ブランク
「ぜー、ぜはー、ヒュー……」
今にも肺がはち切れそうな荒い呼吸。
「チッ……」
わざとらしいほど大袈裟なメイの舌打ちが深夜の町に響くが、呼吸の主、キリエはそれに何かリアクションを返す余裕もなく中腰になって両膝に手をついた。
「ちょ……タンマ……ぜひゅー、ぜはー」
「悪いけど先に行ってるニャ」
黒猫のフェリアはちらりと飼い主を一瞥すると夜の闇の中に消えていった。
メイはその後ろ姿を見て、大きなため息をついた。
「ここまで酷いとは思わなかったわね……」
「あの、ちょっ……はー、ぜはー、あのさぁ……ぜはー、ひゅー……あの、はぁ、はぁ……あとで……あとで言うわ」
その言葉を聞き取る事さえ困難である。どうやらまだ喋れる状態ではないようだ。
「完全に運動不足ね」
メイはかつての相棒を見下ろしながら冷たく言い放った。
息も絶え絶えの相棒に対し、メイの方は全く呼吸が上がってない。
二十年余りのブランク、二度の出産、だぶついた脂肪。魔法少女の衣装から距離を置いていた空白の期間は、メイのバディから完全に戦う力を奪っていた。
「まだ十分くらいしか走ってないっていうのに……」
期待外れもいいところである。
というか、実を言うと正直戦力としての期待はほとんどしていなかった。現役時代にもこんなことは度々あったのだ。
さすがに十分走ったくらいで前後不詳になるほど疲弊しきることはなかったが、当然ながら普通の少女に命のやり取りなど出来るはずがない。充分に安全な距離で、一方的に攻撃が出来るのなら話は別だが。
実際彼女のメインの攻撃手段は距離を取っての遠距離魔法攻撃である。しかしチャージに時間がかかる。予備動作も大きいので敵が手負いの状態にならないとなかなか当たらない、『とどめの一撃』である。
バディを組んでた頃も、メイが前衛となって近接攻撃で相手を弱らせて充分に隙が出来たところでキリエが魔法で仕留める、という闘いをメインにしていた……が。
実際のところメイが直接戦って充分に弱らせればわざわざキリエにとどめを刺させる必要もないので、殆どの場合キリエは「いるだけ」になっていることの方が多かったのだ。
しかし毎回そう、というわけではなく、もちろん彼女だってギリギリのところで役に立つことはある。それに今回の渦中の人物は彼女の実の息子その人なのだ。
そういうわけでわざわざキリエを魔法少女に戻してまで連れてきたのだが。
「まさかこんなに足を引っ張ることになるとはね……」
「う、うるさいわね!! ……ふぅ」
ようやく息が整って落ち着いてきたようである。
「あのね……こっちゃ専業主婦なのよ? 独り身で毎日自由に走り回ってるあんたと一緒にしないで欲しいんだけど?」
「専業主婦なら暇だから充分体鍛える時間あるでしょうに」
「はぁ!?」
急にデカい声を出すキリエ。いつもながら無遠慮なメイの物言いに引っかかるところがあったようである。
コンビが復活したが、二人の関係性は少女の頃からは大きく変わっている。
明るく社交的で何をやってもみんなの中心人物だったキリエの少女時代。メイは体はやたらデカくてその頃からスタイルも良かったが、今と変わらぬコミュ障な上に、やはりこちらも今と変わらず困ったことがあるとすぐに腕力に頼るタイプだったために孤独で、キリエに憧れを持っていた。
そのため足を引っ張るだけのキリエに対して苦言を呈することなどなかったのだが、しかし今は違う。
成人するよりも早く結婚してすぐに子供を産み、専業主婦として生きてきて、ホストにハマるようなアホ女のキリエに対して、自立した女のメイ。私生活では振るわないものの、社会的地位としてはメイの方が高い。
そのバックボーンが、メイに自信を与え、二人の関係性も変わってきているのだ。当然メイはキリエにはっきりと物を言うのだが、しかし昔の力関係を引きずっているキリエにはそれが我慢ならない。
「あのねぇ! あんた専業主婦がどんだけ忙しいか知らないでしょ!! 掃除に洗濯、ペットの世話も見なくちゃならないし、三食分の献立考えて、毎日作るのがどんだけ大変だと思ってんのよ!!」
「私は働きながらそれしてるけど?」
当然の如く火に油を注ぐメイ。的確に逆鱗をなでなでしてくる。
「あんたは自分一人分でしょうがぁ!! あのね! 専業主婦の仕事ってのは二十四時間、三百六十五日休むことの許されないハードワークなのよ! 年収に換算したら千三百万円になるような仕事量なんだから」
はぁ、とメイは大きなため息を再度吐く。ちなみにこの数字、適当な自給に二十四時間と三百六十五日を掛けただけの結構アレな数字である。しかしもちろんヒートアップしたキリエの怒りは収まらないし、メイの大きなため息はそれにさらに油を注ぐ。
「それに私は子供も二人育ててるんだからね! あんたに子育てがどんだけ大変かなんて分かんないでしょ!!」
「ちゃんと育てられてないから今から二人で助けに行くんじゃない」
この女に手心というものはないのか。
「きぃぃ、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。そんなだからあんたいい年して結婚できないってなんで分かんないのよ!」
「実際に『きぃぃ』って言う人初めて見たわ」
もはやブレーキも聞かなくなり、ぶちぶちと小さな不満や愚痴を言い続けるだけのマシンと化したキリエを見てメイは小さくため息をついた。
どうしてこんなになってしまったのか。
確かに色々と奔放なところはあったのだが、昔はここまで酷くはなかったはずだ。
これが魔法を使った代償だというのならまだ分かるのだが、しかしこの女は十数年ほど魔法を使ってなかったはずである。
だとすれば結婚生活が彼女を変えてしまったのか。
彼女が言っていたことはまるでピント外れではあるものの、実際に専業主婦というのはなかなかにつらい仕事なのだ。
その最もつらい部分が『自己肯定感の無さ』である。
いくら努力しても通常の仕事と違って報酬が上がるわけでも昇格するわけでもない。「成果」が見えにくいのだ。その仕事がどれだけ家族を裏から支えていたとしても。
夫の成功も、子供の成長も、第一には本人の努力と捉えられるものである。その裏でいくら身を削っていた人物がいたとしても、やはり「裏方」でしかないのだ。
それを受け入れる「強さ」を誰もが持っているわけではない。
特に元々社交的で友人間の地位も高かったキリエにはそれが耐えられなかったのだろう。
ハンカチを取り出して汗を拭くキリエをメイは苦々しい目つきで睨んでいた。
(私が望むものをみんな持ってるっていうのに……この女は)
夫婦の仲がどうなっているのかなど彼女には関係ない。家庭でのキリエのポジションも知った事ではない。しかしそれでも、メイが焦がれて望むものを全て持っているのだ。その上で自分勝手な不安を吐き出しているようにしか見えなかったのである。
(こんな覚悟でユキ君を助けられるのか? いや、この女は昔っからそうだ……)
過去の記憶と共に、ふつふつとメイの中に怒りの炎が燻っていた。