その声は
暗く深い水の底。
その奥底に淀むように少女は横たわっていた。
自分が何故ここにいるのかわからない。何者なのかもわからない。
どこまでが自分でどこからが『世界』なのか。もしかすると自分はすでに液体のような状態になっていて、この水底に溶けだしてしまっているのではないか。もしくはこの空間自体が自分自身なのか。
いずれにしろ全く自己同一性というものを失った状態であった。
周囲の雰囲気は液体のように不定形にも感じるし、鉱石のように凝り固まっているようにも感じる。いずれにしろ彼女が気力も体力も使い果たし、ここに沈んでいる事だけは確かだ。
どこか遠くで誰かを呼ぶ声が聞こえるが、全てがただただ煩わしく、自分とは無関係の事象のように感じられた。
今はただ、目を閉じて沈んでいたい、と。
実際自分の体がどれだけ疲弊しているのかはよく分からなかったが、少なくとも気力は底をついていた。はっきりとは思い出せないのだが、なにかひどく辛いことがあり、その経験から自分を遠くに置きたかった彼女にとってこの環境は僥倖とも言えた。
「……アスカ……アスカ」
ドンドンという何かを叩く音と共に声が途切れ途切れに聞こえてきた。
少女は、ようやくここで自分の名を思い出した。そうだ、「白石アスカ」それが自分の名前だったのだ、と思いだした。
その瞬間今まで水底にたまった澱のように淀んで、境目の曖昧だった自分の体が途端に形を持ち始めたような気がした。
そして同時に、胸の奥から込みあがってくるように、思い出したくない何かが溢れてくるような気がする。喉の奥から外に出てこようとするその思いをかろうじて口腔内で押し留め、再び嚥下する。
「アスカ! アスカ!」
誰かが外から呼びかけている。
― やめて
― 私を起こさないで
アスカは、目を瞑り、両耳を手でふさぎ、子宮の中の赤ん坊のように体を丸める。
溢れる前に押し留めた思い。その正体が何なのかは自分でも薄々分かってはいるのだ。
助ける事の出来なかった幼馴染み。
今にして思えば彼女は随分と前から自身の危機的状況を知らせるためのサインをいくつも出していたのだ。『魔法少女』という特殊な環境に置かれたことでそれを察知するための心の余裕がなく、全てを取りこぼしていた。
何か一つでも気づいていれば、助けることができたかもしれないのに。少なくとも自らの手で、幼馴染みを殺すなどという事態は避けられたかもしれないのに。
そのつらく苦しい現実の前では、この結晶の中は随分と居心地がよかった。魔力の消耗によって記憶が失われているのは僥倖であった。
「アスカ! 目を覚ましてくれ!」
外からの呼び声がまた聞こえる。
― やめて もう何も考えたくない
― どうせ元の世界に戻ったところで辛い現実が待っているだけ
― ひとごろしの私に 帰る場所なんてない
『そうでもないさ』
突如として聞こえたクリアな声に、アスカは目を見開いた。
『今も呼んでるじゃないか。ほら、お前の名前を』
その瞬間、海中に浮かび出た気泡のように自身の体が急激に上昇していくのを感じた。自分のいた空間の天井を突き抜けてさらに頭上に。その時アスカは初めて自分が色の黒い水晶の石のような物の中に閉じ込められていたことを知った。
『見てみろ』
アスカは指差された方を見下ろす。
そこには、自分の名前を呼びながら必死で水晶を叩き、引っ掻き、なんとかして彼女を助け出そうとしている中年男性の姿があった。
― おとうさん……
それは、アスカの父、白石浩二の姿であった。いかなる方法をもってアスカの精神世界であるここへアクセスしてきたのかは分からないが、殻に閉じこもるように心を閉ざしてしまったアスカを助けようと必死でもがいているのだ。
― おとうさんは……私の事を愛してなんかいないよ
寂しそうな眼をしてアスカは言う
― あの人が守りたいのは『日常』だけ
― わたしはいつも お父さんの人生の邪魔をしてきたお荷物だった
― おかあさんが私達を置いて出て行った時 私がいなければお父さんは自分の人生を進んでいくことができたのに……私が、私さえいなければ
『そんなことはない。お父さんはアスカちゃんの事を深く愛している』
― あなたに 何が分かるって言うんですか
― 私が マリエを殺してしまった時も あの人は来なかった
― お母さんが目の前で殺された時も あの人は見ているだけだった
― あの人は 私を愛してなんか……
『それは違う』
『前にも言ったはずだぜ。危機に駆けつけたり、前に出て闘うだけが愛するってことじゃないってな』
― たしかに あなたは前にもそんな事を言っていましたね
『誰にも賞賛されず、見返りも求めず、感謝の言葉すらも掛けられず。それでも自分の人生を賭けて一言半句の文句も言わずに地道に努力を積み重ねられるなら、それが本当の愛だと、俺は思うぜ』
彼女の言うとおり、アスカは以前にもこのセリフを聞いていた。上空から必死な父の姿を見下ろしていたアスカは後ろからかけられていた声に初めて振り返った。
目に涙を溜めながら。
彼女には、この声の主が何者なのかがよく分かっていた。分かっていた上で振り向けなかったのだ。その姿を見れば、感情があふれ出してしまいそうだったから。
振り向いたアスカは最初の内は堪えていたが、案の定次第に顔をくしゃくしゃに歪めて、大粒の涙をぼろぼろとこぼしてしまった。
― スケロクさん
顔を引きつらせ、大泣きに泣き、えづいてしまって上手く声を出すこともできない。
― なんで なんで死んじゃったんですか
― もっと 教えて欲しい事がいっぱいあったのに
― もっと 一緒に居たかったのに
― なんで死んじゃったんですか
もはや声にならないような叫び声をあげながら、アスカはスケロクに抱きついた。