福井
「グルルルル……」
地の底から響くような獣の唸り声。
歯茎をむき出し、眉間に皺を寄せるその威嚇は、断じてふざけての物などではない。明確な殺意を持っていた。
「ひ……ヒカリさん……?」
榊原の胸倉を掴んだままコウジは視線を横にやる。
榊原の連れていた魔法少女、ヒカリが唸り声をあげて彼を威嚇していたのだ。そこから違和感を感じて視線を落とすと、彼女の影と重なっている自分の影が見えた。ダンジョン内の弱弱しい光苔によって生まれたその暗闇から、鋭利な黒い刃がまさに生えつつあるところがはっきりと視認できた。
「……これは、さっきの悪魔を倒した……」
「よせ! ヒカリ! やめるんだ!!」
榊原がそう叫ぶと、警戒態勢は解いていないものの、ヒカリは唸るのをやめ、影からは刃が引っ込んだ。しかしまだ眉間に皺を寄せてコウジを睨みつけている。
「ステイ! ヒカリ、ステイ!!」
「ぅぅ~……」
コウジが榊原の襟首から手を放すと、彼はまだ小さい唸り声をあげてるヒカリの頭を撫で、喉の下をくすぐりながら「ステイ」を連呼した。
「ステイ。そう、よ~し、よしよし、いい子だぞ」
榊原はヒカリの頭を撫でながら右手で上着のポケットから再び白い塊を取り出して彼女の口の中に放り込んだ。ヒカリはようやく落ち着いたようで、美味しそうにもごもごと咀嚼している。
「今、口の中に入れたのは?」
「ああ、これは羽二重餅だ。これを与えておけば福井県民はおとなしくなる」
「なんかうっすら福井県民への侮蔑を感じるんですけど気のせいかな?」
「気のせいだろう。君がそう思ってるからそう感じるんじゃないか?」
とにかく、実際にこの少女は福井県で発見され、記憶を失うどころか知性までも失ってしまっている状態だったようなのだ。
それをこの榊原がテイムして、悪魔狩りに使用しているという事なのである。
「もしかして、ヒカリっていうのも本名じゃないんですか?」
「ああ。コシヒカリからとった名だ。コシヒカリは新潟のコメだと思われがちだが、実際には……」
「いや、その話はいいです」
長くなりそうだったので話の腰を折り、コウジは考え込む。話すうちに、なんとなく嫌な予感が頭をよぎったのだ。
「その……警察には連絡はしたんですか? 記憶を失ってるなら、きっと家族から捜索願とか……」
「福井県警に捜索願が出ていないのは確認した……彼女が思い出そうとしないなら、今はまだ思い出すときじゃないんだ。きっと」
「出会った場所が福井県だってだけで福井県民だとは限らないですよね? 警視庁とか警察庁とかの方に聞いてみたら?」
「いや、彼女は福井県民で間違いない。いいか、よく見ててくれ」
そう言って榊原はヒカリに向き合うと直立し、小さく咳払いをし、若干高い声でしゃべり始めた。
「ありがとうございます。かがみやでございます」
「ちょっと……」
すぐさまコウジは榊原を止めた。「なんかよく分からないけどコイツおかしくなっちゃったのかな?」と感じたからである。正直言ってこの二人が現れてから心が追い付かない事象ばかり起きていて許容量を超えているのだ。これ以上おかしな事態になってほしくない。
「今の……なんなんです?」
「なんなん、って……かがみやのCMの社長のモノマネだけど……」
全く意味が分からない。
「福井県では鉄板やねんけどなあ……これ」
コウジはそんなローカルネタをやらないでくれ、と思いながらふっとヒカリの方を見てみると、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。今までの動物的な、攻撃的な表情ではない。まるで家族と一緒にいる幼子のような、安らぎに満ちた表情であった。
「このCMは二〇〇九年まで放送されていてな、今から十四年前になるか……彼女がまだ小さい頃の事を思い出してるのかもしれん」
そう言いながらヒカリを見つめる榊原の表情には、彼女を私利私欲のために利用しているような利己的な感情は感じられなかった。
「詳しく……教えてくれますか」
まるで自分の娘の姿を慈しむような榊原の目。年齢的に彼の娘ではないのだろうが、何か関係者だったのかもしれない。そう思ってコウジは問いかけた。
「かがみやの社長が亡くなってな……それ以来CMに社長が出ることも……」
「かがみやの話じゃなくてですね」
話していて、なんとなく榊原の言う事全てが信用ならなくなってきた。「福井県で出会ったから」以外に何一つ信用のおける根拠が無いような気がしてきたのだ。
「も……もういいです」
「いや待て、君は日本三大そばが、何か知っているか? 長野の戸隠そば、島根の出雲そば、最後の一つは……」
「だからもういいですって!!」
コウジは榊原の話をシャットアウトして彼の元を離れ、アスカとチカの方に歩み寄った。
確実に分かった事は二つ。ヒカリが魔法少女であるという事、そして彼女が記憶喪失であり、人間性も失っているという事だ。
コウジの感じた「嫌な予感」というのはまさにそこにあった。
「アスカちゃん、チカちゃん。おそらくは、あれが魔法を使いすぎた魔法少女の成れの果てだと思う」
二人の表情が硬直する。
魔法少女が魔法を使い続けることの弊害については二人とも聞いている。さらにアスカは、その先どうなるかというのをマリエの姿を通じて実感はしていた。
だがそれでも、その先にさらにこんな姿があるとは思いもよらなかったのだ。
記憶も人間性も失い、ただエサをくれる人間のいう事を聞くだけの飼い犬のような状態。そんな成れの果ての姿に戦慄した。
まだヒカリを保護したのが善良な人間だからよかったものの、もし邪な心を持つ者であったら、いいように利用され、慰み者にされ、ぼろ雑巾のようにされていたかもしれないのだ。
「榊原さん」
コウジは再び榊原の方に近寄って神妙な面持ちで話しかけた。
「出来る事なら、もう彼女に戦わせない方がいいです。私も……テイマーなので知っていますが……」
一瞬考えて、ここまでの経緯を説明するのが面倒なのでテイマーという事にした。後ろに居る二人の表情がひきつる。
「魔法少女は自分の記憶を代償に魔法を使うことになるんです。記憶を失っていけば、いずれは人格の崩壊を招き、そして知性も失っていく……おそらくそれが、現在の彼女の姿なんです」
「そんな……」
どうやら本当に知らなかったようだ。榊原は上目遣いで彼の方を見つめてくるヒカリの頭を撫でながら、驚きと、悲しみのないまぜになった表情を見せた。
「だから、もう彼女に魔法を使わせないでください。戦い続ければ、治るものも治らなくなってしまう……」
「ヒカリ……」
榊原はしゃがんでヒカリに視線を合わせた。ヒカリは知性の感じられない瞳をして、舌を出してハッハッハッ、と犬のように息を吐いている。
「すまなかった……俺のせいで……」
そう言って彼女を抱きしめる。ヒカリには言葉は通じていないようであったが、彼の悲しみの感情を読み取ったのだろう。「くぅん」と鳴いて所在無さげな表情を見せた。