5.めっちゃうまくなってるじゃん
いつものカラオケの部屋の中で、水原はなかなか歌いだそうとしなかった。
どうして歌わないんだ、とぼくがたずねると、彼女は案外、平気そうな顔で答えた。
「だってわたし、『らおたんチャンネル』の歌、知らないし」
「他の曲、歌えば」
「それだと、練習にならない」それから少しぼくの耳に顔を寄せ、小声で言う。「それに、はじめて歌う曲なら、少しぐらい下手だってしょうがないと思われるだろうし」
そんなものかな、とぼくは思う。
他人がそれまでにどんな歌を練習していようが、いまいが、あまり関係ないのではなかろうか。
しかし、緊張しがちな彼女にとって、その違いは大きいのかもしれない。
どちらかといえば、彼女の心理的に。
そんな水原の心を知ってか知らずが、クラスメイトたちのほとんどは『らおたんチャンネル』の曲を歌っていた。
さわやかなポップス調の曲が多かった。
カラオケの映像を見る限り、メインボーカルは『らおー』の方らしい。男性にしては、比較的高めの声のようだった。
曲自体はそう難しいものではなく、男子も女子も、声を合わせて歌っていた。
水原は、クラスメイトの女子との会話を挟みながら、時折、メロディーに合わせて鼻歌をふふふんと鳴らしていた。
水原がマイクを手に取らないまま、クラスメイトたちの手を二巡した。
水原が歌わない以上、ぼくもなんだか悪い気がして、黙ってクラスメイトたちの歌を聞いていた。
ぼくのその気兼ねは、他のクラスメイトにも伝わったらしい。
やがて、一向に歌おうとしない水原に、気を遣うような雰囲気が生まれたあたりで、クラスメイトが水原にたずねる。
「……で、水原さんはどうする?」
ちょっとしたタイムラグ。
一瞬、静かになったカラオケの店内で、水原が答える。
「うん。じゃ、歌う」
おー、と声があがり、みんながほっとしたように拍手をする。
ぼくもほっとする一方で、若干、水原のことを心配していた。
以前、クラスメイトたちとカラオケに行ったときの水原の歌は、ひどいものだった。
声が小さく、ほとんどガイドメロディーに重なっていて、まったくといっていいほど聞き取れなかった。
水原がタッチパネルで曲を選曲する。一度クラスメイトが歌った、緩やかなバラードだった。
水原が立ち上がる。そしてゆっくりと息を吐き出す。なぜかぼくの顔を見つめる。
ぼくはなんでか、その顔にうなずきかけてやる。
イントロが流れだす。
そして水原が歌いはじめた。
……その歌は、残念ながら、いつもの水原の歌とは違った。
普段の水原の歌声は、透き通っていて、そのくせ深みがある。
絶対に音程は外さないし、豊かな声量もあって、聞いていて心地よい。
その声にあるのは、水原美紀子という絶対的な個性だった。
どんな曲だって、彼女が歌えば、水原美紀子の歌になってしまう。
いま、クラスメイトの前で歌っているその歌にも、片鱗はある。
だが普段よりもずっと声は小さかったし、感情のこもらない、固い声で歌っている感じはぬぐえない。
前回の「ほとんどガイドメロディー」の歌ほどひどくはなかったものの、水原美紀子にしては、最低の部類の歌だった。
そしてアウトロが終わり、水原がソファーに腰を下ろす。
彼女を見つめるぼくの目に、気づいているのかどうなのか、水原はこちらを見ない。
ただ何か不服そうに、悔しそうにうつむいただけだった。
やっぱり、失敗だったかも、とぼくは思っていた。
成り行きでこうなったとはいえ、以前とは異なり、水原はクラスメイトたちとはずいぶん親しくなっていたはずだった。
なのにやっぱり彼女は緊張し、まともに歌が歌えなかった。
カラオケイベントなんかに参加させるのは、少し、早すぎたかも。
ぼくが後悔をはじめかけたそのとき、クラスメイトが拍手をはじめた。
ノリか、あるいは再び場を盛り上げるための拍手かと思っていたのに、なかなかその拍手は鳴りやまなかった。
水原も同じことを感じたらしい。彼女が戸惑って顔をあげると、クラスメイトたちが次々に言った。
「なに、水原、めっちゃうまくなってるじゃん」
「近藤と音痴仲間で練習してるとは聞いてたけど、そんな上手になってたんだ」
はじめは冗談か、あるいは慰めで言っているのかと思っていた。
でもやがて、クラスメイト達は本気で感心しているのだと気づく。
ぼくと水原は目を見合わせる。
「え?」
二人で声を重ねた後、クラスメイトへ目を向ける。
水原が、顔を赤くしはじめながら、おずおずとみんなにたずねた。
「……今の歌、どうだった?」
「すごくよかった。いい線、いくんじゃない」
男子の一人がそう答え、他のみんなも拍手を重ねた。
ぼくはなんだか、自分がひどく間違ったことをしでかしているように感じていた。
そんな表情は、褒められた後の水原もしていた。
照れながらも、困惑の方が大きいらしかった。
その後、水原は同じ曲をもう一回歌った。
また同じ曲か、なんていう反応は、誰もしなかった。
みんなはその曲に聞き入り、そしてやっぱり、最後には拍手喝采だった。