先ず勝ちて
夜の校舎。
深夜というにはまだ時間があるが、しかし本来ならば人はおらず、夜の帳に人ならぬ魔も息をひそめる刻限である。
しかしこの日は違った。
晴丘市に大量に発生した悪魔の影響により多くの市民が身を寄せ合い、佃煮になっている、その校庭の中心に二人の男女がいた。
そこにエアポケットのように生まれた少しの静寂。
パアン、という乾いた音とともに、メイが少しよろけたような姿勢になっていた。あくまでも暴力による解決に頼ろうとするメイの頬を、山田アキラが平手打ちしたのだ。
少なくとも周囲の人間にはそう見えた。
「…………」
しばし沈黙が続いた。アキラは平手打ちのフォロースルーの姿のまま動かない。しかし、何か様子が変である。
少しずつ周りの野次馬がざわめき始める。
(なんだ?)
(なぜ何も言わないんだ?)
(普通ビンタした理由を上から目線で説く場面では?)
しかしアキラは動かない。
いや、正確に言うと動けないのだ。
よく見ると小刻みに体が震えており、額には脂汗が浮かんでいる。
本来ならば、暴力による解決を主張するメイに平手打ちを食らわせ、そうすることで暴力の持つ危険性を(周りの聴衆に対し)説くはずであった。しかし声が出ない。出せないのだ。
(ぐ……言葉が、出ない。いや、呼吸ができない……)
― マジカルレバーブロー ―
― 魔法少女に伝わる48の殺人技の一つで、メイが最も得意とする技。
― 人体の最も危険な急所の一つである肝臓を狙って打撃を加えることで精神を叩き折る。
― ボディへの攻撃は「後になって効いてくる」とよく言われるが、クリーンヒットなら一撃KOも不可能ではなく、後ろ蹴りなどの強力な打撃ならば、肝臓を破裂させ、一撃絶命の危険性すらある。
山田アキラの身に何が起きたのか。
それを視界に収められたのは古くからの相棒、キリエと、黒猫フェリアの動体視力のみであった。
メイに平手打ちをしたその刹那、同時にメイの左拳がアキラの脇腹を捉えていたのだ。
メイの体幹は彼の平手打ちによってよろけていたのではない。自身の放った左拳のフォロースルーを十分に完了した姿だったのである。
本来ならば後に続く言葉で口八丁、上手いことやって自分のレスバ勝利を周りに印象付ける手筈であったが、二の句が継げぬこの有様。立っているのがやっとの這う這うの体。
相手に物言わせぬのもまた戦場の習い也。
「サイテーね。か弱い女に暴力を振るうなんて」
か弱い女は平手打ちに相打ち覚悟のカウンターでレバーブローなど合わせぬ。
そもそもがおかしかったのだ。あんな大振りの平手打ちを、あの葛葉メイが喰らうなど。痴話喧嘩の作法として、「お約束」のやりとりとして敢えて喰らうのならまだ話が分からないでもない。
だがその「お約束」をぶち壊すのがメイの作法。わざと喰らったのならばその先に何か狙いがあるに決まっているのだ。
メイはスッ、と右手を開いたまま大きく振りかぶった。腰は入っていない。手打ち(※)の打撃。
※手打ち……体重をかけず、腕の振りだけで行う打撃のこと。威力が弱い分体勢が崩れず、素早く出せる。
(ビンタか……普通ならここは喰らう流れだが)
痴話喧嘩ならここはおとなしく喰らうのが作法である。
(違う! ビンタじゃない! 掌底打ちだ!!)
ストロークの瞬間、生命の危機を感じてか、アキラの脳はフル回転した。スローモーションの如く感じられたその挙動の中、メイの平手打ちは手のひら全体での張り打ちではなかった。
同じ掌の内にも部位によって名前が違う。指に近い方は四指球、手首に近い方を掌底と呼ぶ。
この「掌底」を用いた打撃は拳に比べてリーチが短いものの、手首でのぐらつきを押さえ、鈍く響き、状況によっては拳よりも破壊力が高まる。メイほどの達人のそれであれば確実に敵を一撃で昏倒せしめ、場合によっては下顎の骨を叩き割るのだ。
(くっ……仕方ない、かなり情けないが、これは防御するしかない!!)
構図としては羞恥の極みである。自分は相手をビンタしておいて、相手の番になったらこちらは手で防ぐ。「お約束破り」である。
だが背に腹は代えられない。この強烈な打撃をもろに喰らえば、最悪、一撃で命の弦を断ち切られることも考えられる。彼ならば霧になって逃げることもできるが、この衆人環視の中、今自分が「悪魔」であることを明かしたくはない。それはまだ早い。アキラは両腕を上げて自分の左側に防御壁を張り、目を瞑って衝撃に備える。
ずん、と鈍い音がした。同時にめきりという骨にひびの入る音も。
「こっ…………ッ!?」
声というよりは呼吸が漏れた。
防御のために振り上げたアキラの両腕はむなしく虚空を掴んだのだ。代わりに彼の右脇腹には、またもメイの左拳がめり込んでいた。
メイの右手はアキラに受け止められる前に停止、彼女の体は反転し、今度は左足を前に出して深く踏み込み、神速のボディフックを打ち込んだのだ。
― マジカルフェイント ―
― たとえクリーンヒットであろうとも、面と向かって気を張った状態なら打撃というものはなかなかダメージは通らないものである。
― それが大ダメージを与えるのは「気を抜いた瞬間」
― たとえば体勢を整える前の先制攻撃。
― たとえば攻撃時のカウンター。
― そしてフェイントで気を逸らされているときである。
― その一瞬の空虚な時間を作り出すためならば、メイは「茶番」であろうと利用し尽くす。
(またレバー……ッ!! このアマッ!!)
そう思うのが精いっぱいであった。声を出す余裕などない。呼吸すらままならない。膝をついてしまいたい。
「どうしたの? なんとか言いなさいよ」
メイの余裕の笑み。さすがに二発目のボディブローは常人にも目視できた。しかしケンカや格闘技の経験のない人間には、それがどれほど致命的なダメージになっているのかが想像できない。生まれてきたことを後悔するほどのその苦痛が。
「なんとか言え」とは無体である。メイ自身が「何も言えない」ほどの打撃を与えたのだから。
「まあでも……」
当然ながらメイは分かっている。分かっている上で話を進めるのだ。相手が喋れないのをいいことに。
「そうやってはっきり敵対の意志を見せてくれたんだから、私も応じなきゃね」
そう言ってオーソドックススタイルに構える。『応じる』とはもちろん、肉弾戦である。戦いを始めようというのだ。圧倒的に有利なこの状況で。
十分に敵を痛めつけ、しかも逃げられない状況にしてから戦いを始める。なんとも卑怯とも言えるが、これが二十年間戦いの中に身を置いてきた人間の闘争なのである。先ず勝ちて、而る後に戦う。
正義のために戦うならば、ただの一度も負けは許されぬ。卑怯と笑うならば笑えばいい。
(やるしか……ないのか?)
とうとうアキラは膝をついたが、しかしメイは構えを解かない。殺る気だ。ここで悪魔であることを明かすのはまずい。市民への被害も出て、避難もしているこの状況。それを明かせば彼らの怒りは一気にアキラに向かおう。
それでも命には代えられない。霧になって逃げるしかないか。
とはいうものの、呼吸もできず立ち上がることもできず、当然能力は使えない。
すでに詰んでいるのだ。とんだ失着である。
「待った!!」
しかしそれを止める者がいた。