狼女
空の暗闇が溶けだして、それが目の前に凝り固まって降りてきたように見えた。
それは段々と人の形をとり、母子の前に立ちふさがる。
何が起きたのか、少年の足は震えていた。少し早い中学校の入学祝に母と二人でレストランに行った帰り、それまで見たことも聞いたことも無い様な怪異にであったのだ。
闇は具現化したように見えて、二人の目の前には一人の女性が現れた。
女性と言っても普通の人間ではない。柔らかそうな乳房と、細く締まったウエストは確かに女性のそれなのだが、下半身は獣の足のような形状を取っているし、前腕はゴワゴワとした毛に覆われていて、その先にはナイフのような鋭い爪を有している。
顔は確かに美しい女性の物だが、その側面に耳はなく、代わりに頭頂部に大きな獣の耳がある。
ふさふさと大きな尻尾を振るっているのは興奮しているためだろうか。
「ようやく見つけたぞ、それも二体、これだけの素質があれば極上の悪魔になれる」
「逃げるわよ、ユキ……」
母親は恐怖の色を見せずに少年の前に立ちふさがる。これが母の強さというものなのか。
「逃がすわけないでしょう? 命だけは奪わないで上げるわよ!!」
手の爪が一層鋭さを増したように感じられた。その狼女は腕を振りかぶって一気に間合いを詰めようとしたが、親子に肉薄しようとしたところを何かに弾かれて後退する。
「くっ!? 何者だ!!」
何処よりか飛来した黒い影。それは年端もいかない黒髪の少女だった。
「罪もない人を襲うのは、この町を守る魔法少女、アスカが許さないわ」
狼女を襲ったのは魔法少女、白石アスカであった。スケロクのマンションから飛び立った少女たちの救援が何とか間に合ったのだ。
「チッ、邪魔が入ったか!!」
アスカの方に向き直って構えを取る狼女。しかし彼女を照らす街灯によってできた影が揺らめいた。
「!?」
異変に気付いて狼女が一瞬早く跳躍して逃げ、同時に彼女のいた場所が炎に包まれる。
「クソッ、勘のいい奴!!」
彼女がいた地点の炎が消え、マリエがそこに着地した。炎は彼女が出した魔法であった。
「大丈夫ですか!? 怪我はありませんか?」
チカも遅れて現れ、戸惑っている親子に声をかける。母親にとっては狼女と共に魔法少女も得体の知れないものなのだろう。息子を庇うように抱きしめて三人を警戒している。
「私は怪我が治せます。どこか怪我していたら教えてください。大丈夫なら、早く避難を……」
「あなた達……魔法少女なの!?」
「!?」
チカの表情が驚きの色に染まった。「何者なの?」ではなく「魔法少女なの?」と聞かれたのだ。
確かにその服装を見ていれば「魔法少女」という言葉が出てきてもおかしくはないのではあるが、しかしこのとっさの状況で出てくる言葉であろうか。この女性はいったい何を知っているのか。
「ふん、お前たちの事は聞いているぞ。四天王をやったのは別の魔法少女だって事もな。
手合わせしてみて分かったが、やっぱり大した相手じゃないな」
狼女の顔に笑みが宿った。反対にアスカ達の顔は怒りと苛立ちに歪む。しかし今は戦うしかない。この母子を守るためには彼女達が立ちはだかるしかないのだ。いつものように。
アスカが近接戦闘を担当し、マリエが炎で大ダメージを与える。チカはもしもという時の後方支援。これはアスカ本来のファイトスタイルではないのだが、やるしかない。
「いくわよ……」
来る。その姿からして高い身体能力を利用した突撃だろうと思ってアスカは身構えたのだが、しかし狼女は横に跳躍し、道の端の塀の影に飛び込んでフッと消えてしまった。
「後ろ!!」
マリエの言葉に振り返るがもう遅い、そこには既に狼女の姿が、地面から、いや、アスカの影から上半身を覗かせていた。
間一髪、狼女は陰から体をすべて出さないと攻撃ができないのか、一瞬の間ができたために爪の攻撃をスウェーで躱したが、しかし上半身を逸らしてバランスを崩したところに流れるような尾の一撃が彼女を襲い、アスカは吹き飛ばされた。
時を同じくしてマリエの胴体の中心にも狼女の蹴りがヒットし、同様に弾かれて後ろに飛ぶ。
だが狼女の快進撃もそこまでだった。
一瞬の隙だった。二人を倒して着地した狼女の顔に蹴りがクリーンヒットした。獣ゆえの柔軟性か、吹き飛びながらも身をよじって芯を外し、何とかダメージを最小限にとどめてはいるものの、少しよろめく。
「まったく……私が到着するまで我慢できなかったのかしら」
三人の少女とは明らかに体格そのものが違う。これがベテランだ、と言わんばかりのメイの堂々とした立ち姿である。狼女はまるで蛇に睨まれた蛙のように委縮している。
「青木さん、一般市民を早く避難させ……」
そう言ってメイは後ろに振り返って襲われていた母子を確認しようとしたが、すぐにバッと顔を隠してまた敵の方に顔を向けた。
「えっ? なに? どうしたんですか、メイ先生……」
チカが声をかけると、メイは小さな声で「バッ」と何か言いかけて黙った。しかし何か妙だ。
「メイ……? やっぱり」
母親が何かつぶやいている。どうも、状況がおかしい。
しかしここでメイがベテランらしからぬミスを犯していた。
自分の足元を、冷や汗を垂らしながら見つめているメイ。彼女は、敵からも保護対象の親子からも、目を逸らしてしまっていたのだ。
気付いた時には遅かった。メイが顔を上げると、もうそこに狼女はいなかった。
「しまった!!」
チカが大声を上げて、全員が彼女の方を振り向く。
「間抜けめ! 子供は貰っていくぞ!!」
またも影の移動を利用して狼女は一瞬で親子の傍に移動、子供だけを攫って民家の塀の上に飛び乗った。
「返して欲しくばついてこい!」
そう言い残して狼女は夜の闇の中に消えていく。アスカ達三人はメイに「先に行く」と告げて走って敵を追っていった。
その場に残されたのは、やはり背中を向けたまま黙っているメイと、母親だけである。
「メイ……あなた、メイなのね……?」
「さ、さあ……何のことやら」
彼女の声は震えている。
「ごまかし方が相変わらず雑ね……あんた、その格好……まさか」
母親の声に、メイは一切答えることなく、背中を向けたまま拳を固く握って震えているだけである。いつもの泰然自若としたベテラン魔法少女の姿は、そこにはない。
「あなた、まだ魔法少女やってたの?」