メスブタ
「よくもやってくれたわねこのド汚いブタ野郎が」
廃工場に潜んでいた悪魔。巨漢の身体にイノシシの頭を頂くオークのようなそれは、人の遺体を貪っていた。
魔法少女の力を持つキリエは戦意を喪失し、その前に立ちはだかるのは何の力も持たない、格好だけの魔法少女、メイ。
尋常であればとても敵う相手ではない。
しかし黒猫のフェリアはキリエを見捨てて逃げようとしていた脚を止め、オークとメイから目を離せなくなった。何も持っていないはずの少女に、何者でもないただの少女に、強い意思の力を感じたからだ。
「ブフー……言ってくれるな、この小娘が……」
意外にもオークは流暢な日本語で話しかけてきた。ずしりと床を踏んで立ち上がると、やはり2メートルはありそうな巨躯である。
「ブタにブタっつって何が悪いのよ」
「め、メイちゃん……まずいって」
殊更に相手を挑発するメイをキリエは何とかなだめようとする。今更なだめたところで話が通じるような相手にはとても見えないが、せめて少しでも生き残る可能性を模索したい腰抜け少女。メイがこの化け物に勝利するよりは、まだ話し合いで解決できる可能性の方が高いと踏んだのであろう。
だが親友の言葉はもはやメイには届かない。メイはちらりとオークの足元を見て、悲しそうに目を細めた。
魔法少女になったというのに、助けられなかった命。もはや彼女に、後に引くなどという選択肢はない。しかしキリエはへたり込んだまま、メイにすがる様に話しかける。
「ね、メイちゃん、何とか穏便に……ド汚いとか言い過ぎだよ……」
「ん~、たしかに。そこまで汚くはないか……薄汚れてる、くらいかな」
ブタは本来綺麗好きな生き物である。尤もこのオークは食事中だったため口元が鮮血で汚れているが。
「ブフー……それに『野郎』じゃない、オレは女だ……」
「メスか……じゃあ」
オーク本人の方からも訂正が入った。メイは少し考えこんでから言葉を選ぶ。
「この……薄汚いメスブタめ」
「余計悪くなってる」
二歩、三歩とゆっくりオークは間合いを詰めてくる。鈍重ではあるが鬼気を孕む重い足音をさせて。
対するメイも退かない。同じように間合いを詰める。
ともに構えを取らず、武器も持たない。しかし両者の体格は圧倒的に違う。メイは女性としては大柄ではあるものの、まだ十二歳の女児だ。一方のオークは2メートル近い巨躯に野生動物のような強靭な肉体。ともにXX染色体の持ち主といえどもその戦闘能力の差は火を見るよりも明らかである。
メイが唯一付け入るスキがあるとすればその体格故の驕りくらいか。
二匹の戦闘生物の間合いが交錯する。オークにとっては撃尺(※)の間合い。しかしメイにとってはまだ一足一刀(※)の間合いである。
※撃尺……攻撃の届く間合い
※一足一刀……一歩踏み込めば攻撃が届く間合い。
直後一陣の風が吹いた。否、ノーモーションのオークによる右フック。それによる風圧である。オークはその手に鋭い爪を持たないが、しかしその丸太のような腕から繰り出される一撃は少女の頭蓋など容易く打ち砕き、脳を破壊する。
たとえかすっただけでも脳を震盪せしめ、戦闘不能に陥らせるだろうその攻撃をメイは紙一重で手前に避け、前に踏み出したオークの内またに強烈なローキックを打ち込み、さらに同じ足の外側にも蹴りを打ち下ろす。
間合いからは出ない。ヒットアンドアウェイではなく押し続ける攻めの回避。
オークは体を反転させて反対の左腕で今度は打ち上げる様に拳を振り回すが、メイは相手の身体の右側に回り込んで攻撃をかわすと同時に再度右ローキックを内股に叩き込み、そしてその反動を利用するように体を反転させて左拳を脇腹に打ち込む。対角線攻撃である。
「ぶるがぁぁぁ!!」
近いのに遠い。制空圏にいるのに当たらない。オークは怒り狂い、滅多矢鱈に拳を振り回す。しかしそれでもメイは退かない。
一見足を止めての打ち合いに見えるが、しかし打ち合いではない。オークの攻撃は空を切り続け、メイの攻撃だけが一方的にヒットする。
しかしそれでもオークの攻撃が鈍らない。それはつまり、メイの攻撃が軽すぎてダメージを与えられないという事に他ならない。
それは圧倒的な質量差からくる覆らざるものである。
打撃を無数に受けながらも、オークの動きに余裕があるのは『覆らざるもの』があるからである。
それは一見して攻撃を受け続け、やがて消耗して不利になるように感じるが、実像は違う。消耗しているのはメイの方である。
一撃でもかすればそこから致命傷になりかねないギリギリの戦いをいつまでも続けられる筈がない。スタミナも続かないし、精神も削り取られ続ける。一方オークの方は『余裕』があるため、一か八かの賭けに出て大崩れすることは無いのだ。
不利を感じてか、メイが一歩下がった。
好機。
オークはそう感じ取り、右腕を少し大きめに振りかぶっての右ストレート。しかしメイはこれを待っていたのだ。後ろに下がり、そのまま逃げるように見えたメイは逆に踏み込んできた。
右腕で相手の攻撃を上に逸らしながら潜り込むように左足を前に出す。そこから上半身も体のねじれを戻すように捻転し、左手の掌底を突き出す。ネコ科動物が獲物に爪を立てるが如き手が相手の右脇腹にめり込む。
掌底はインパクト時の手首のぐらつきを抑え、全体重を掛けた体当たりの衝撃を余すところなく敵に伝えるのだ。
「猛虎硬爬山!!」
右足の先から左手の掌底までが一直線に並ぶ。右足のつま先からの踏み込みが腰、肩、肘を伝って全ての体重と回転を利用してオークの右脇腹、肝臓を打ち抜いたのだ。
「ぐぶっ……」
衝撃を受けてオークは1メートルほども後ずさりし、土埃を上げる。かろうじて立ってはいるものの、体は大きく「く」の字に曲がり、身動きも取れない。
「このガキ……」
臓腑からようやく絞り出すような声。
しかしその先を告げることは出来ずに片膝をついてうずくまった。
「そんな……馬鹿ニャ」
思わずフェリアも言葉を失った。
信じがたい光景であった。
多少の身体能力向上効果があるとはいえ、魔法少女でも何でもないただのコスプレの十二歳の少女が、素手でオークの膝を折ったのだ。