7.まんざらでもなさそう
文化祭までの一か月は、案外忙しく、飛ぶように時間が過ぎた。
ぼくらのクラスの文化祭での催しは、模擬店に決まった。
そのメニューは、ギャンブル好きなクラスメイトが多かったせいか、「おでん」になっていた。
焼きそばとか、フランクフルトといった、定番のメニューを避けた結果でもあったけれど、十月の半ばにしてはやけに攻めたメニューだった。
当日の日中が寒ければ、ギャンブルには勝ちだ。おでんはどんどん売れていくだろう。
でももし、その日が暖かかったら? 結果は、お察し、だ。
メニューさえ決まってしまえば、準備は順調に進んだ。
クラス委員を中心に、主に帰宅部連中が手伝って、食材や調理機器の準備を行う。
担任の協力を得て、生徒会へ提出する、保健所などに出すらしい各種書類を整える。
文化部は部活での制作に励み、運動部は秋の大会の練習を優先しながらも、空き時間で模擬店の外装を整えた。
その合間合間を縫って、水原と週一のペースでカラオケに行った。
彼女は一通り、『らおたんチャンネル』の曲を聞いたらしい。
そしてうまく歌える歌、歌いたい歌、声質が合う歌、ぼくが聞いてもっともよいと思える歌、などを探した結果、一番はじめに歌ったバラードが一番いいだろう、ということになった。
その曲はスローテンポで水原の声の質にもよく合うし、音程の高さだって、女子用のキーに変えやすいものになっている。
そしてその曲の練習自体は、あまり必要がなかった。
一通り歌詞とメロディーを覚えてしまえば、水原の歌はすでに完成されていた。
その歌を聴いているとき、ぼくは彼女がクラスメイトであることすら、忘れそうになる。
圧倒的な存在感がその歌にはあった。
そして歌い終えて、いつものちょっと変なクラスメイトがそこにいることに、驚きを感じることもある。
カラオケに行かない日の夜にも、スマホアプリで通話をしながら、ユーチューブでのカラオケ動画を使った練習に付き合ってやることもあった。
「水原ってさ、歌の練習ってしてるの?」
あるとき、スマートフォンの向こうの水原に、ぼくはそんなことを聞いた。
どうやっても音痴の治らないぼくにとって、純粋に興味があったからだ。
「いま、してるけど」
「そういうことじゃなくて。カラオケの練習っていうことじゃなく、歌自体の練習っていうかさ。普段はどうしてんのかな、と思ってさ」
スマートフォンの向こうで発生する、タイムラグ。
面と向かって話しているときには気にならなくなってきたが、電話だと若干気になる。
「練習、してるよ。歌、好きだもん」
話を聞くところによれば、水原の母親は音大出身らしい。
今では専業主婦になっているそうだが、本格的に音楽を学んでいたこともあり、水原にも様々なことを教えてくれるそうだ。例えば、歌の練習方法とか。
そんな話をしているうち、ぼくは徐々に重い気分に包まれてきていた。
特に音大の話がよくなかった。
もうすぐ文化祭が終わる。そうなれば、あれよあれよという間に三年生だ。
となると、そろそろ進路を考える必要があった。
「水原は進路、どうするの」
「進学を、考えてるかな。できれば音大に行きたい。ちゃんと学んで、曲とかも作れるようになりたい」
彼女なりに、好きな音楽へ関わっていく将来を、真剣に考えているらしい。
一方ぼくは、何も考えていなかった。
「近藤くんは?」
「どうしようかな」とぼくはあいまいな声を出した。「進学しようとは思ってるけど……」
しばらく、沈黙に包まれる。
「ちゃんと考えておかないと、ダメだよ」
珍しく水原にまともなことを指摘される。
ぼくはうめくことしかできなかった。
文化祭が間近に迫ってきたある日、文化祭の準備をしていたぼくらの教室の出入り口のところに、突然生徒会長が現れた。
きょろきょろとして何かを探す様子をしている彼と目が合う。
「あ、いたいた。ちょっと」
そんなことを言いながら手招きする彼に近づく。
「えーっと、君は……あの、一番乗りの少年」
「近藤です」そういえば、生徒会長はぼくの名前を知らなかった。
「水原美紀子さん、いる?」
ぼくは教室の隅で誰かが持ってきた少女マンガを読み、文化祭の準備をさぼっていた水原を発見した。
彼女を生徒会長の元へと連れていく。
「君が水原さんか」
うん、とうなずいて水原は不審そうな目をぼくに向ける。
どうやら生徒会長の顔を覚えていないらしい。
「今度のカラオケコンテスト、君の出場が決まったから。よろしくね」
そういって彼はA4の紙を水原に差し出してきた。それはどうやら当日配るためのチラシのようだった。
『らおたんチャンネル』の二人の顔が、表にデカデカと印刷されている。
その裏にはタイムスケジュールが書かれていた。
午後一時開始、と書いてあるその文字の脇に、生徒会長が胸ポケットから赤ペンを取り出し、「0:30集合」と書き込む。
「この時間までに体育館へ集まって。企画に出るみんなで、打ち合わせするから」
水原が小首をかしげて答える。わかっているのか、わかっていないのか。
それから生徒会長は、ぼくへと目を向けた。
「あと、君の要望通り、水原さんの出番は一番最後にしておいたよ。それじゃ、がんばってね」
生徒会長は明るい声でそんなことを言って、ぼくらの教室を去った。
上機嫌そうだった。あの様子を見ると、どうやら、応募者はスムーズに集まったみたいだ。
企画は成立するらしい。
「……あれ、誰?」
水原はやっぱりわかっていなかったようだった。
「生徒会長だよ。その時間、ちゃんと覚えておけよな」
水原はチラシをじっと眺め、そうだったんだ、とつぶやきながら二つ折りにしてポケットにしまい込む。
それからそそくさと元の場所での準備を再開しようとしたぼくの背中に、声をかける。
「近藤くん。今の、『君の要望通り』ってのは、なに?」
気づいたか。
ぼんやりしているくせに、最近なんだか勘がいい。
「せっかく出るんなら、と思ってさ」
あくまで軽いトーンでぼくが説明してやると、水原はやっぱり、口を尖らせていた。
「二番目ぐらいがよかった。一番最後とか……」
何やらブツブツいっている彼女の背中に、クラスメイトから声がかかった。
「なに、水原、カラオケコンテスト出るの?」
彼は運動部に所属している生徒で、彼と水原が話すのを見たことはあまりなかった。
帰宅部の間ではよく知られていたそのことを、彼は知らないらしかった。
「うん。出させられるの」
「へー。頑張れよ」
そんな会話は、水原の出場を知らなかった他のクラスメイトにも伝搬したらしい。
部活に所属していて、水原とあまり関わりのないクラスメイトたちが次々とやってきては、水原に激励の言葉をかけて去っていった。
それが余計なプレッシャーにならないことをぼくは心配した。
しかし水原は、まんざらでもなさそうだった。
それが良い傾向なのかどうかは、今のところはまだ、わからない。
良い傾向であれ、とぼくは願った。