膝を折る
「ようやくお山のボス猿が出てきたわね」
「ぬかせ」
余分な言葉などなかった。
ゴルダンが始末されてから時間にしてほんの数秒後、短いやり取りの後すぐさま夜王はメイに対し攻撃を仕掛けた。
巨躯に似合わぬ鋭く、早い前蹴り。最初の牽制としてはオーソドックス。よく言えば教科書通り、悪く言っても教科書通り。
(重い……ッ!!)
体の外側にそれを右手で払うメイだが、早さの割にあまりにも重いその蹴りに難儀する。
「むん!」
首尾よく相手の身体の外側に潜り込んだのに反撃に移れずに夜王の右ジャブを許した。連続のジャブ。これも危なげなく捌くメイだが、しかしやはり重い。慌てて距離をとる。
「ホスト剛掌波!!」
距離が開けばすかさず飛び道具が飛んでくる。ゴルダンを一撃で破壊した必殺技。しかしこれもメイはひらりと躱した。
(こいつ……)
5メートル強の距離をとるメイ。この距離ならば直接攻撃はもちろん、予備動作の大きい剛掌波も脅威ではない。
(普通に強い!)
今まで戦ってきた変化球持ちとは違う。剛掌波という飛び道具は使うものの、まさに完成されたファイターだった。
即ち、実力の差が物を言う。メイが最も苦手とする相手なのだ。
特殊能力持ちであればその技に頼ったところに必ず隙が生まれる。それを逆手に取ったような戦い方をすれば案外簡単に戦況をひっくり返せる。たとえ自分よりも強い相手であろうとだ。
だが正攻法で強い相手には今度は自分が変化球を使う必要がある。そして、魔法の使えないメイに使える変化球は、少ない。
ならば、こちらも正攻法で戦わねばならない。それは実力の差が如実に表れる。
これがまだ体格に頼った力押しならばやりようもあるのだが、夜王の戦い方はまさに「教科書通り」、隙が無いのだ。
近接戦になれば体格で圧倒的に勝る夜王が有利になる。グラウンドになれば少しは体格の差を埋められるとは思うのだが、この体幹をうまく転ばせられる自信がない。必然中間距離での無難な攻防にメイは終始してしまう事となった。
メイからも当然攻撃を仕掛ける。しかし得意の対角線攻撃も夜王は無難に捌く。
「どうした、もう手詰まりか」
にやりと笑って見せる夜王であるが、これはポーズだろう。戦い方に驕りがない。
「あの男の犠牲など無駄だったな。自らの身を犠牲にして女に後を託すなど、狂人の仕草よ」
「なんですって」
怒りの表情を見せるメイ。
「聞こえなかったか。帝王は常に一人。女などにうつつを抜かすから無様にくたばるのだ。『愛』などというありもしない物に拘泥して無為に命を捨てた男の末路を見ただろう」
「『無為』だと」
その美しい顔の眉間に皺が寄る。一方夜王の方は笑みを浮かべたまま。
「何度でも言おう。女との愛に殉じ、戦いを女に託すなど狂人の所業と言ったのだ。頂点は常に一人。愛などいらぬ」
何度も言うが、言うたびに微妙にニュアンスが変わってくる。しかしおおよその内容は変わらない。未成年や立場の弱い女性を保護するNPO法人を運営しているが、この男、要は女性を取るに足らないつまらないものとして考えているのだ。手を差し伸べるのはその優越感と、便利な『道具』であるため。
「そんなだからね」
そういった人物に的確にダメージを与える文言を、メイは無意識のうちに選んでいた。
「あんたそんなだから童貞なのよ」
「むぐぅ!?」
夜王が片膝をついた。
「偉そうに。愛が何だとか女がなんだとか、あんたの言ってるのは全部タダの『酸っぱい葡萄』じゃない」
「愛も女もくだらぬ。心を曇らせるだけの……」
「黙れ童貞!!」
事実なので反論のしようがない。
「愛されたことも、女と付き合ったこともない童貞があれこれ想像だけで語ってんじゃねえよ。自分が傷つかないように安全圏であれこれ不平不満だけ言う奴に価値なんてあると思ってんの!? ホストクラブで恋愛ごっこして女を知った気になってんじゃないわよ!!」
「黙れ!!」
さすがに夜王もこれに黙して語らぬほど弱い人間ではない。
「この俺がどれほどの苦悩の中をもがき続けた人生か、お前にそれが分かるか! 愛してなお裏切られたものの気持ちがわかるか! 俺は愛など幻想だという事に気付いたに過ぎん」
「あきれた。そんなだから童貞なのよ」
有り体に言えばメイに全てを託したスケロクも、同じ童貞ではある。しかし彼と夜王らとで決定的に違うところが一つだけあるのだ。
「少なくともあいつは、愛に見返りなんか求めなかったわ」
夜王の体が揺らぐ。
「それが、愛ってもんでしょうが」
両膝をつき、さらには手を床に置いて体を支えた。揺らいでいるのは体ではない。ここまで自分の人生を支えてきた『信念』なのだ。
「自分からは何も変わろうとせず、ただ口を開けて餌を待つヒナみたいにぼうっとしてただけ。不平不満を口にしたいから自ら恋愛弱者の位置に身を置いて、そのくせプライドだけは高い怠け者、それがあんたの正体よ」
何かが、夜王の中でガラガラと崩れ去った。
以前に言っていた「不平不満を口にしたいからこそ、すすんで弱者の立場に自らを置く、無責任な者」それがまさに彼自身の姿だったのだ。
「断言してもいいわ。あんたとスケロクが全力で戦ったら、最後の最後には必ずスケロクが勝つわ。何度やってもね」
反論を、すべきであった。
しかし言葉が見当たらなかった。
夜王は両手で自らの顔を覆い、その瞳は虚空を見つめる。
十分な実力を見せつけ、自分が出るほどの敵ではないと思い、大広間を後にした。だが実際には『逃げた』だけだった……? その思いが頭の中で首をもたげ始めたのだ。
あの時点では、自分の方が圧倒的に「強者」だったはずだ。事実、ホストと魔族の連合軍を前にしてスケロクは相打ちに終わったが、自分なら余裕で勝利することが出来る筈。
だが今こうして頭の中で戦いを組み立ててみようとすると、あのスケロクに勝てる姿が思い浮かばないのだ。
「真実の愛を手に入れた」とうそぶいていたスケロクに、逃げ続けていた自分が勝てる気がしないのだ。
ズン、と両手を床につく。
数秒か、数分か、どのくらいそうしていたのかはよく分からない。
「それでも」
呟くように口にし、そして這いあがるように右足を床に立てる。
「それでも俺は、今、こうして生きている」
もはや拠り所など存在しない。絶対の自信も、脆くも崩れ去った。両足に力を込めて、渾身の力で立ち上がる。
生きているのだから、立ち止まることなどできない。