ユリア2号
「まさか……死」
「いや、死んではいない」
白目を剥いて仰向けにひっくり返っている網場。スケロクとアスカは恐る恐る彼の傍に近づいた。ズボンの股間辺りが何かの液体でべっとりと濡れている。
「イカ臭ッ!?」
アスカが思わず顔をしかめて鼻と口を手で押さえた。生臭い様な、青臭い様な、嫌悪感を催す匂い。
そうだ、思い出した。有村ユキの母親であるキリエが掃除機みたいな音を職員便所で出した後に、こんな匂いを醸し出していた。
「おら、いつまで寝てやがんだ、起きろ」
スケロクはその匂いが大して気にならないようで、網場を蹴り飛ばして無理やり起こそうとする。ローターが抜けてしまったからか、通常時の大きさに萎んでしまった網場の体は大した抵抗もなく、人形のように床を転がった。
「ちっ、まあいい。そんな事よりユリアだ」
よくよく考えてみればもうこの男に用はないのだ。スケロクは小走りでユリアの元に駆け寄った。
「ユリア! ユリ……」
何かおかしいとは思っていた。いくらふさぎ込んでいるとはいえ前に来た時からそう時を置かずして来ているというのにこの短い期間で心を無くしてしまったなどということがあろうか。
スケロクの抱えていた小さな違和感が形になった。
「これは……」
ユリアの肩に手をかけ、スケロクが驚愕する。
「に、人形!?」
「ユリアさん元々人形だと思いますけど」
「フッ……」
アスカのツッコミを無視して、彼らの後ろでアミバが自嘲的に感じられる笑いを見せた。彼はいつの間にか起き上がって、事務机を背もたれにして床に座り込んでいた。
「ユリアは……ユリアはもう、いないのさ」
「なに!?」
スケロクと網場は大まじめだが、アスカはそのやりとりになんとなく白けたものを感じていた。これは恐らく、前に感じたものと同じ。なんとなくまた符丁のような物が始まったような、そんな気がしたのだ。
「俺はユリアの心を手に入れるため、ホストクラブに来る女どもから搾り取った金で、彼女にプレゼントをした……だが」
――――――――――――――――
「私の心は変わらないです」
ユリアは瞳から一筋の涙をこぼした。
「ですが、あなたは私の心が変わらない限り同じことを続けるんでしょう」
「なんかユリアさんの話し方変わってません?」
ユリアは、この最上階の窓を開けながら言った。
「罪もない女性が何人も苦しみ、風呂に沈んでいく……そんなこと、私には……」
――――――――――――――――
「ユリアが……身を投げただと……?」
網場は、悲しげな眼をしながら自嘲的に笑みを浮かべた。
「ユリアのために作ったこのサザンクロスが……あいつの墓標になってしまった」
「いやサザンクロスはユリアさんが来る前からありましたよね?」
「あのさあ」
網場がイラついた表情でアスカを睨みつける。スケロクも少し不満げな表情だ。
「自分なんなん? さっきから」
「何なのって、言われても……二人のお話がなんかおかしい方向にいってるから」
「いや普通さあ……なんなん?」
網場は相当頭にきているようで、喋ろうとしても言葉に詰まってしまう。
「さっき回想の中にまで入ってきてツッコミ入れたやん? あんなんマナー違反やんねえ」
知らんがな。
「ユリア……そんな、俺は……」
窓枠に寄りかかり、スケロクは町の夜景を見る。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「いや大丈夫ですよ」
アスカは相変わらず空気を読まない。
「大丈夫? どういうことだ?」
「だって……」
アスカは網場の方に振り返る。どうやら彼は一時的に半身不随の状態になってしまったようで、まだ脱力して事務机に寄りかかって床に座っている。
「そういうパターンじゃないですか」
「どうゆうこと?」
少しイラつくアスカ。今までさんざん符丁のような『お約束』っぽいやり取りをしてきたというのに何故こんなとこで急に素に戻るのか。
「ユリアさん絶対生きてますよ。高層階から飛び降り自殺したと見せかけて、誰かが助けたとかいうパターンですって! 絶対!!」
「なんで?」
パンッ
フロアに乾いた音が響いた。
驚きの表情で自分の頬を押さえるスケロク。
「なんで今殴ったん?」
アスカがスケロクの頬に平手打ちをしたのだ。アスカの苛立ちはもう限界である。
「もういいから! サザンクロスの人間が来たら面倒だからさっさと逃げますよ!!」
「もうちょっと余韻ってものを……愛する人が失われて、力が出ない」
「アンパ〇マンですかあんたは! ほら、ユリアさんが恋しいならここに似たのがもう一体ありますから!!」
そう言ってアスカは椅子に座らされている偽ユリアに手を伸ばす。
「やめろ! それ経費で落ちなかったんだから!! オリエンタル工業製の同じ型式の奴で三十万もしたんだぞ!!」
「うるさい!!」
アスカが顔面に蹴りを入れると網場はおとなしくなった。
「とにかく逃げますよ!!」
アスカの危機管理能力はなかなかのものである。確かにここにスケロク達がいることはすでに網場にバレてしまっているのだから、今日は他に幹部がいなかったとしても、いつサザンクロスの人間が踏み込んでくるとも限らない。目的が失敗に終わった以上早く退散するに越したことはないのだ。
アスカに手を引かれて、心残りがありながらもスケロクもおとなしく彼女に従って階段からビルの外へと脱出していく。
「ユリア……」
ビルを出て、少しするとスケロクがユリアの名を呟いて立ち止まった。アスカは止まりはせず、スケロクの手を引いてゆっくり歩きながらも彼に尋ねる。
「スケロクさんは……ユリアさんを助け出してどうするつもりなんですか」
スケロクはゆっくりと歩きながら俯く。彼自身、「助けなければ」という気持ちはあるものの、しかしその先の展望があるわけではない。
「さすがに、『前と同じように』なんて考えてはない。今の、普通の女の子と変わらないユリアと、する気にはなれないしな……」
ホッと胸をなでおろすアスカ。スケロクにもどうやら良識と呼ばれるものがあったようだ。しかし彼女の胸の中には何とも言えないもやのような物が残った気がする。
自分と同年代の少女に向けられるスケロクの恋慕の情に対して少し引っかかるものがあったのだ。それが彼に対する恋心なのか、それとも一緒に暮らしたことによって父親のように慕っているのか、そこは判別できなかった。
彼女自身は、スケロクの事もユリアの事も、少しだが直接言葉を交わして知っている。出来る事なら二人には幸せになってほしいとは思っている。少なくとも彼女自身はそう考えている。
「本当に……ユリアは生きているんだろうか」
「大丈夫ですよ。多分……南斗誤射精とか、なんかそんな感じの名前のポッと出の人達に救出されてますよきっと」
「あ……」
「どうしました?」
会話の最中にスケロクが小さな声を上げて顔色が青ざめた。
「マリエちゃんの事忘れてた」
「あ……」