楔
「誰か! 誰かお医者様はいませんか!!」
遠くで声が聞こえ、コウジは振り返る。
すぐに行こうとしたが、思いとどまり、再度メイに目を合わせた。
「メイさんが、決して自分の考えを変えない人だということは分かっているつもりです。僕は、あなたのそんな所も好きになったんですから。
ただ、これだけは忘れないでください。あなたの身を、心配してる男もいるってことを」
「な……」
メイは言葉を返すことが出来ず、俯いて背中を向けてしまった。
別に初心なおぼこというわけでもない。
ここまで恋愛というものを全く知らずに育ってきたわけでもない。年相応に経験を重ねてきた女であるが、しかしそれでもここまで真っ直ぐに好意を示されたのは随分と記憶に遠い話であったし、ましてや面と向かって「あなたを守りたい」などと言われたのは間違いなく生まれて初めてのことであった。
「うわ~……顔真っ赤じゃん」
メイの正面に回り込んでキリエが呟く。メイは俯いたまま彼女を手で押して追いやった。
「すいません、けが人がいるみたいなんで、僕はもう行きます」
人ごみの方に駆けていく堀田コウジ。どうやら悪魔の攻撃を受けてけがをした避難民が担ぎ込まれてきたようだ。一次避難先は市内でここだけではない。悪魔の発生も突発的で、医者のいない避難先もあるのだ。
メイは俯いたまま自分の肩越しにコウジの姿を見た。
「どうしたんですか!?」
「骨折してるみたいで……あと、裂傷も。お医者さんですか?」
「任せてください。僕は肛門科医です!」ギュッ
「肛……」
けが人は複数いるようで、コウジはすぐにあわただしくその場で応急処置を始める。
「ふ……ふざけやがって!」
「あ、まだいたのあんた」
ようやく起き上がることのできた山田アキラ。すっかり忘れていた。まだよろよろと頼りない足取りで、とても戦うなどは出来そうにないし、声も弱弱しい。メイからすれば「まだいたの」であるし、せっかく命拾いしたのに「まだ何か用が?」である。
しかも先ほど危機を救ってくれたコウジは離れた場所でけが人の手当てをしているし、先ほど役に立たなかったジャキは彼と入れ違いにひっくり返っており、やはり今度も役に立ちそうにない。
事実彼にここでメイを言い負かす気も、倒す気もなかった。ただ、それでは彼の気持ちが収まらなかったのだ。攻めて何か一矢報いたい。それも反撃を受けず、出来るだけ致命的な一撃を。その一念で立ち上がったのだ。
そして、その『一矢』に彼は勝算があったのだ。
「ハハ……随分な言い様だよな。昔の恋人に対して」
相変わらずの鉄面皮。メイの表情は動かない。しかしただ一点、彼女の眉がぴくりと反応したのをアキラは見落とさなかった。
「同棲までしてたっていうのに、冷たいもんだ」
そう言いながら大仰な仕草で涙をぬぐうような動きを見せる」
もちろん本気で悲しんでいるわけではない。しかしこの数分のやり取りでアキラは気づいていたのだ。いや、流石にこれだけ注目されてる中で隠しもせずにコウジとメイは話をしていたのだから誰でも気づくだろう。彼がメイにとって『アキレス腱』なのだという事を。
ここにきて山田アキラは心底後悔していた。堀田コウジを自らの陣営に引き入れられなかったことを。
まさかメイとコウジが恋仲にあったとは。そうとしていれば全力を注ぎこんで取り込もうとしていただろうに。いざとなれば適当な女を送り込んでハニートラップを仕掛けるという選択肢もあったはずだった。
だが後悔先に立たず。それでも二人の仲に楔を打つことくらいは出来る。
そして彼は知っている。コウジが童貞だという事を。アキラは童貞ではないが、しかし童貞が最もショックを受けるのが何なのか、それは分かる。
「今でも思い出すよ。俺の腕の中で可愛らしい姿を見せてくれたお前の事をな」
喋りながら、振り返らずとも、背後の感覚に気を払う。その背の向こうで堀田コウジが動揺していることを感じ取っていた。
― 童貞は、非処女を恐れる ―
― 特にキリスト教圏を中心に、世界中で処女崇拝の考え方が根強く残っている。日本には中国から考え方が入ってきて、庶民には広まらなかったものの武家社会では重んじられてきた。
― その信仰は『異様』の一言で、処女懐胎やテレゴニーなどという無茶な考え方までも生み出した。
― 但し、近年オタク界での考え方はこれらとは一線を画しており、単に『前の男と比べられたくない』という卑屈な考え方に裏打ちされており、特に童貞は自分が未経験な事の裏返しから根強くこの考え方が残っている。
「お……応急処置は済んだから、す、すぐに保健室に運んで……」
「は、はい……」
周囲にいる人に手早く指示をしてコウジは立ち上がる、が、その足取りはふらふらと頼りない。
(だ、大丈夫だ……)
蚊の鳴くような小さな声でコウジは自分に言い聞かせる。
(落ち着け、大丈夫。こんなもんだよ)
なるべくメイを視界に入れないように、運ばれていったけが人を追って後者に移動しようとする。
(だって最初っから分かってたことだもん。こんなもんだよ! ……だってそうだろ? あんないい女が処女なわけないじゃん。逆に安心したくらいだって!!)
しかし自分を鼓舞する言葉とは裏腹に頼りない千鳥足。数歩歩いてがくりと膝から崩れ落ちてしまった。異常を察したメイがすぐに駆け寄ってコウジを抱き起こす。
「だ、大丈夫? コウジさん……」
「ひっ!? やめろッ! 近づくなァッ!!」
「傷つく……」
頭では分かっていることだ。むしろ三十路過ぎて処女となればそれは相当な地雷と考えてよい。メイが非処女であるのは充分に考えられることであったし、正常な事である。キリエのようなとんでもないモンスターだったなら話はまた別だが。
しかし頭では分かっていても、三十路童貞の彼の本能が思わず彼女を拒絶してしまった。
「あっ、すいません。あの……」
「いえ、こちらこそ……」
咄嗟に傷つけるような言葉を吐いてしまったコウジ。取り繕う様に謝ろうとしたが、そもそも何をどう謝ればよいのかが分からない。
メイの方も、アキラがどんな戦術を使ってきたのかも、コウジが何にショックを受けているのかも、ふんわりとは分かっているものの、しかし解決する方法が分からないし、恐縮するコウジに謝ろうとしたものの、やはり何をどう謝ればよいのかとんと分からぬ。
まさか「非処女でごめんなさい」とは言えないし、言いたくもないし、そもそも別に悪い事でも何でもない。
「くっ……」
遠くでほくそ笑んでいるアキラを睨みつける。
「せっかくいい雰囲気になったのに、とんでもない楔打ちやがって……」




