母子手帳
― なんで なんで死んじゃったんですか スケロクさん
ようやく涙の収まってきたアスカであったが、相変わらずスケロクの身体に抱きつき、まだ少し声を震わせているようだった。
― だって スケロクさんは ユリアさんを置いて 一人で戦いに行ったじゃないですか
話は先ほどから続いている。
スケロクが言うには危機に駆けつけたり、戦ったり、そういった英雄的な行動だけが『真実の愛』ではないと。
本当の愛の姿とは、そんな誰にも賞賛されるような英雄的な行動ではなく、むしろ正反対のものだと言っているのだ。
感謝も賞賛もされない、見返りを求めない愛こそが『真実の愛』なのだと。
『俺は楽な道を進んだだけだ。たった数時間、修羅の中に身を置くだけの楽な道をな』
スケロクはアスカの頭を撫でながら答える。
『お前達が、これから生きていく数十年の方が遥かに辛くて、苦難に満ちた長い道のりだ。俺はそこから逃げて、楽な道を進んだんだよ』
― わからない 私にはわからない
アスカはスケロクのお腹に頭をこすりつけるようにして首を振る。まるで駄々っ子のようだ。いつもクールな彼女にこんな一面があったとは。
スケロクは聞き分けのない幼子のようなアスカの両肩に手を置いて、彼女の身体を離した。
それから、ズボンの後ろポケットからごそごそと、一冊の、ピンク色の手帳のようなものを取り出した。
『これが何かわかるか?』
手帳の表紙にはポップな絵柄で幼子と、それを抱きかかえている母親の絵が描かれている。
― 母子手帳……ですか 私の
それは、アスカ自身の母子手帳であった。
『凄いな。母子手帳ってこんなんなってんだな。いろんな情報が書き込まれてるぜ』
スケロクはそれをパラパラとめくってから、あるページをアスカの方に見せた。そこには、数ページにわたって雑多なハンコやサイン、それに何種類ものシールが貼られていた。
― これは……?
『予防接種のページだな。俺は当然子供もいないし、自分の母子手帳も見たことないから知らなかったが、母子手帳ってこんなことも書いてあるんだな』
そう言ってスケロクはパラパラとページを見返す。
『すげえ数だな。これだけの予防接種を、何が必要かを自分で調べて、病院の予約を取って、会社の休み取って一個ずつ行ってたわけだ』
スケロクはパタンと手帳を閉じた。
『俺には、できねぇよ』
― 私 思い出した
ゆっくりとしたテンポでアスカが口を開く。
― 小さい頃 よくお父さんと一緒に予防接種の注射をうちにいってたこと
目の焦点はスケロクと彼女の間にあり、何処か見ているようで、何処も見ていない、不安定な視線。
― 他の子と同じように 私も注射なんて大嫌いだったんだけど でも 私はいつも泣かないで我慢してた
― 注射が終わると いつもお父さんが御褒美にコンビニでアイスクリームを買ってくれてたから っていうのもあるけど……
ふたたび、アスカの瞳が潤い始める。
― でもね 私はそんなのとは関係なく泣きたくなかったの
― いつも昼間は仕事でいないお父さんが一緒にいるのが うれしくて
― そんな時間を つらい思い出にしたくなかったから 少しでも長く 笑顔でいたかったから
スケロクはその告白を聞いて、優しい笑みを浮かべた。
『帰るんだ、アスカちゃん。本当に君を愛してくれる人の元に』
ふと気が付くと、再びあの黒い水晶の中に戻っていた。
相変わらず外からはドンドンと壁を叩く音と、アスカを呼ぶ声が聞こえる。我が子を呼ぶ声が。
― お父さん
『行くんだ』
一瞬スケロクの方に振り向きそうになるが、グッと堪え、そして真っ直ぐに、自分を呼ぶ声の方に視線をやる。
彼女が水晶の壁に手を当てると、水晶にはヒビが入り、みるみるうちにそれは部屋全体に広がっていった。
『魔法少女なんかじゃあなくても、お前はお前だ。本当に大切な、愛すべき日常に、ありのままの姿で帰るんだ』
― 私……いてもいいのかな お父さんの邪魔になるんじゃないのかな
― 私がいなければ お父さんはきっと好きな仕事を思いっきりできて きっと 再婚だって
― ううん お父さんなら きっといい人を見つけられる 私みたいな邪魔者さえいなければ
― 私はもう 魔法少女でも 何でもないから 勉強や運動が出来るわけでもない 正義のために戦ってるわけでもない そんな『何者でもない』私を お父さんは愛してくれるの?
『子供を愛するのに、条件を付ける親なんかいないぜ』
俯き加減だったアスカの顔が、まっすぐ前を向いた。
― お父さん お父さんッ!!
「アスカッ!!」
とうとう水晶の壁が割れ、粉々になって霧のように風に吹かれて消え去っていく。地吹雪のようなそれに視界を遮られ、最後に一目見ようと思っていたスケロクの姿をはっきりと見ることは出来なかったが、アスカには、彼が微笑んでいるように感じられた。
「お父さん、お父さん!」
「アスカ、戻ってきたんだな、アスカ!」
いつの間にか辺りの風景が病院の個室に変わっていた。
抱き合い、再会の喜びに打ち震える親子の姿。
「アスカ、良かった。意識を取り戻したんだな」
「お父さん!!」
アスカの拳が、白石浩二の顔面にめり込んだ。
「ちょ、ちょっと! 白石さん!?」
突如始まった少女の凶行に、同室していた葛葉メイも混乱している。
「なんでお父さん魔法少女の格好してんのよッ!!」
くたびれた中年男性、白石アスカの父である浩二は可愛らしいフリルのついた魔法少女の衣装に身を包んでいた。
「その……白石さんの精神世界にアクセスするために魔法が使えた方がいいかな~って? ちょうどキリエのウィッチクリスタルも余ってたし」
珍しくメイが弁明するような事を言うが、寝起きハイテンション王の白石アスカの怒りは、暫く収まりそうにもなかった。
私の作品では転生ヤクザみたいなギャグ小説以外では基本的に神や霊、魂といったものは存在しません。
なのでこのスケロクもアスカの記憶が生み出した夢の中の話です。