ブタ野郎
「大分近くなってるニャ」
フェリアの言葉に小走りだったメイとキリエは歩く速度を抑え、息を忍ばせる。さすがにこの頃のキリエはこのくらいで息切れするような体力ではなかった。
「こっ……この近くに、悪魔が?」
蚊の鳴くような小さな声でキリエが囁く。メイは無言でキリエの問いかけには応えず、周囲を警戒しながら少しずつ進む。ガリメラの方ももはやうめき声は出しておらず、一点を見つめて静止している。全員が臨戦態勢に入っているのだ。
おそらくは私有地。とはいえ現在は操業していない廃工場のようである。敷地内はところどころコンクリートを割って雑草が顔を覗かせており、長いこと人の手が入っていないことが窺われる。
「何か音が聞こえるニャ。慎重に」
ネコは人の八倍ほどの聴力を持ち、これはイヌよりも敏感だと言われている。
「ホントだ……なんか聞こえる……これは、咀嚼音?」
フェリアの言葉にキリエも反応した。キリエは先ほどの資材置き場を出た後もずっと魔法少女の衣装のままである(メイも)。変身したことにより人間よりも高い五感を持っているのだ。
「私には全然聞こえないわ」
若干不服そうな声でメイも呟く。
メイとキリエはフェリアの後についてゆっくりと廃工場の内部に侵入していく。建屋内に入るとメイにもその不穏な音が聞こえるようになってきた。それと同時にキリエの方は恐怖で足が竦んでしまったようだった。
「ね、ねえ。悪魔ってどんな奴なの? どうやって戦えばいいの?」
「どんな奴かは会ってみなきゃわからないニャ。戦う方法はさっき言った通り、自分が思い描いたことが力になるニャ。必要なのは強くイメージすることニャ。戦えるのはキミ達2人だけ……」
フェリアは言葉の途中でちらりとメイを見る。
「戦えるのは魔法少女のキリエだけだニャ」
「私も魔法少女なんですけど」
ツッコミを入れつつもメイは表情を崩さず、ゆっくりとガリメラを地面におろすと音を立てないように慎重に前に進む。
赤茶色に錆びた金型の陰に身を隠し、その向こうにいる怪異に全神経を集中する。獣のような荒い息遣いが聞こえる。その周波数からして、人間よりも体格の大きな猛獣のように感じられる。
「め、メイちゃん……」
小さい声をかけながらメイの肩をキリエが引く。
「やっぱり、帰ろ?」
「……?」
何を言い出すのか、ここまで来て。言葉にせずともその険しい目つきからメイの意志をキリエは感じ取る。
「だって、無理だよ。昨日まで普通の女の子だった私が、化け物と戦うなんて。聞こえるでしょ? この熊みたいな呼吸。絶対人間なんかが歯が立たない猛獣だよ?」
「そのための『魔法少女』でしょう」
大きな声を出せないため静かに、しかし力強くメイは言う。しかし親友の膝がガクガクと震えているのが目に入った。
ついさきほどまでキリエを支配していた幼さゆえの万能感、無敵感。小さいうちは誰もが持つ感情でもあるが、大抵の場合『社会』や『大人』、もしくは本当に一握りの同年代の『天才』と戦うことでその幻想はへし折られるさだめにある。しかし今回キリエはどうやら戦う前にもう心が折れてしまったようだった。
(これは……まずいかもしれないニャ)
敵がどの程度の実力者なのか、そしてどの程度敵対的な存在なのかが全く分からない。
マンガやアニメと違って最初に遭遇する敵だからといってぬるい奴だとは限らないのは当然。しかしそれ以前にキリエの方が完全に戦意喪失してしまっているのだ。相手がどうこう以前の状態である。
一方メイの魔法少女の衣装ははっきり言ってスポーツウェアに毛が生えた程度の物。多少身体能力を引き上げる効果があるものの、十二歳の少女が命のやり取りをするのに耐えうるような装備ではないのだ。
ここは、キリエの言う通り敢えてスルーして逃げるのも一つの手ではある。フェリアがそう思い始めた時だった。
「私達が戦わなきゃ、誰が戦うっていうの」
メイが金型の陰から一歩踏み出し、敵の前にその姿を現したのだ。
「ブゴッ!?」
地べたに胡坐をかいて座っているため正確なところは分からないが、ゆうに2メートルにも届きそうな巨漢。相撲取りのように貫禄のある太い胴体に盛り上がった三角筋、そして僧帽筋。その上に鎮座するのはイノシシのような顔と牙。
背を向けて座ったまま首だけをこちらに振り返って見るその容姿は、まるでファンタジーゲームに出てくるオークのような外見をしていた。
「ひっ……メイちゃん、これヤバい。こいつ絶対ヤバいよ」
丸々と太ったその野性的な体は二百キロは越えていそうである。物理的に、敵うはずのない相手。キリエは、すでに気持ちで負けていた。
「キリエ、今更逃げられないニャ! 構えて! 魔法を使うニャ! キリエが戦わないと誰も戦えないニャ!! このままじゃ一般市民にも被害が……」
そう言いかけた時に、視線だけでこちらを見ていたオークが体をねじってキリエ達を確認した。そして、その時に悪魔が座って何をしていたのかも分かった。
その手に持っていたのは、千切れた人間の腕。悪魔の体の向こうには、暗くてよく分からないが、人間の頭部のような物と、腸のようなぐちゃぐちゃしたよく分からない塊が見える。そう、遅かったのだ。すでに一般市民が少なくとも一人、襲われていたのである。
「ブフーッ」
荒く鼻息を吐き出しながら悪魔はキリエ達の方に体を向け、そして立ち上がりながら持っていた腕の肉を噛みちぎってから、ぽいとそこいらに投げ捨てた。
「ひ……ひぃぃぃぃ」
びちゃびちゃと水音がする。恐怖のあまりキリエは情けない声を出して失禁し、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
いくらフェリアが鼓舞しようとも、もはやキリエは戦うどころか逃げることすらできない状態であった。覚悟を決めなければならない。フェリアの目的はすでに『勝利』から『生存』に切り替わっている。
せっかく見つけた魔法少女の才能を持った人間を失うのは痛手だが、この腰抜けが襲われる間に自分だけでも逃げよう。そう考え始めた時だった。
「よくもやってくれたわね、このド汚いブタ野郎が」
メイが、一歩前に出た。