先制攻撃
「え? いや……ハッ!?」
それまで冷静沈着を保ち、余裕の笑みを見せていた網場の表情が崩れた。
葛葉メイとはまだ2メートルほどの距離があるものの、彼女の迫力に押されて少し後ずさる。
「今から」
メイはスーツのボタンを外す。零れ落ちそうなほどの大きな胸がスーツの合わせを開く。
「てめえを」
ゴキゴキと指の関節を鳴らす。
「ぶん殴るつってんのよこのゴキブリ野郎」
予想外の事態であった。普通に考えれば網場の体格は百八十センチを超えた筋骨隆々としたものであり、いくらメイが大柄な女性と言えど勝てる見込みはない。しかし相手は二十年もの間化け物と戦い続け、そして勝利し続けてきた魔法少女である。その実力は折り紙付き。
まさかこの衆人環視の中で暴力行為に及ぶなど思いもよらなかった。
いや、及ぶはずがない。ぎりぎりで網場は踏みとどまった。
それは「衆人環視の中だから」という甘えた考えではない。
もしこの女が本気で実力行使に出るというのならば、「今から殴る」などという「予告」は決してしないからだ。それは「先制攻撃」という最強のカードを自ら捨てる行為だからである。
「ここで私があなたを殴れば」
半ば予想通りであったが、メイは構えた拳を下ろした。
「私は警察に逮捕されるかもしれないけれど、あなたが殴られる事態は回避できないわね。どうする? 専守防衛が成り立たないわよ?」
「ま……周りに止める人間がいる。正当防衛も成り立つ。あなたが言ってるのは絵空事だ」
「どうかしら? 私は周りの人間が止める前に一撃で確実にあなたを殺すけどね」
そう言ったメイの眼差しは恐ろしく冷たかった。
一連の会話からこれが『仮定』の話だとは分かってはいるのだが、しかしいつでもそれを実行できるのだぞ、という極めて現実的な脅迫にも見えた。
「それとも……私の『暴力』を『専守防衛』できるかどうか、今から試してみる?
あんたが私の幼馴染にやったのと同じことを、ここでやり返してやってもいいのよ」
「ま、待て! 落ち着け!!」
「落ち着け……?」
「あ、いや……落ち着いてください」
体育館の一番奥で、コウジもまた網場と同じように戦慄していた。
これではまるっきり狂犬ではないか。何でおれはこの女に惚れていたんだ、と自分の感性を疑い始めていたのだ。
「なんか……夢から覚めた気分だ」
堀田コウジが『暴力』に頼ったのは生涯で一度きり、DT騎士団の夜王とジャキに襲われた時のみである。この壇上での異様な光景を見て引かないわけがないのだ。
「それでもあなたは、暴力には屈しないで、平和を守れるというの?」
メイが問いただすと、網場は大きく深呼吸を何度かした。しかし怒りが収まらない。恐怖もだ。彼の本能が告げる。「やはりこの女は危険だ」と。
山田アキラが掲げてDT騎士団が従った方針、「何が何でも葛葉メイを社会的に排除する」というキャンセルカルチャー路線が間違っていなかったのだと確信した。
「当たり前だ!!」
突如として網場が大きな声を出した。メイは内心ほくそ笑む。
「暴力を許してしまったら一部の力を持つ者だけのやりたい放題の世界になってしまう! 人はフランス革命以来自由と平等を目指して生きてきた! それと真っ向から敵対してきたのが暴力だ!」
「あら、でも自由と平等は並び立たない思想だけど?」
「なに?」
「そうでしょう? 自由が尊重されれば暴力に限らず能力の高い人間が富を独占することになる。逆に平等を実現しようとすれば人は自由のない管理社会の中で飼育されることになるわ」
思わず網場はうめき声を上げる。
迂闊な発言を誘き出したメイの戦略勝ちである。暴力的な雰囲気を見せたメイにあてられて、網場はそれに負けまいと気勢を上げた。
しかし網場が勢いづくと一方のメイは声のトーンを落として冷静にそのあらをついてきたのだ。押せば引き、引けば押す。敵ばかりが消耗し、狼狽え、メイの手のひらの上で踊らされる。
いや、そもそもがここでメイを揶揄するような発言をすること自体が間違いであったのだ。メイを攻撃するのならば、あくまでもそれは生徒や市民にやらせるべきであり、DT騎士団が矢面に出るべきではなかった。
仮にメイが壇上に上がってくるような事態になったとしても、そこは平身低頭して謝って引いてもらうべきであった。
だがこの愚かな男は彼女の挑発に見事に乗ってしまったのだ。愚か故にアキラやジャキのようなアドリブもきかず、このどん詰まりの状況から抜け出す手も浮かばない。
はっきりと言えばメイはただの暴力装置ではない。
屁理屈も得意なのだ。いつも彼女の屁理屈に振り回されている教頭ならばそれを知ってはいるが、DT騎士団の連中はそうはいかない。
「は、話しが逸れている」
何とか反撃の目を見出そうとする網場。
「いいか、人は話し合い、分かり合える生き物だ。だというのにいつまでも人間同士争っている。他の動物は同種族同士で戦争なんてしない。サルとヒトの一番大きな違いは何かわかりますか。サルは武器を持って殺し合いなどしません。サルよりも賢いはずのヒトが何故いつまでも争いをやめられないのか!」
途中から『講師』である自分の喋り方を思い出した網場。キャラが定まっていないその語り口はいっそ滑稽ですらある。
「ふぅん」
メイは腕を組み、艶めかしい笑みで以てそれを見遣る。網場とは対照的なその態度は、この場にて誰が優勢で、誰が劣勢であるかを際立たせ、観衆にそれを印象付けるに十分である。
「何故ヒトだけが争い合うのか、それが分かりますか!?」
「生きてるからよ」
「あ?」
おそらくはここから先が網場の『見せ場』、『山場』であったのだろう。その一瞬の『溜め』を見破ってメイが言葉をさしはさんだのだ。しかもその言葉の『意外性』に網場は言葉を止めて聞き返してしまった。
話の流れを無視していると感じたからだ。
動物とヒトの違いを話していたはずなのに「何故相争うのか」という網場の言葉に楔を打ったメイの言葉は『生きているから』だった。
一見これは大いなる矛盾の言葉に映る。なぜならば当然ヒト以外の動物も「生きている」からだ。だから思わず網場も聞き返してしまったのだ。
「何を……」
「ライオンの天敵が何か、分かる?」
すかさず反論しようとした網場の機先を制してさらにメイは言葉を続ける。先制攻撃こそメイの身上だ。
「ヒト……」
「ライオンの天敵は、ヒトと、ライオンよ」
またも先の先を取る。
「まずいな……」
教職員の席で講演を聞いていた山田アキラ。
彼はすでに網場の敗北を見透かしていた。