大脱出
暗闇の中に。
少女の身体が舞う。
月明りに照らされ風になびく少女のワンピースの裾は、さながら波漏れ陽に咲くウミウシの如く。ビルの谷間を舞い落ちる。
しかしその時不思議なことが起こった。
少女の身体がもうすぐ地に届く、地面に衝突し血の花を咲かせようというその時。ウミウシがまさに岩の間を泳ぐように、少女の身体がふわりと浮いたのだ。
そのまま少女の身体は落下速度が減衰し、下で待ち構えていた少女……いや、少年に抱きかかえられた。
「ユリア! 大丈夫?」
「あ……ユキさん」
スケロクとアスカによるサザンクロス襲撃の数日前。
やはりアスカの看破した通り、ユリアは生きていた。
「いつまでも抱き合ってないで、さっさと身を隠した方がいいんじゃないのぉ?」
ビルの影から二人に投げかけられる少女の声。ユキは名残惜しそうにユリアから体を離すと、急いで近くの小さな路地に走っていった。
「はぁ、はぁ、凄い。こんなに上手くいくなんて……ありがとうございます、ユキさん」
「言ったでしょ? 二人で協力すればきっとうまくいくって」
「ちょっとぉ!」
追手が来るかもしれない。少なくともユリアの死体を確認しに来る人間がいるはず。そう思い、サザンクロスから距離を取りながら会話していた二人。そこに不満げに声をかけるもう一人の少女。アッシュブラウンのボブカットの、少しキツイ表情でユキとユリアを睨む。
「助けたのは私なのに何二人だけの世界に没入して語りあってんのよ!」
「ま、マリエさん、分かったから。分かりましたから、今はとにかく逃げないと!」
ユキに宥められて、舌打ちをしながらもその少女、赤塚マリエはおとなしく二人の後についてくる。繁華街を出て、住宅も増えてきた頃にようやく三人は立ち止まった。
「ここまでくれば……とりあえずは」
額の汗を拭ってユキがそう言うと、マリエが二人の間に割って入った。
「えっと……」
マリエは無言である。
「あ、ありがとう」
にんまりと。笑顔になった。
ユキはふう、と安堵のため息を漏らす。どうやら思った通り感謝の言葉を待っていたようだ。
正直言ってユキはこの少女の事が少し苦手だ。何を考えているのか分からず、「何を考えているんだ」と思うような行動を平気な顔でする。他人の迷惑を考えず、自分の取りたいと思った行動を躊躇わずに行うのだ。
彼女の印象は、正義の味方の魔法少女というよりは、まるで彼を二度にわたって誘拐した、あの悪魔のような。
「まっ、正義の味方の魔法少女としては困ってるガキんちょどもを見捨てるわけにはいかないしねぇ~」
そう言って高笑いするマリエに、ユキはまるで自分の考えを見透かされたかのようにびくりとした。
「それにしてもすごいですね、魔法って。あんなのユキさんもできるんですか?」
「いや、ボクは……」
「ざぁんねん。このヘタレチェリーボーイはいまだになんの魔法も使えない役立たずなのよね。男としても男の娘としても、ぜぇんぶ中途半端。ったく、何のために魔法少女になったのかしらね」
マリエの発言に深い意図などない。ただ、なんとなくユキに対してマウントを取りたいから口を開いただけである。
ユキは彼女にさげすまれたことへの不満よりも、先ずなぜそんな事をしようと思うのか、その真意が測れないことに恐怖を覚える。
自分とユリアの身柄をサザンクロスから逃がしてくれた恩人ではあるが、場当たり的な行動にしか見えないのだ。
「本当に、ありがとうございました」
そう言ってユリアはマリエに頭を下げた。両手を前にし、深く腰を曲げた最敬礼だ。
「あら、ユキと違ってダッチワイフの方が礼儀がしっかりしてるじゃない。分かってるわね」
「本当に……これで、スケロク様に会える可能性も……」
最後の方は声が震えていた。彼女にしてみれば、前回のスケロクの襲撃が失敗に終わり、もはや会えないものとあきらめていた想い人との再会の目が出てきたのだ。ユキは複雑な表情で、まだ顔を上げずに最敬礼をしているユリアを見る。
「もう、無理だと諦めかけていたのに……」
ぽたり、ぽたりと路上に雫が落ちた。街灯の光を受けて、宝石のようにきらりと輝いて、アスファルトにしみを作る。
「なみだ……? そんなに、スケロクさんの事を……」
「じゅる、いけない。スケロク様との情事を思い浮かべたらヨダレが」
「ヨダレかよ」
「それはそうと、あんた達こっから先はどうする気なのよ」
二人がとりとめのない会話をしているとマリエが尋ねた。先ほどマリエの事を「場当たり的」と評したユキではあるが、実の事を言えば、彼も同じように場当たり的である。
あの場所にいることがユリアにとって良くないことは分かっているのだが、だからと言ってこの先に身を隠せる場所があるわけではない。
もう白石家にはいくことは出来ない。ならばいっそのことスケロクの元に身柄を預けるという選択肢もあるが……
「スケロクさんは今は病院だから家には匿えないわよ」
マリエが先回りして答えた。
現在スケロクは自宅を開けて病院に寝泊まりしている。個室とはいえ、半分公共の場である病院に人一人匿うことは出来ない。
だったらユキの自宅はどうか。
ゾッとする案だ。自宅にユリアを匿っていた白石浩二がいったいどうなったのかは誰もが知っていることだ。DT騎士団の襲撃はただの暴力ではない。ヘタを打てば家族全員が社会的死刑を受ける可能性がある。
「あとは……警察か、メイ先生の家か……」
少し考える。
しかし公権力をどこまで信用していいものか。スケロクは信用できると思うが、警察組織は信用できるのか。何故ならついこの間「ユリアは人間ではない」と正式に閣議決定されたばかりなのだ。
この閣議決定、質問主意書にはおそらくDT騎士団の息がかかっている可能性が高い。ならば公の場にユリアが出ても「人間でない」ユリアが公的に保護されるとは言い切れないし、最悪の場合立場の不安定なユリアに救いの手を差し伸べるのはDT騎士団、という事にもなりかねない。
ならばメイの家か。
「でも……メイ先生だって一日中家にいるわけじゃないしな……むしろ家にいない時間の方が多い」
ぶつぶつと独り言を言いながら考えるユキ。メイは魔法少女である前に中学校教師であるし、現在も折に触れて野良の悪魔を狩っている。家を留守にする時間が長いのだ。
この時ユキがメイの家に居候している四六時中ヒマな中年女性の存在を知っていれば考えも変わったかもしれないが、メイに預けてしまうのも危険だと考えた。
考えても考えてもいい案が浮かばない。そもそも一介の中学生に人間一人を保護するなどということ自体が無謀だったのか、とユキが思い至り始めた頃、ねっとりと鼻にかかるような女性の声が投げかけられた。
「お困りのようですねェ」