恐怖
「自己紹介するわ、私の名はロディ。よくここまで来たわね」
声はするが姿は見えず。
「よくここまで」と言われているが、狼女のロディが待ち構えている教室はすぐに見つかった。その三階の教室だけが煌々と明かりがつけられていたからだ。
一歩踏み込むだけでチカにはその異様さがよく分かった。
一定間隔で教室の机が塔のように三段ほどに積み上げられており、その中央にはどうやら気を失っているらしいキリエの息子、ユキがぐったりとした様子で椅子に座っている。
意図は明らか。
遮蔽物によって影を多く作り出すことで自分の能力に都合の良いバトルフィールドを演出しているのだ。
今も、ロディがどこに潜んでおり、そこから話しかけているのかは全く分からない。この戦いにそれだけの自信があるのだろう。キリエも含めれば6対1だというのに余裕を感じさせる声だ。
(そうだ。数では圧倒的にこっちが有利なんだ)
チカは心の中で自分にそう言い聞かせて平常心を保つ。
さらにもう一つ気になることがあった。そもそもロディがキリエ親子に目を付けた理由……チカはついさきほどのフェリア達との会話を思い出す。
『ユキにもキリエと同じく魔法少女の素質があるニャ』
『フェリア、あなたまさか……私の息子にそんな事させないわよ』
『最終手段として考えておくニャ。のっぴきならない状況になった時、ただの人質だと思っていたユキが魔法少女になれば、盤面をひっくり返す強力な駒になるニャ』
危険ではあるが……ある意味自分のこのポジションが一番『楽』なのかもしれない。そう思って勇気を出して教室の中に足を踏み入れる。
小さく物音がしたような気がしてビクリと大きく震える。しかし見回してみても周囲に異変はない。
「臆病で一番弱いお前が……囮役かぁ?」
ロディの声が聞こえる。しかしやはり頭を左右に振ってもその姿は見えない。
「ちょうどいい、さっきの戦いで腹が減ってるところだ。少しやせ過ぎだが、腹の足しくらいにはなるかな」
遠い様な近い様な。どこから聞こえているのか全く分からない声。おそらくは影の中を移動しながら喋っているのかもしれない。
「どうしたの? もっと教室の奥まで入ってきなさいよ。私に食べて欲しいんでしょう?」
恐怖で足が震える。チカはその場で立ち止まってしまった。
(恐ろしい……)
彼女の目には涙が滲んでいる。
(目をつぶってしまいたい)
そうすれば、何もかも終わる。おそらく一瞬でロディは彼女の命を奪い去るだろう。だが彼女はここへ死にに来たのではない。
(一歩を……私に一歩を踏み出す勇気を。メイ先生……)
ユキを救うため、自分を変えるために彼女はここへ来たのだ。
一歩ずつ、一歩ずつチカは教室の中央へと進んでいく。
「私だって……私だって、戦えるんだ」
右手に握られているのは彼女がいつも使っている少し小ぶりなステッキ。今まで一度も戦闘に使用したことはないが、しかし敵の攻撃を凌ぐくらいはこれでもできるはずだ、と自分に言い聞かせる。
ユキまではもう5メートルほどの距離。ここまで近づくと彼の呼吸による胸の動きまでが見て取れる。どうやら少なくとも「殺されている」などという事は無さそうだ。
チカは周囲にチラチラと視線をやってロディを警戒していたが、彼女は全く予想外のところから現れた。
照明によってできていた、チカ自身の陰から現れたのだ。
鼻先がくっつきそうなほどの距離に突然現れた狼女。
全く予想外の出現場所にチカは完全に虚を突かれ、体が硬直してしまった。
考えてみれば予測の範囲内であったはずなのに。敵がチカの戦闘能力を過小評価しているならば、一撃で殺すよりは「盾」として利用する可能性もあるのだと。
「柔らかくて……美味そうな肉ね」
「ひっ……」
ロディはチカの頭髪をわしづかみにして、彼女の頬を舐め上げる。舌と口の隙間から鋭い牙が見えた。
明らかに彼女に恐怖心を植え付けて、戦意を喪失させようとしているのだ。それはチカ自身にも感じられた。それと同時に恐怖心を感じているのも事実であったが。
だがそれでもチカは、勇気を振り絞り、スカートのベルトに後ろ側で挟んで隠し持っていたリボルバーに手を伸ばす。
ガラッ
「ん?」
無造作に、チカが入ってきたのと別方向のドアが開けられて、何者かが教室に入ってきたのだ。思わずロディも素にかえって後ろに振り向く。
そこに立っていたのは、メイであった。
「な……」
ロディの視線が釘付けになった。
(今だ)
チカは慌てて銃を取り出し、ロディに気付かれないように安全装置を解除。メイの方はというと走ってロディに接近する。
ドアからのロディのいる場所までの距離は十メートルほど。いくらメイが素早くても一瞬で一撃加えるには遠い距離だ。だが注意をひければ十分。油断しているチカからの攻撃が本命となる手筈である。
「ええ……?」
だが予想外の事態が起きた。
先ほどのチカと同じように、今度はロディの体が硬直してしまったのだ。
「セーラー服て……」
そう呟いたところにメイの右拳が彼女の顔面を捉えた。
「オラァ!!」
「ほげぇッ!?」
殴られて吹っ飛び、ロディは机で作られた塔を巻き込みながら床に倒れ込む。当然メイはその隙を逃すことなく即座にマウントポジションを取って拳の雨あられをロディに叩きこんだ。
結局チカが引き金を引くことはなく、銃の安全装置はそのまま戻された。
「わ……私の決意はいったい……」
呆然とするチカの肩をスケロクがぽん、と叩いた。
「まあ、三十過ぎのババアがいきなり寸詰まりのセーラー服で現れたら、誰だってああなるわ」