睨んで「切りやがった」と小さく呟く。
どうやら彼女は直接キリエに電話して問いただそうとしたようだったが、満足いく回答は得られなかったようだ。
メイは仕方なく、有村ユキの席の前まで歩いてきて、直接彼(?)に問いただす。
「有村さん、どういうことですか? 何故指定の制服を着ないの?」
「着てますけど?」
ユキはセーラーの襟をピッと指で引っ張ってメイによく見せるような仕草をする。
「それは女子の制服でしょうが!!」
ドン、と机を叩く。それと同時にみしりと嫌な音がした。余りの剣幕にざわついていた生徒たちは一斉に静まる。
「校則にはちゃんと男子と女子の制服について記述があるはずよ」
「でも、生まれた性別がそうだったとしても、ボクの性自認は……」
「あなたの内心を咎めるつもりはないしそんなことはどうでもいいわ。ち〇ぽがついてるなら肉体はオスでしょうが!!」
あまりにも歯に衣着せぬ物言いに、生徒たちは再びざわつき始める。
しかしユキもそれでは退かない。なかなかに強い精神を持った男の娘のようだ。
「さっきメイ先生、『男子と女子の制服が決められてる』っていいましたよね?」
「い、言ったけど、それが何か?」
思わぬ強い口調にメイもたじろぐ。ユキは生徒手帳をパラパラとめくり、該当のページを見ながら説明を続けた。
「男子と女子の制服について説明して、指定の物を着用するように、とは書いてありますけど、校則のどこにも『男子は男子用の制服を、女子は女子用の制服を着用すること』とは書いてませんけど?」
「なっ!?」
メイはユキの生徒手帳をひったくって内容を確認する。彼女の額には汗の玉が浮かんでいた。
「それはおかしいだろ!! 普通に考えりゃ男子は男子の物を指定、女子は女子の物を指定されてるにきまってるだろーが!!」
ユキの隣に座っていた気の強そうな男子生徒が立ち上がって彼を威圧した。何事も最初が肝心、クラスでの上位の立ち位置を確保するためなのか、それとも純粋な正義感なのか。
しかしユキは彼に怒鳴られても怖がるどころか可愛らしい笑顔を浮かべて歩み寄り、彼の胸に両手を当て、上目遣いで囁く。
「絹村君……だっけ?」
まさしく天使のような笑顔とはこのような物を言うのだろうか。絹村は凄んでいるわけでもない彼の笑顔によって前のめりだった姿勢が押された。
「お、おう……」
「ボクがこの服着てると……絹村君、困る?」
「あっ……いやぁ……困りはしないかな」
メス男子。
「うふふ、ありがと。座っててね」
「うん」
まだ声変わりもしていない、鈴の鳴る様な声。絹村の顔は耳まで真っ赤で、まるで酔ったような表情だ。
彼の持つメスオーラに完全に「食われて」しまっているのである。
「確かに書いてないわね」
確認の終わったメイがぽいっとユキの机の上に生徒手帳を投げた。
「で、でもそれっておかしくないですか? ルールで決まってなければ何してもいいんですか!?」
今度は女子生徒である。
彼女はこの事態に危機感を抱いていたのかもしれない。
一介の男子生徒に、場の空気を支配されようとしているのだ。それも暴力や論理ではない。
「メスみ」によってだ。
当然ながら、この「メス」とは「女性」を意味する言葉ではない。女性は生まれながらにして「女」ではあるが、しかし「メス」ではないのだ。
女性として成熟していくにしたがって「メスみ」を獲得していって男を虜にするのである。
若干十二歳の彼女たちはまだ、当然ながらその途上にある。
しかしここにそのバランスを圧倒的な力で破壊し尽くす特異点が現れたのだ。
「ねぇ、絹村君も、ボクが男子の制服着た方がいいと思う?」
「あ、いやぁ……どうかなぁ」
寸伸びで指先しか見えない手で、ユキは絹村少年の方に手を伸ばしながら笑顔で尋ねるが、顔の上気した彼は明確な答えを用意できない。
あからさまに同意すれば「ホモ」の誹りを免れ得ないが、しかしユキのメスみにあてられて否定もできない。事実上の敗北宣言である。
多くの女子が、本能的にこの事態に危機感を抱いていたと言ってよいだろう。
「当然のことながら……」
いつの間にか教壇に戻っていたメイが声を発する。
女性としては少し低い彼女の声は威圧感を与え、まだ小学校から上がったばかりの生徒達は等しく口をつぐむ。
「ルールに書かれていなければ何しても構わないわ」
一斉に生徒たちのブーイングの嵐である。ユキの制服問題を快く思っていない生徒も、そうでない生徒も、このメイの言い草には反発した。
しかし何を隠そうこのメイこそ、今この教室に来るまでの間に「ルールに書かれていないから」という理由で教頭を門前払いした女なのだ。
自分は良くて他人はダメだ、などと言えるはずもなし。
「その代わり、それによって生じる不都合は全て自分の責任となる事と引き換えになるけれどね」
教室は、そのナイフのように鋭い声によって再び静寂に包まれる。
「暴走した男子に犯されてケツの穴ガバガバになるといいわ」
「そんな事しねーわ!!」