カムリ
「ユキさん、学校に行かなくていいんですか?」
昼日中のサザンクロスは静まり返っている。母体がホストクラブなのだから当然と言えば当然なのだが、ここにあるNPO法人で『保護』されている人間も日中は友人の家に遊びに行ったり町に繰り出したりで、結局のところ日中はこの建物内部はがらんとしていることが多い。
そんなNPO法人のフロアの一角で、大きめのゆったりとしたソファに座って何やら本を読んでいるダッチワイフの少女ユリア。
「いいの……あんなとこ行ったって気分悪くなるだけだもん」
そのユリアに寄り添う様にソファに寝転がる有村ユキ。中学校のセーラー服を着てはいるが、時々顔を出すくらいで、殆ど学校に行っていない。
最近は何をするでもなくここでゴロゴロして、ユリアと一緒にいることが多い。
今も本を読んでいるユリアに猫のように頭をこすりつけてまどろんでいるところだ。
「いいなあ……ユリアは行けるものなら是非学校に行ってみたいです。お友達もいっぱい欲しいですし。穴兄弟もたくさん作りたいですね」
十八歳未満は禁止なのではなかったのか。しかし下ネタ製造機のこの女に何を言っても無駄かと思ったユキは特にそこに言及することもなかった。
今はただこうしてまどろんでいたい。少女特有の不思議な柔らかい香りに包まれて、母の腕に抱かれる赤子のように惰眠を貪る。
「ユキさんは、なぜ魔法少女になったんですか?」
しかし密着するほどの距離でもぞもぞ動かれるのが気になるのか、ユリアは折に触れてユキに声をかける。それを受けるユキの方も嫌ではないようだが。
「別に……大した理由はないよ。魔法少女になったら、退屈な日常がなんか変わるかな? って思っただけ」
「退屈なんですか?」
問われてユキは少し考えこむ。
自分は本当に毎日が退屈だったのだろうか。新しく中学校にも通って、友人もできた。勉強の内容も当然新しい事ばかり。退屈かと問われれば、別にそうでもない。少なくともここで本ばかり読んでいるユリアに比べれば幾分か刺激の多い毎日だったように思う。
ただ、なんとなく閉塞感は感じていた。
このままなんとなくレールに乗った人生を生きて、他の人と同じように成長して、他の人と同じように大人になる。そこになんとなく『寂しさ』を感じていたのだ。
せっかく生まれて来たのに、自分の人生は他の人とそんなに変わらない。他者を凌駕するような素晴らしい才能があるわけでもないし、メイのような激烈な生き方もできない。
そうだ。自分がなぜあの女に反発してしまうのか、その理由が少しわかった。泰然自若として他人に媚びず、強い『自分』を貫き通す意思。あの女の『強さ』とは単に戦闘能力だけではないのだ。
それに憧れを抱きつつも、決してそうなれない自分。彼女は眩しすぎたのだ。ユキにとって。
「もしかして、女装してるのも『退屈だから』ですか?」
何の気なしに核心を抉ってくるユリア。
ユキはそっぽを向いて目をつぶったが、ユリアは変わらず優しい微笑みで見つめてくるだけだった。
この女も眩しい。
周りから見れば悲惨な境遇の生まれとしか見えないのに、どうしてこんなに朗らかにいられるのか。バカにしか見えないのに、突然真理を突いてくる。
その眩しさに耐えられないから、自分のものにしようとしたが、拒否された。
自分のことは拒否してくるくせに、こちらの心の中には土足でずかずかと踏み込んでくる。
「ユリアは退屈じゃないの? 本ばっかり読んで。そろそろ男が欲しくなってくるんじゃない?」
意地悪な表情を浮かべて、ユキが尋ねる。
ユリアは途端に柔らかかった表情が消え、開いていた本をパタンと閉じた。
「ユリアはですね……別にそんなにセッ〇スが好きなわけじゃないんですよ」
今更どの口が言うのか、とは思ったが、ユキは黙って彼女の話を聞くことにした。
「下ネタを言うのも、ただ単にギスギスした空気を和らげたいだけなんです。別に退屈だとか退屈じゃないだとか、ユリアはそんなことは気になりません。ただ……今はただ……」
ユキと目を合わせず、少し上を向き、天井を見つめて話していたユリア。その大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れだした。
「スケロク様に、会いたい」
ズキンと胸が痛んだ。
手に入れたいと思った彼女の心の中には、もう既に別の男がいたのだ。頭では分かっていたはずなのに。それでもユキの胸は締め付けられるように痛んだ。
「ねぇ……なんとかして、ここから逃げ出そうよ」
ユキがそう話しかけるとユリアは真剣な表情になって、少し俯いた。その暗い顔に込められた感情は、決意か不安か、それとも恐怖なのか。
「何故、サザンクロスの人達がユリアにこだわるのか……わたしは、ただの、何の力もないダッチワイフです。スケロク様や、アスカさん達のような力もない。
見たでしょう。今も見ているでしょう。これだけの施設を運営する彼らの力を。スケロク様やメイさんを撃退した力を。ユリアの力では、逃げ出す事なんて……」
「ボクが!!」
ユキはユリアの肩をがっしりと掴んで力強く叫んだ。
「そうだ、ボクならきっとできる。ボクは最強の魔法少女らしいんだ! ボクと一緒に来て、ユリア!」
ほんのりと、ユリアの頬が上気した気がした。
しかし次の瞬間、ユリアはゆっくりとユキの腕を外し、そして眉根を寄せて、困ったような笑みを浮かべた。
「お気持ちはありがたいです……けど、私みたいなダッチワイフのために、ユキさんが危険を冒しちゃいけません……」
「ユリア……」
おそらくは本心からユキの事を心配しているのだろう。彼女が嘘を吐いたところは見たことがない。しかし拒絶の意思をはっきりと見せられたユキは一瞬意識が遠くなりそうになった。
その愛らしい外見と人に取り入る仕草で常に周りの耳目を集めてきたユキ。しかしまたも彼の言葉はユリアには届かなかったのだ。
ショックのあまり目の焦点が少し遠くを捉えた瞬間、部屋のドアが少し空いているのが見えた。そしてそこから覗く男の視線にも気づいた。
(網場……まずい、今の話を聞かれたか? どこまで聞かれたんだ?)
冷や汗がユキの額を伝う。網場はゆっくりとドアを開け、薄ら寒い笑みを浮かべて入室してきた。落ちくぼんだその不気味な瞳には、恐怖心を掻き立てる。
「ダッチワイフにふられてやんの」
「ぐっ……」
とりあえずは重要なところまでは聞かれていなかったようだ。それにしても。
「ダッチワイフにふられる奴とか初めて見たわ。かわいそ……」
確かになかなか見られない光景ではあるが、どうもこの男の言動は、少し幼稚である。ユキはぎりぎりと歯噛みし、その愛らしい顔には似つかわしくない険のある表情で網場を睨みつける。怒り、憎しみ……そして若干の恥ずかしさ。
「網場さん達も、かわいそうな人達です」
「なにっ?」
「本当の愛も知らずに、クリスチャンの皮を被って愛を語る。ユリアには滑稽に見えます」
「なんだあっ」
唐突に愚弄された網場の表情は、怒りというよりは困惑の色が強いように見えた。
「同じ皮かむりの童貞でも、ユキさんの方がよほど愛を分かっているようにユリアには思えます」
「ぬあああああ!!」
ユキの怒りが、爆発した。