符丁
「今の俺にはお前など敵ではない。大人しくユリアを返してもらおうか」
ぎりぎりと手首を締め上げるスケロク。
「貴様の執念などそんなものか?」
鋭い目つきでスケロクを睨みつける網場。
そして会話についていけないアスカ。
そもそもスケロクの言った『今の俺には』とはどういう意味なのか。以前来た時と何かが違っているとも思えないし『執念』云々の話など前回していなかったような気がする。
むしろこの間の襲撃時から考えれば、スケロクはまだ体が全快しておらず、弱体化しているはずである。
さらに言うなら網場の言い分はまるで前回は彼がスケロクを圧倒していたような言いぶりであるが、前回網場がからくも勝利したのはあくまでもジャキの助力があってこそ。彼自身は激振肛を発動してもスケロクの動きに翻弄され、腕ひしぎを極められる直前だったように記憶しているのだが。
何もかもが分からない。
このおっさん二人は一体何の話をしているのだろうか。
「むぅん!!」
網場はようやっと掴まれた腕を振り切り、間合いを取った。
「俺を見下したようなセリフは吐かせん!!」
網場は矢継早に攻撃を仕掛けるが、その全てはスケロクに見切られている。やはり通常の戦闘ではスケロクが一枚上手のようである。
「フッ、逃げ足だけは早くなったようだな」
網場が負け惜しみのようなセリフを吐くのだが、間合いを取ろうとして数歩歩くと急に肩を押さえた。気づけばスーツが破れて、その部分の皮膚が青黒く腫れている。
「安心しろ、秘肛は外してある」
やはりアスカには話が分からない。
秘肛を使うのは網場の方じゃなかったのか。先ほどの網場のセリフも前の状況と繋がらない。「逃げ足だけは早くなった」と言われても、前回はスケロクはスピードで網場を圧倒していたはずである。
アスカはなんだか泣きたくなってきた。
せっかくスケロクの身を案じてついてきたというのに、当の本人はまるで符丁のように網場にしか分からない会話で彼女を置いてけぼりにするのだ。
「やはり貴様を倒すためにはこの技しかないようだな。激振肛!!」
なんとなくだが、ようやく会話の軌道が元に戻ったような気がする。
体に電気が走ったかのようにビクンと網場の身体が大きく脈打ち、そして前と同じように二回りも体が大きく膨張した。
「お前は前回ジャキの邪魔さえ入らなければ勝てたと思っているようだがな」
アスカもそう思っている。
「それは大きな間違いだ。俺はあの状態からでも力づくで腕ひしぎを外すことが出来た」
いずれにしろ、ほんの数分拳を合わせればその答えは出るのだ。スケロクは慎重に間合いを詰める。
指先が触れ合い、弾丸の如き神速の拳が発射される。
激しく立ち位置が変わり、右に構えたかと思えば左に。左に構えたかと思えば右に。変幻自在にして体幹には一切のブレもない。喧嘩巧者のスケロクの立ち回りに対して、網場は足を止めて踏み込むことなくその場から拳を放つ。
いなし、崩し、引き倒し、出来ればグラウンドの攻防に持っていきたいスケロクではあるが、網場もそれは分かっている。だからこそ深く腰を落とし打ち合うのだ。
単に相手の事を舐めているからフットワークをさぼっているのではない。圧倒的質量差、筋量差をスケロクが埋めるにはグラウンドしかないと、この男も理解しているのだ。
激しい攻防の中で、段々とスケロクの動きがワンパターンになり、目的が現状維持に変わり始める。攻めあぐねているのだ。
一旦間合いを取って額の汗をぬぐう。
「ふふ、どうした? 俺ぐらいなら何とかなるんじゃなかったのか?」
余裕の笑みを見せる網場。対照的にスケロクの顔には焦りの色が見える。
当然だ。こちらは既に手の内をさらけ出してしまっているのだ。
力とは、質量である。
言うまでもなく。強さとは力であり、それは質量。圧倒的に強いのは、網場なのだ。スケロクはそれを『技』と『敏捷性』でひっくり返さなければならない。そして戦いが長引けば長引くほど、『技』は相手に知られ、スタミナが失われるにつれて『敏捷性』も失われていくのだ。
「アスカ……」
はあはあと息を切らしながらもスケロクが後ろでじっと見ていた少女に声をかけた。
「手を出すなよ」
正直言うと彼女も少し考え、迷っていたのだ。自分が何かすべきではないのかと。これではじわじわとスケロクがなぶられるのを見ているだけになってしまう。ならば、何か自分にできることは……と考えていたのだ。
「賢明な判断だな」
網場もスケロクの言葉に賛同した。
「聞いているぞ。魔法少女のリスクをな」
「なに!?」
なぜお前がそれを、というスケロクのリアクション。そう思うのも当然であるが、たしかに網場は知っているのだ。黒猫のフェリアからジャキを経由して聞いているのである。
「やはり知らなかったか。魔法少女が魔法を使いすぎるとな、記憶を失い、前頭葉が委縮し、理性を失うんだとよ」
二人の表情が戦慄する。このことをマリエは知っているのだろうか。
「外見からも分かるぜ。ウィッチクリスタルってあるだろう?」
網場はトントンと自分の胸の辺りを指差す。そのアクションを見てアスカも思わず自分の胸の辺りに手を当てた。
「あれが、黒く濁るらしいぜ」
今もネックレスにして身に着けている。
あまりにも怖くて、取り出して確認することは出来なかった。
大丈夫だ。黒く濁ってなどいなかったはずだ。最後に見たのがいつだったかははっきりは覚えていないのだが、しかし記憶の中では透き通ったガラスのような色だったはず。
確信はあったが、しかしそれでも今ここで確認する気にはなれなかった。
しかしそこで思い至ったのは幼馴染みの友人の事である。
「マリエ……マリエは?」
「ん~、何がだ?」
「マリエのウィッチクリスタルは! 今どうなってるの!!」
思わず怒鳴りつける様に尋ねてしまうアスカ。しかし網場は余裕の表情を崩さないどころか一層楽しそうに笑みを浮かべている。
「ふん、知らんなあ。そもそも女子中学生の胸元をそんなじっくり見つめたら事案だろうが」
「俺は割とよくやるぞ」
「だが、確か黒く濁っていたような気がするなあ~。そうだ、完全に悪魔化すると、前頭葉が黒味を帯びるらしい。こうなるともう人に戻ることは不可能。なんならあいつの頭をカチ割って確認してみるといい」
「そ……そんな」
冷静に考えれば、今ここで網場の言葉など真に受けても仕方ないのだが。
だがそれでもアスカはショックを受けてよろよろと後ずさりした。
「アスカ、落ち着け」
実際にマリエのクリスタルがどうなっているのかは分からない。しかしおそらく網場はこの場から戦力を少しでも削ぐためにアスカを精神的に追い詰めているのだろう。それでも。
「うそ……よ」
アスカは背後にあった事務机にぶつかり、もたれかかる様に体を預けた。
それでも、たとえ最近は折り合いが悪く、疎遠になっていたとしても。自分達を裏切って敵に協力していたとしても。それでも彼女にとっては幼馴染みの、かけがえのない友人なのだ。